一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

Photograph of Koreaに、1920年頃とされる貞洞チョンドンの写真がアップされている。

Photograph of Korea

 

当時の貞洞とその周辺の状況を見ていきたい。

中和殿チュンファジョン
徳寿宮の正殿にあたり、国家儀礼や公式行事が行われた建物。大韓帝国期、高宗コジョン皇帝が徳寿宮トクスグンを皇宮として整備する中で中枢施設となった。

中和門チュンファムン

石造殿ソクジョジョン
大韓帝国期に高宗皇帝が近代国家の象徴として西洋式宮殿の建設を命じ、イギリス人建築家ハーディング(J. H. Harding)が設計。1900年頃に着工したが、政治情勢の変化や財政難などで工期は長期化し、日韓併合の年の1910年に完成した。

大漢門テハンムン
もとは「大安門テアンムン」だったが、1906年に「大漢門」の扁額を掲げた。

惇徳殿トンドクジョン
1902〜03年に徳寿宮に建てられた西洋式の迎賓施設。高宗皇帝が外国使節の接遇や宮中行事に用いるため整備し、近代化を象徴する建物の一つだった。
1907年、惇徳殿の窓際に立つ高宗・純宗スンジョン英親王ヨンチンワン李垠イウン)の写真が残っている。

1919年に高宗皇帝が亡くなると放置状態となり、1920年代半ばに撤去された。
2023年に建物が復元され一般公開されている。

⑥ 旧・大韓帝国度支部タクチブ(旧庁舎)
朝鮮総督府期には財政・会計・税務系官庁として使用された。現在のソウル市議会別館の位置にあたる。

⑦ 旧・大韓帝国度支部新館(増築庁舎)
1910年の韓国併合後、中枢院の庁舎として使用された。現在のソウル市庁西小門ソソムン別館の位置にあたる。
※ この⑥・⑦の度支部庁舎については、国家記録院「日帝時期建築図面」コレクションに図面が残っており、3D復元も公開されている。

⑧ 惇徳殿北側/璿源殿ソヌゥオンジョン跡と海印寺ヘインサ中央布教所
惇徳殿の北側には璿源殿があった。璿源殿は朝鮮王室の歴代王の御真(肖像画)を奉安し、祭祀も行った殿舎である。韓国併合後、璿源殿は縮小・整理され、1910年代後半、海印寺住持の李会光イフェグァンが「海印寺中央布教所」名義でこの敷地を取得した。さらに璿源殿の永成門ヨンソンムンを撤去した跡地に仏教施設を建設し、1920年12月に「入仏式(開所・開堂式)」を行っている。


位置関係からみて、この⑧の瓦屋根の建物は「海印寺中央布教所」である可能性が高い。

⑨ アメリカ領事館
1883年5月、初代アメリカ公使フートがソウルに着任した。英語通訳を務めた尹致昊ユンチホの仲介により、閔啓鎬ミンギョンホ閔泳敎ミンヨンギョの邸宅を購入して公使館とした。
1905年の第2次日韓協約(乙巳条約)により大韓帝国は外交権を失い、アメリカ公使館は閉鎖され、京城では領事業務のみを行う領事館となった。

⑩ イギリス領事館
イギリスは1885年5月、申櫶シンホンの邸宅を購入して公使館を開設した。1890年には韓屋を撤去して洋式建物に建て替え、この建物は現在もイギリス大使館敷地内に残っている。
アメリカ同様、1905年以降、京城では領事業務のみの体制となった。

 

⑪ ロシア領事館
ロシアは1884年に貞洞の高台にあった徳寿宮の庭園地を購入したが、資金難のため建物建設は中断した。1888年にウクライナ人建築士サバチンを雇い入れて設計・施工を進め、1890年に竣工した。

1904〜05年の日露戦争期には閉鎖されたが、ポーツマス条約以降、領事業務を再開したとみられる。しかし1917年のロシア革命によって帝政ロシアが崩壊し、その後は京城での領事館機能も維持困難となった。
1922年にソビエト連邦が成立した後も、日ソ間に外交関係がなかったため、京城での領事業務は再開されなかった。  

慶煕宮キョンヒグン跡地の区画整理
慶煕宮の跡地は区画整理が進んでいる。1933年の『京城市街図』では「官舎」と表記されており、総督府官舎が建てられる前の様子と考えられる。。

⑬ 京城中学校
1910年に慶熙宮の跡地に校舎が完成した。

⑭ 慶熙宮崇政殿
京城中学の校地内には、慶熙宮の正殿だった崇政殿スンジョンジョンが残され、1924年まで京城中学の施設として使用された。1926年に大和町3丁目の曹渓寺チョゲサ(現・東国トングク大学付近)に移築された。

興化門フンファムン
本来は慶熙宮の正門として崇政殿の前に立っていたが、1915年8月に道路工事を理由に京城中学敷地の南側(塀沿い)へ移築された。

その後、1932年に奨忠壇チャンチュンダンに新築された博文寺の正門とするため再移築された(現在のホテル新羅シルラ正門の場所)。1988年に慶熙宮の入口として復元された。ホテル新羅の入口にはレプリカが残された。

