一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1970年11月10日〜13日、日本人の団体が韓国を旅行した時の8mmビデオがYouTubeにアップされている。



 

 残された映像から、日程・旅程を推測しながら1970年の韓国を振り返ってみよう。

◆11月10日(火)

伊丹空港→金浦キンポ空港
 空港から貸切バスで市内中心街の大然閣テヨンガクホテルへ。当時、この大然閣ホテルのビルが、三一サミルビルに次いで二番目に高い高層ビルだった。

 


 

大然閣ホテル泊
 

◆11月11日(水) 

 朝、ホテルの窓から北西側を撮影。右端奥が仁旺山イナンサン、眼下の新世界シンセゲ百貨店(旧:三越)、第一チェイル銀行本店(旧:貯蓄銀行)。左手に見える高いビルは、この翌年10月に東急ホテルがオープンするビル(現:DANAMビル)。


 

 北側を撮影。右手前屋上が中央郵便局(1969年完成)、その奥に大韓航空テハナンゴンビル、中央が商業サンオプ銀行(現:Kファイナンス・タワー)、左手前が韓国銀行(現:貨幣博物館)。

 

 その後、大然閣ホテル前で撮影。ホテル1階の韓国外換銀行忠武路支店は、まだ開店前でシャッターが下りたまま。そこからホテルビルを下からあおって全景を撮影。


 この大然閣ホテルは翌1971年12月25日に火災を起こしてほぼ全焼した。死者163人を出す大惨事だった。この映像は、火事になる前のホテルの様子を撮った貴重な映像ということになる。大然閣ホテルの前にあった歩道橋は、この火事の時の現場写真にも出てくる。

 

 

 この歩道橋の上からも撮影している。上が丸いビルは南山ナムサンに7月25日にオープンしたばかりのオリニ会館(その後国立中央図書館になり、現在はソウル市教育研究情報院)。手前の十字架は盲人教会。この歩道橋上からは、現在の地下鉄4号線の明洞ミョンドン駅方面も撮影している。右側手前は教育保険(キョボ)ビル(現:ニューオリエンタル・ホテル)、その先はコリア・ヘラルドのビル。

 

 そして歩道橋の上の物売り。歩道橋や地下道ではよく物売りが営業していた。

 

 その後、ソウル駅→元曉路ウォニョロ→ソウル大橋(現:麻浦マポ大橋)→永登浦へヨンドゥンポと移動。

 

 この移動中のバスのフロントガラスに団体名表示が見える。「韓国の旅 日本萬兵(株)訪韓団」と読める。名古屋のアパレル卸売業「万兵(まんひょう)」の顧客招待旅行ではないかと思われる。

 

 移動の途中、漢江ハンガンを渡る前に、進行方向右手に見えるアパートは、1969年に建てられた山泉サンチョン市民アパート。

 

 

 同じ時期に同じように建てられた臥牛ワウ市民アパートが、この旅行の半年前、4月8日に倒壊して34人が死亡するという惨事が起きた。手抜き工事が原因だった。そのため多くの市民アパートは早々に取り壊されたが、この山泉市民アパートは1990年代まで残っていた。その後、民間に売却され、現在はリバーヒルサムスンAPTが建っている。


 一行は、この年5月16日に開通したばかりのソウル大橋(現在の名称は「麻浦大橋」)を渡って汝矣島ヨイドから永登浦ヨンドゥンポに向かった。汝矣島はまだ開発に本格着手される前で、河川敷に水が溜まっている。

 


 

 人々が行き交う街中に、鉄道の踏切がある。この線路は永登浦の駅から京城紡績キョンソンパンジク京紡キョンバン)の工場に向かう引き込み線で、植民地時代から2000年頃まであった。京城紡績は1970年7月に社名を「京紡」に変えている。京紡は韓国の綿紡績の最大手であり、万兵が京紡(または京紡の糸を使った韓国の縫製工場)と取引をしていた可能性は十分に考えられ、その工場へ顧客を案内したものかとも思われる。

 

 

