洞・町内の名物(25) 玉仁洞 松石園 | 一松書院のブログ

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 1924年7月29日付『東亜日報』の「洞内・町内の名物」で、玉仁洞オギンドンの名物として取り上げられたのは松石園ソンソグォンである。

 

◇善い人ばかりが人物でしょうか、悪い人もまた人物です。忠臣孝子だけが名を残すのでしょうか、乱臣賊子もまた名を残します。名目さえあれば名物なんです。北部衛生所は糞の臭いで名物、新門外の天然池はかぐわしい蓮の香りで名物。頼み事など持ち込まれっこない尹子爵の松石園とて、名物でないはずがありません。

◇ドイツ式建築を模し、ありとあらゆる贅を尽くしたこの家は、宮殿すら及ばぬほどだと言います。しかし、この家を見ると幼い子どもでさえ悪魔が巣食っているかのように不気味に感じ、立派な家だと羨む気持ちにはならないのです。とりわけ、あの尖った屋根の形がどれほど忌々しく見えたことか。屋根の上の避雷針を見るだけでも、ありとあらゆる陰険な企みがそこから湧き出してきそうに思われるほどです。この家の庭の池がある年の長雨で決壊し、町内の草葺き家屋が水浸しになったことがありました。その損害は、邸宅側で弁償したそうで、それほどまでにご親切なんだということのようです。

◇会洞には「具善福の橋」という橋があり、桂洞へ上がる西側の路地は「洪述海の谷」と呼ばれています。門の前の橋や、そこで暮らす路地の人々に何かお咎めがあるわけではありません。この家も、「松石園」などとは呼んだりせずに、「尹子爵の邸宅」と呼ぶべきではないですか。青い松も白い石も、さぞかし無念に思っていることでしょう。

■「尹子爵」とは誰か

 この記事にある「ユン子爵」とは、尹徳栄ユンドギョンのことを指している。6月29日付の松峴洞ソンヒョンドンの名物・殖銀村の記事には、尹沢栄ユンテギョンの兄として「でか頭将軍(대갈장군)と呼ばれている尹徳栄」と登場している。後頭部が出っ張っていたことから来たあだ名とも言われるが、韓国併合によって甘い汁を吸った横柄な欲張りという意味合いを込めた揶揄でもあったとされる。

 

 

 

 祖父の尹容善ユンヨンソンは朝鮮王朝から大韓帝国にかけての重鎮で、養子の尹徹求ユンチョルグが早世したため、孫の尹徳栄・尹沢栄兄弟を皇室に積極的に売り込んだ。その結果、尹沢栄の娘が高宗コジョン皇帝の息子と結婚し、皇太子妃となった。皇帝(純宗スンジョン)即位後の純貞孝スンジョンヒョ皇后である。

 この縁戚関係を背景に、兄の尹徳栄も次第に権勢を強めていった。尹沢栄の屋敷があった松峴洞の西側、現在の司諫洞サガンドン97番地に大邸宅を構えた。景福宮キョンボックン東側の一等地である。

 

■巨大邸宅の造営と「碧樹ピョクス山荘」

 尹徳栄は、日本による韓国併合の過程で、宮廷内部において皇族やその周辺に日本への迎合を働きかけた。その見返りとして、日本から子爵の爵位と公債証券46万ウォンの恩賜金を受け取っている。現在の貨幣価値に換算すると、200億ウォンを超えるとも言われる。

 

 尹徳栄は、この恩賜金をもとに、朝鮮王朝時代から「松石園」と呼ばれていた玉仁洞山側の土地を買い集めた。韓国を日本に売り渡した元凶とされる李完用イワニョンも玉仁洞に土地を所有していたが、その所有地の広さは尹徳栄が李完用を凌いでいた。

 

최종현,김창희編『오래된 서울(古きソウル)』(2013)より

 

 ここに建てられたのが、ヨーロッパ貴族の居城を思わせる大規模な洋館である。『東亜日報』の記事ではドイツ式建築とされているが、フランス領事館から持ち出されたフランス貴族の邸宅の設計図をもとに建てられたとも言われている。

 

 1913年に着工し、1917年頃に主要部分が完成したが、細部の仕上げ工事は1935年まで続いた。1924年当時、この洋館は迎賓館や宴会場として使用されていたが、尹徳栄自身はここを居宅とはせず、敷地東側に建てた韓屋に住んでいた。敷地内には側室のための韓屋なども建てられていたという。

 

 この記事では、「具善福グソンボク橋」とか「洪述海ホンスレ谷」とかの例を揚げて、ここも「尹子爵邸」とでも呼べばいいではないか…と皮肉って書かれている。具善福、洪述海はいずれも朝鮮王朝後期の両班で、その名が地名で使われていたということらしい。