⑯ 第一高等女学校(第一高女)
この場所には1922年4月に高等女学校(第一高女)が南山町(後の南山小学校)から移転してくるが、この写真では、まだ校舎建設が本格化している様子は見えない。

 忘憂里マンウリ墓地といえば、浅川巧の墓があることで知られている。だが、実はここには、もう一人日本人の墓がある。斎藤音作の墓である。

 

 

 斎藤音作(1866–1936)は、統監府時代の1909年以降、朝鮮における林業行政の中枢に関わり、林野の実態把握と管理体制の構築を主導した林業官僚・技術者である。林籍調査を通じて朝鮮半島全域の森林資源を把握し、朝鮮総督府による林業政策の基盤を整えた。1918年に官職を離れた後も、林業経営や調査事業の指導・助言を行い、実務面から朝鮮林業に関わった。敬虔なクリスチャンとして禁酒や社会運動なども実践した。1936年、京城で急性肺炎により没し、忘憂里墓地に葬られた。
※斎藤音作の詳細については『原四郎と朝鮮』参照

 

 浅川巧もクリスチャンだったが、浅川の墓は朝鮮式の土饅頭式であるのに対し、斎藤の墓はカロート(納骨室)の上に墓石を置いた、日本ではごく一般的な形式の墓である。ただ、十字架の刻まれたその墓石には、前面と側面に弾痕のような跡が複数残っている。

 

 

 以前から気になっていたのは、朝鮮戦争の際、この忘憂里一帯で戦闘があったのかどうか、という点だった。もし実際に戦闘が行われていたのなら、墓石の傷が弾痕であることははっきりする。しかし、それらしい資料には行き当たらないままだった。

 

 今回、『6・25戦争史 6 仁川上陸作戦と反撃作戦』に収録されている「ソウル市街地戦闘」という作戦図を見つけたことで、状況がかなり見えてきた。

 

 

 1950年9月15日、国連軍は仁川インチョンに上陸し、9月20日には漢江ハンガン下流方面で渡河し、西側からソウル奪還を進めていった。9月25日には、米軍第7師団第32連隊が銅雀洞トンジャクドンから西氷庫ソビンゴ方面へ、韓国軍第17連隊が新沙里シンサリから漢南洞ハンナムドン方面へと、それぞれ漢江を渡った。韓国軍第17連隊の任務は、ソウルから東北方向へ敗走する北朝鮮人民軍の退路を遮断することだった。

 

 その過程で、17連隊は忘憂里方面へ進出し、ここで人民軍と交戦した可能性が高い。米軍の公式資料である X Corps(第十軍団)Operation CHROMITE After Action Report(1950年10月)には、9月27日の状況として、

To the east of SEOUL, the 17th ROK Regiment continued mopping-up operations
(ソウル東方において、韓国軍第十七連隊は掃討作戦を継続した)

という記述がある。この記述を先の作戦図と突き合わせてみると、1950年9月27日前後、韓国軍第17連隊第1大隊が、忘憂里墓地付近でソウルの東北側に敗走する部隊の退路を確保しようとする北側の人民軍部隊と交戦していたと考えられる。

 

 そう考えると、斎藤音作の墓石に残る傷は、朝鮮戦争期の戦闘によって生じた弾痕である可能性が高い。忘憂里墓地を見渡しても、斎藤の墓以外に同程度の大きさの墓石は見当たらず、弾痕とみられる損傷が確認できるのは、今のところこの墓だけである。

 人民軍と韓国軍が交戦するなかで、墓地一帯にも銃弾が飛び交ったと考えれば、墓石が損傷を受けたとしても不自然ではない。少なくとも、これらの傷を朝鮮戦争時の弾痕とみることは、十分に成り立つ解釈だろう。

 もっとも、日本人の墓であることを意識したうえで、誰かが意図的に銃弾を撃ち込んだ可能性も、完全には否定できない。日本人が朝鮮半島を去ってから五年後、同じ民族同士が銃口を向け合う戦争のただなかで、行き場を失った怒りや苛立ちが、象徴的な対象へと向かったとしても不思議ではない。

 墓石に残った傷跡からは、忘れられがちな「戦場としての忘憂里」だけでなく、日本の侵略の置き土産と分断の不条理が、静かに浮かび上がってくる。

 1929年9月12日から10月31日まで、京城の景福宮一帯を会場に「始政二十周年記念朝鮮博覧会」が開催された。この博覧会に、福岡市から福岡市長・時実秋穂トキザネ アキホが率いる「ドンタク隊」250名が「遠征」した。

 

 一行が京城市内を練り歩く様子を撮影した貴重な写真が、福岡市中洲の老舗酒店・伊藤忠氏宅で発見され、2021年に西日本新聞によって報じられている。当時の活気あふれる姿は、以下の同社記事ページで見ることができる。