 紡績工場の見学を終え、ソウル市内中心部へ戻って昌徳宮チャンドックンを参観。仁政殿インジョンジョン宣政殿ソンジョンジョン大造殿テジョジョンなどを巡り、秘苑ピウォン芙蓉池プヨンジ魚水門オスムンまで足を延ばしている。秘苑入口右手に位置する楽善斎ナクソンジェは、1963年11月に韓国へ帰国した李垠イウン方子マサコ夫妻の居宅だった。李垠は1970年5月1日に逝去したばかりであり、この点についてガイドの説明があった可能性は高い。しかし、楽善斎の映像は残されていない。私的な生活の場で非公開であったうえ、夫妻の人物像が当時の日本人には十分に知られていなかったことも一因と考えられる。

 

 その後、貸切バスで南山公園へ。今は南山の観光道路で上まで上がれるのは01A・01B・TOUR01・04などの路線バスに限られているが、1970年当時は自家用車、タクシー、貸切バスなどで自由に上がることができた。南山タワーが完成するのは1971年末。1970年11月当時は一番高いところには八角亭とテレビの送信塔、それに着工から1年目の南山タワーの工事現場しかなかった。ケーブルカー(ロープウェイ)は1962年5月に完成して運行していた。

 

 

 新婚夫婦が飾り付けをしたタクシーで南山に上がって来て写真を撮っている場面、靴磨きの少年が注文取りをしているところなどが写っている。

 


 ソウルから儒城ユソン温泉へ移動。儒城万年荘マンニョンジャンホテル泊

◆11月12日(木)

 儒城観光ホテルの新館と万年荘ホテルを撮影。

 

 

 その後、京釜高速道路で慶州へ向かう。京釜高速道路は1968年に着工し、ソウルから釜山まで全線開通したのは1970年7月だったので、開通してから4か月目。途中、秋風嶺チュプンリョンに立ち寄っている。

 

 1972年封切りの映画「0時ヨンシ」に、グレイハウンドのバスガイドが秋風嶺と慰霊塔の案内をする場面がある。

 

乗客の皆さま!左手に見えます塔は、京釜高速道路の工事中、不幸にも命を落とした産業戦士7名の英霊を追悼するために建てられた慰霊塔であります。
これより、かつて「雲でも休んでいく」といわれた秋風嶺に上がって10分間の休憩を取っていただきます。ソウルからここまでが214キロメートル、乗客の皆さまはソウルと釜山のちょうど中間地点に到着したことになります。

 この後、高速道路の途中で中央分離帯のないところを撮っている。これは非常時に滑走路として使用する区間なのだが、特に軍事機密というわけでもなかったらしい。この映像も事前にガイドに教えられて撮影したものだろう。

 

 儒城温泉から慶州キョンジュまでは高速道路で3時間弱。慶州で石窟庵ソックラム仏国寺プルグクサ、そして市内の瞻星台チョムソンデを撮影している。今であれば、瞻星台の周りには月城ウォルソン半月城パノルソン)、月池ウォルチ雁鴨池アナプチ)、大陵苑テヌンウォン天馬塚チョンマチョンなど見どころが多い。だが、慶州155号の古墳が発掘されて天馬の描かれた泥よけの飾り板が出土したのが1973年。復元した古墳の一般公開が始まるのは1975年。雁鴨池の調査が始められたのは1974年11月。1970年には、慶州155号墳は単なる古墳、雁鴨池は単なる池でしかなかったので、映像は瞻星台のものしかないのだろう。

 

 慶州から釜山プサン海雲台ヘウンデまでは、高速道路で約1時間半。

 

 海雲台観光ホテル泊。


◆11月13日(金)

 

 海雲台観光ホテルは、観光行政を管轄する交通部の直営ホテルだった。

 



 冬栢島トンベクソム朝鮮チョソンビーチホテルの建設は1975年に始まり、翌年から営業開始なので、1970年には海雲台のビーチから冬栢島まで自然の景観に近い海雲台を見ることができた。