 

 この時期には、この尹徳栄の所有地一帯が「松石園」とも「碧樹山荘」とも呼ばれ、洋館の呼称は定まっていなかったようだ。やがて、「碧樹山荘」は、もっとも目立つこの洋館の呼称のように使われるようにもなる。 

 

1929年頃『오래된 서울』(2013)より)

■水害・宗教施設・そして解放へ

 邸内には池があり、舟遊びまで行われていたという。しかし、大雨の際には裏手の仁旺山イヌァンサンからの渓流が増水し、この池が決壊することがあった。1920年8月5日付の『朝鮮日報』には、次のような投書が掲載されている。

世間では水害に遭った人々を救済していると言われているのに、玉仁洞にお住まいの尹大監どのは、自宅の前に大きな穴を掘ったままにしておき、雨が降るたびに決壊しそうになって、その下に住む住民の家を危険にさらしている。今回もまたその穴が崩れ落ち、下にあった家四十余戸が倒壊した。けが人まで出たというのに、まったく知らぬ顔で平然としている。こんなことがあってよいのだろうか。(隣居生)

 近隣住民の強い反発もあり、『東亜日報』の記事にあるように、最終的には水害被害を補償せざるを得なくなったのだろう。

 

 1935年、洋館の全工事が完了すると、この豪奢な建物は「世界紅卍字会ホンマンジャフェ」朝鮮支部の道院として使用されるようになった。宗教的修行の場であると同時に、慈善活動の拠点でもあった。尹徳栄は同会朝鮮支部の長「主会統長チュフェトンジャン」を務めている。「紅卍字会」は中国発祥の道教系新興宗教だが、宗教の違いを超えた救済を理念に掲げ、当時盛んに慈善活動を行っていた団体である。

 

『大京城府大観』(1936)

■解放後の変転と消滅

 尹徳栄は1940年10月に死去した。遺産を相続した養孫の尹康老ユンガンノは、1945年8月、日本敗戦直前に三井鉱山株式会社へこの土地を売却したとされる。具体的な契約資料は確認されていないが、もともと、碧樹山荘の南側、棲上洞ヌサンドンには三井物産京城支店長の社宅があったりして、何らかのつながりがあった可能性は考えられる。

 

 朝鮮戦争中、ソウルが北朝鮮人民軍の占領下に置かれた際には、この洋館は朝鮮民主主義人民共和国庁舎として使用された。その後、国連軍・韓国軍によるソウル奪還後は、アメリカ軍将校宿舎、さらに国連韓国統一復興委員団(UNCURK)の本部として利用されていた。

 1950年代後半に、写真家の金漢鏞キムハニョンが仁旺山から撮影した写真に、この頃の碧樹山荘が写っている。



 

 また、1956年11月に公開された映画『ソウルの休日(서울의 휴일)』にも、この洋館が登場する。朝鮮戦争後のソウル市民の生活を群像劇として描いたこの映画では、女性産婦人科医師の病院の裏手に碧樹山荘が映り込み、遠景には旧朝鮮総督府の建物も確認できる。

 

서울의 휴일(1956) 

 

 しかし1966年4月、改修工事中に火災が発生し、建物は大きな損傷を受けた。最終的に1973年、洋館は完全に解体・撤去された。


 現在、鍾路区チョンノグ玉仁洞47-27および47-33の住宅街には、当時の石造門柱の一部が残されている。また、鍾路区立朴魯寿パンノス美術館として使われている玉仁洞168-1の二階建て家屋は、1938年頃、尹徳栄の娘夫婦のために建てられた建物である。

 

石造門柱(Kakao Mapストリートビューより)

 

 さらに、忠武路チュンムロ南山ナムサンゴル韓屋ハノンマウルには、碧樹山荘関連建築として「玉仁洞尹氏家屋」が移築・保存されている。1998年4月の開園当初は「純貞孝皇后尹氏実家」と表示されていたが、2008年の史料調査によって、碧樹山荘内にあった妾宅の復元であることが判明し、2010年からは説明文が大幅に書き改められている。

 

 


 こうして見ていくと、松石園――碧樹山荘は、単なる洋館の豪邸というよりも、近代朝鮮の権力構造、日本統治、宗教活動、そして解放後の朝鮮戦争と都市再編までを引き受けた場所だったことが分かる。いま現地に立っても、当時の建物そのものを見ることはできないが、門柱の石や残された家屋を手がかりに、その痕跡をたどることはできる。1924年に名物と呼ばれた玉仁洞の松石園は、今日においても依然、名物と言える場所なのである。

 

 


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