尹錫悦大統領の逮捕をめぐり、大統領警護処が注目されている。
警護処の前身は、朴正煕時代の1963年に置かれた警護室。警護室長は長官級(大臣相当)で、大統領の信頼する側近として、身を挺して大統領の警護にあたるだけでなく強い政治的な影響力をも持っていた。
1974年8月15日、奨忠洞の国立劇場で行なわれた光復節記念式典で、文世光が壇上の朴正煕大統領に発砲した際には、朴鐘圭警護室長が大統領後方から拳銃を抜きながら飛び出している。
1979年10月26日に中央情報部長の金載圭が、大統領朴正煕と警護室長車智澈を宴席で射殺した。
その事件の捜査にあたった陸軍保安司令部司令官の全斗煥が、12月12日に粛軍クーデターを起こして実権を握った。その後、大統領に就任した全斗煥は、張世東を警護室長にした。張世東は12・12クーデター当時、首都警備司令部の30警備団の団長で、上官の張泰玩司令官の命令を無視してクーデター勢力側に加担した。
しかし、「民主化宣言」後の盧泰愚政権以降、特に文民政権時代になると、警護室長は独裁政権時代のような大統領の政策的な側近という色彩は薄れ、大統領の警護業務に重点が移った。
李明博が大統領に就任した2008年、政府機関を「13部2処」に縮小改編したが、同時に大統領府も、警護室を大統領秘書室の下に警護処とした。「室」から「処」に格下げになり、警護処のトップの処長も次官級となった。
ところが、朴槿恵政権の時に再び警護処を警護室に戻して、秘書室と国家安保室、警護室の3室体制にし、警護の責任者も次官級から長官級に戻した。権威主義時代への逆行だとの批判も噴出した。
朴槿恵罷免後に大統領に当選した文在寅は、大統領警護を、警護室から警察庁警護局に移管するとの公約を実現しようとしたが、大統領府から切り離すのは困難ということで、警護室を警護処として秘書室の下に置くにとどまった。
2022年の尹錫悦就任後も、警護処の制度はそのまま引き継がれたが、最初の警護処長に任命したのは中将で軍を退役した金龍顕であった。退役中将が次官級のポストに就くのは異例だった。金龍顕処長のもとで、この年11月には、警護処長が警護業務を支援する軍と警察を直接指揮できるように大統領警護法施行令を改訂しようとした。
大統領警護法施行令改定案
処長は、警護業務を効率的に遂行するため、必要な場合に警護区域において警護活動を遂行する軍・警察等関係機関の公務員に対する指揮・監督権を行使する
この結果、警護処長は、警護処の700名の人員に加え、
警察
22警察警護隊
101警備団
202警備団など 1,300名
軍
55警備団
33軍事警察警護隊 など 1,000名
に対する指揮・監督権を行使できることになる。
1974年、車智澈が警護室長となった時、首都警備司令部隷下の部隊の一部(30警備団)を警護室長の指揮系統に組み込んだ。この金龍顕処長のもとでの改訂はその再来だとの批判が強まった。野党や在野の強い反対に、大統領側は、「指揮・監督」のフレーズを「関係機関の長と協議」に変更することで翌年5月にこの施行令の改訂を通した。
そして、2023年8月、金龍顕を国防部長官の候補者に指名した。その後任の警護処長には、9月9日付で朴鍾俊が任命された。
朴元次長は、忠南公州出身で警察大学行政学科(2期)を卒業し、第29回行政試験に最年少で合格。ソウル地方警察庁捜査部長、忠南地方警察庁長、警察庁企画調整官、警察庁次長を経て、朴槿恵政権下の2013年に大統領府警護室次長に任命された。朴元次長は2012年と2016年の総選挙にセヌリ党候補として出馬したことがある。
警察官僚出身だが、保守派政治色の強い人物だとされる。
ちなみに、「〜処」は、韓国の役所の一つで、特定の機能や業務を担当する独立した部署を指し、主に中央行政機関の名称に使われる。高位公職者犯罪捜査処(公捜処)もその一つ。「部」「室」の下位に位置する。
日本の官制には該当する役所名がないので、日本語の報道などでは「〜省」(大臣)よりも1ランク下ということで「〜庁」と“置き換え”て表記するケースと、「〜処」をそのまま漢字表記するケースとがみられる。ここでは、そのまま「〜処」と表記した。