 
 釜山では、フライトの時間の関係で、龍頭山ヨンドゥサン公園、南浦洞ナンポドン、チャガルチ市場などの中心街には行かずに、水営スヨン飛行場に近いUN墓地の見学のみとなった。

 

 UN墓地には参戦国11か国(イギリス・トルコ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・オランダ・フランス・フィリピン・タイ・南アフリカ共和国・韓国)の2,300柱以上の戦死者が埋葬されており、国連が管理している。この頃の外国人観光では、朝鮮戦争関連で国連軍・韓国軍の勇敢さや北朝鮮の非道を強調する、いわゆる「安保観光」が推進されていた。UN墓地もそうした場所のひとつとしてコースに組み込まれることがよくあった。

 

 1970年当時は周囲は閑散としていたが、今はアパートや公共施設に囲まれている。ただ、当然のことながら、墓跡や顕彰碑は当時のままである。




 その後、水営飛行場から大韓航空の午後便で伊丹空港に飛び立った。

 

 こうして1970年11月の3泊4日の韓国の旅は終了した。

 フィルムに映る風景は、急速に変貌を遂げる直前の、1970年の韓国の姿を伝えている。

 現在の韓国語では使用されていない古ハングルを、無料で自分のパソコン上で入力・表示する方法

『訓民正音解例本』

 

◆フォント(Mac Windows 共通)

 NAVERの無料フォント(Nanum YetHangulシリーズ)をダウンロードする

 네이버 한글한글 아름답게 캠페인 글꼴모음

 

 

「나눔고딕 D2coding」と「나눔명조한글」の二つをダウンロード

 解凍すると「NanumBarunGothic-YetHangul.ttf」と「NanumMyeongjo-YetHangul.ttf」が生成されるので、それぞれをダブルクリックしてインストールする

 

◆入力システム(Mac)

구름 입력기(Gureum Input)を、以下のようにダウンロードしてインストールする

・「설치하기」 → 「최신 버전 내려받기 링크」 → 一番下のAssetsでpkgファイルをダウンロード

・Macにpkgファイルをインストール

・Macの「システム設定」を開き、「キーボード」→ 「入力ソース」の右の「編集」をクリック
・左下の 「+」 ボタンを押し、左側のリストで「韓国語」を選び、「☁️Han 2set Classic」を選択して「追加」
 

*もし、ここに ☁️Han 2set Classic が出てこない場合は、Macを再起動する

 

キーボードの配置は以下の通り(下段がShift)

 ※Pagesでの入力が最も安定している。MS Word では一部パッチムが分離することがあるので注意

 

◆入力システム(Windows)

Windowsには古ハングル入力が可能なシステムが内蔵されている

・Windowsで「設定」を開く

・「時刻と言語」→「言語と地域」

・「韓国語」がインストールされていなければ「言語の追加」で韓国語を追加

・韓国語の横にある 「オプション」 または 「…」 をクリック

・「キーボード」または「入力方式」のセクションにある「レイアウトを変更する」をクリック
・そこで「Microsoft Old Hangul」を選択


 


補足
「ㆍ字」(アレアッチャ) は、20世紀初頭まで使用されていた。

 

なお、現在韓国で広く使われている文章作成ソフトは Hancom社ので、通常「アレア・ハングル」と呼ばれている。

 

 2023年9月13日、北朝鮮の金正恩キムジョンウン総書記がウラジオストクでプーチン大統領と首脳会談を行った。
その前日、北朝鮮とロシアの国境・豆満江トゥマンガンにかかる鉄道橋を渡ってハサンに向かう、金正恩総書記の乗った特別列車の映像をAP通信が流した。この映像は、中国吉林省の防川の展望台から撮影されたものだ。

 

動画の冒頭の鉄橋がかかっている川の向こう岸が朝鮮民主主義人民共和国、左手前側がロシア連邦

 

 防川というのは、中華人民共和国とロシア連邦、そして朝鮮民主主義人民共和国、この3カ国の国境が交差する場所である。豆満江(中国名:図們江)の河口から約15キロはロシアと北朝鮮の国境線で、豆満江は国際河川だが、中国は海への出入り口を朝・露に抑えられた形になっている。

 

 

 30年以上も昔のことになるが、1992年7月初めに防川に行くことができた。その時の様子を、その直後に知人に書き送った手紙が出てきた。

 7月の初めに、吉林省防川という中国の東端の袋小路の先端に行ってきました。      

 1860年に清がロシアとの北京条約で沿海州を失って以来、15キロ先に日本海を見ながら海への出口を失った吉林省の行き止まりで、中国・ロシア・北朝鮮の国境が一点に集まったところです。4年前から何とか行かせてくれといろいろ頼んでいたのですが、軍の許可が取れず、行けなかった念願の地でした。このところ、中・露・南北朝鮮、それに日本も含めた「環日本海経済圏」や「豆満江の河口開発」などが話題となり、一躍この中国の行き止まり地方も脚光を浴びはじめ、そのおかげもあってか、ようやく許可がおりました。実は『国際学研究』に書いた話の舞台でもあります。
 琿春という町から、トヨタのランドクルーザーで2時間。途中、河川の侵食で領土を失った中国が川の中に堤防を造って「領土」を確保しているところもあり、1938年に日本とソ連が戦略上の要衝として争奪戦を繰り広げ、双方で戦死者1600名、負傷者5000名余りを出した張鼓峰事件の張鼓峰もあります。張鼓峰は150メートルにも満たない小さな丘で、そこに1600人分の墓地を造るのは無理だと思える大きさです。
 最後のところはずっと狭い道が続き、最後の最後に19世紀の終わりに清・露で建てた石碑があって、そこで中国領土はおしまい。その石碑には、
 土字牌
  光緒十二年四月立
とあります。石碑の裏側にはキリル文字で「T」の字が刻まれているはずなので(「土」は発音がトゥなのでTに当てられたもの)、さっそく裏に回って見ようと思ったら、警備の解放軍の兵士に制止されました。石碑の中心線から向こう側はロシア領なので行ってはいけないというのです。「では、ちょっと顔を出してのぞくだけでも」と言ったら、これもダメ。「手だけ出して写真を撮る」もダメ。結局最後まで裏側を見ることはできませんでした。本当に融通のきかない軍人で、私がその場を離れるまでしっかりマークされてしまいました。
 朝・露間の鉄橋が目の前にあり、ロシアから北朝鮮向けに送られるトラックを満載した貨車がゴットンゴットンと鉄橋を渡っており、その向こうには日本海らしきものが見えます。中国人ではない私ですら、「なんでこんな大事なところをロシアに渡したんだ? とりあえず海への出口だけは確保しておけばよかったのに…」と愚痴を言いたくなります。特に、現在の改革・開放が沿海地方を中心に進み、内陸部は取り残されるという傾向が顕著ですから、海に出られるというのは今日的発展のために極めて重要な必要条件なのです。

 そのうち中国側が沿海州の一部を取り返そうなどと考えるかもしれません。まぁ、現実的ではないですが…。

 清が沿海州をロシアに割譲したのは、北京条約を締結した1860年。第二次アヘン戦争(アロー戦争)で英仏連合軍が北京を占領する中、ロシアは「仲介」を名目に介入し、東シベリア総督ムラヴィヨフが清と交渉して黒竜江とウスリー川の間、すなわち沿海州一帯を手に入れた。

 

 清は、中国東北部に住むジュルチェン(のちにマンジュ(満洲)と自称する)が建てた王朝国家。そのため今の遼寧省や吉林省は、皇帝の祖宗の地として立ち入りを禁じた(封禁)。朝鮮は鴨緑江アムノッカンと豆満江の越江を禁じた。

 

 その「封禁」が緩み始め、漢族や朝鮮人、さらにロシア人までがこの一帯に入ってくるのが19世紀半ば以降である。そうしたこともあって、1886年5月、清の呉大澂とロシアのバラノフが清とロシアの境界碑として建て直したのがこの「土字牌」。1860年の北京条約では、清とロシアの境界に、豆満江の河口側からキリル文字でU・T・S・L・P…と表示した標識を立て、清側の面には漢字の音をとって烏・土・薩・啦・帕…と表示すると定められている。つまり、防川の「土字牌」はロシア側にキリル文字でTと描かれているはずなのだ。その痕跡だけでも確認できればと思ったのだが、残念ながらできなかった。

 

筆者撮影(1992年7月2日)

 

松本和久「初期満ソ国境紛争の発生と展開」『境界研究』No. 8(2018)より作成

 私が防川を訪れることができた1990年代初めには、環日本海経済圏構想が注目されていた。1970〜80年代から日本海側の地域振興策としてアイデアはあったが、冷戦の終焉とともに一気に脚光を浴びた。1991年のソ連崩壊、日本と北朝鮮間の外交交渉の開始、南北朝鮮間での高位級会談など、環境が好転したと思われた。日本海が国際回廊となり、日本・ロシア・韓国・北朝鮮・中国東北部をつなぐ物流圏を形成する。そんな期待が高まった。

 

日本経済新聞 1992年10月29日朝刊

 

 特に野心的だったのが、中国の延辺朝鮮族自治州の“海への突破口”構想である。中国東北の延辺は内陸に閉じ込められていることが最大の弱点だった。そこで、豆満江の河口を浚渫し、約15キロ上流の琿春までを国際河川として日本海への航路を確保するという計画が浮上した。実現すれば中国が直接日本海へ出られることになり、ロシアと北朝鮮の間、さらに日本・韓国とも新たな交易ルートが確保できるという大胆な発想だった。国連開発計画(UNDP)も巻き込んだ開発計画で、日本側でもこのルートに注目し、新潟・境港・敦賀などが“対岸ビジネス”に期待をかけた。

 

 1992年夏には、延辺朝鮮族自治州の延辺や琿春では、日本海に出られさえすれば一気に改革・開放の波に乗れるという熱気が渦巻いていた。翌1993年8月、中国新聞国際部の伊東雅之記者が防川まで取材に訪れている。この時には、すでにかなりの観光客が防川まで入っており、展望台や売店の建設が始まっていたという。

 

 1993年4月には、「中露国境東部区間の再画定に関する規則」が中国とロシアの間で合意され、中国側は「土字牌」から135.6メートル、朝露間の鉄道橋から511.9メートルの地点に新たな中露国境標が設置されたと報じられた。これにより国境線はロシア側にやや移動し、「土字牌」の位置は中国領内ということになった。8月に現地に入った伊東記者は、案内人から「あそこあたりまでが中国領になる」という話を聞いたという。おそらく8月はまだ境界線の引き直し作業中だったのだろう。

 

 だが、環日本海経済圏構想の勢いは長続きしなかった。ロシア極東の港湾事情は改善せず、北朝鮮は政治的リスクが大きく、中国も東北振興の優先度は低いままだった。そのため数年でこの構想は熱気が薄れ、次第に忘れられていった。それとともに、延辺朝鮮族自治州の豆満江河口開発の夢もしぼんでしまった。

 韓国政府が国連地名標準化会議で「日本海」ではなく「東海」を主張したのが1992年である。1990年代後半以降、韓国は併記を求める外交を強めた。これが経済圏構想を暗礁に乗り上げさせた直接の要因ではなかったが、環「日本海」経済圏構想の関連会議の運営を難しくし、結果として熱量の低下を招いたことは否めない。

 

 あれから30年。防川は、中・朝・露3カ国の国境が交わる場所、さらにロシアと北朝鮮の往来の現場を目視できる場所として観光地となっている。ブログなどにも訪問記や写真がアップされている。しかし、環日本海経済圏の構想があったことも、豆満江河口開発の話があったことも忘れ去られているようだ。

 

 「土字牌」のロシア側にあったとされる「T」も、いまや中国領内となった以上確認は難しくないはずだが、残念ながら私はもう行く機会はなさそうだ。ネットを探しても表側ばかりで、裏面の写真はついに見つからなかった。いつの日か、誰かがその「T」を確かめ、長年の小さな宿題を果たしてくれることに期待したい。