【参考画像:西日本新聞】 どんたく、92年前に海渡る 日本統治下の朝鮮博覧会、老舗が写真保管

 この写真の奥に見える門は南大門(崇礼門)で、左手は南大門市場である。一行は朝鮮銀行(現・貨幣博物館)、三越デパート(現・新世界百貨店)方面へ向かっている。南大門市場の後方は朝鮮神宮参道へつながる道であることから、朝鮮神宮に参拝したあと、下ってきた場面である可能性が高い。

 

 もう一枚の写真には、左側が半分切れているものの、看板が写っており、「碇屋旅館」と読める。この「碇屋旅館」は京城府寿町33番地にあった旅館で、新聞広告には「京劇筋向い」と記されている。京劇とは京城劇場のことで、この道の奥に見える建物は、地図上で「演芸館」と表記されている京城劇場である可能性がある。

 

 

 この写真で、ドンタク隊が進んでいる方向には朝鮮総督官邸がある。当時の朝鮮総督は齋藤マコトであった。齋藤は1919年8月から朝鮮総督を務め、1927年に一度退任したものの、1929年9月、前任の山梨半造の更迭に伴い、博覧会開会直前という異例のタイミングで再び総督に就任したばかりであった。

 

 最初の総督の時、齋藤は3・1独立運動の収拾と事後処理を託され1919年9月2日に京城駅に到着した。それまでの「武断統治」からの転換を図るため、同年9月26日付で朝鮮総督府の幹部人事を刷新したが、その際に新たに任命された幹部の一人が時実秋穂であった。時実は茨城県内務部長から忠清南道知事に抜擢され、その後、齋藤総督のもとで朝鮮総督府監察官、京畿道知事を務めている。

 

 1926年、福岡市会は退任する市長の後任として、内務官僚で朝鮮統治の実績があり、齋藤総督とのパイプ役も期待できる時実秋穂に白羽の矢を立てた。当時の福岡市は、市政の近代化、博多港の修築、地元物産の販路拡大といった課題を抱えていた。

 

 1926年10月に福岡市長に着任した時実秋穂は、翌1927年3月20日から5月18日までの約2か月間、福岡城の濠を整備し、その周辺をメイン会場として東亜勧業博覧会を開催、これを成功に導いた。この博覧会会場が、現在の大濠公園である。中国、朝鮮、樺太、台湾、南洋諸島からも出品があったこの博覧会を通じ、福岡は朝鮮や満州への玄関口としての存在感を示し、地場産業と商業の活性化に貢献したと評価された。

 

 

 東亜勧業博覧会には、齋藤實をはじめとする朝鮮総督府の後押しもあり、齋藤が1927年12月に総督を退任した後も、時実秋穂は朝鮮との緊密な関係を維持していた。

 

 1928年5月、朝鮮総督府が「始政二十周年記念朝鮮博覧会」の開催を正式に発表すると、時実は博多商工会議所や福岡市工芸団体連合会と連携し、博覧会への出品や視察団・見学団の派遣を計画し始めた。

 

 「始政二十周年記念朝鮮博覧会」は、韓国併合から20年間の「統治の成果」を誇示することを目的としていたが、当時の日本の財政難から、当初計画より規模をやや縮小して開催された。それでも、景福宮から景武台にかけて大規模な会場整備が行われ、多くの王宮建造物が取り壊され、その跡地に各種団体のパビリオンが建設された。

 

朝鮮博覧会鳥瞰図 朝鮮博覧会京城協賛会発行


 福岡市は九州館のパビリオン内に展示スペースを確保した。巨大な木造建築であった九州館では、展示面積の大半を福岡県が占め、筑豊の石炭や北九州の工業製品と並んで、博多人形、博多織、漆器など福岡市の伝統工芸品が華やかに展示されていた。
 

左:九州館(全景) 右:福岡市の展示スペース

 

  こうした工芸品の出品に加え、福岡市工芸団体連合会は団体観覧客を組織し、それを母体としてドンタク隊を編成する構想を打ち出した。他の参加団体に比べても相当早い時点で具体化が進んでいたようで、朝鮮博覧会開会の半年前、3月10日付けの『京城日報』に次のように報じられている。

福岡県は、…他府県に率先して特設館をはじめ各種の催しを計画している。すでに本府に対し申込まれているものに博多名物、博多ドンタク、小倉芸者の北九州踊り、博多芸者の博多踊り等があり、博多ドンタクは福岡市の出品人200余名が団体を組織して視察に来鮮し、京釜線の列車中ですっかり身支度をして、京城駅に着くとただちに駅から博覧会場へ「エイヤッ」と踊りながら練って行こうという珍趣向で、さだめし観衆をあっと言わせるだろうと早くも人気を呼んでいる

 これら一連の動きが、福岡市長・時実秋穂の主導によるものであったことは明らかである。さらに、ドンタク隊派遣にあたっては、博多商工会議所から補助金が交付されている。

福岡市工芸団体に於て京城に於ける朝鮮博覧会の開催を機とし当地特産品の新販路開拓宣伝の為団員二百名を以て視察団を組織し出張に付之を援助し補助金を交付したり

永島芳郎編『博多商工会議所五十年史』(1941)

 こうして、博多どんたく隊は9月21日午後7時に博多港を出発して翌朝釜山港着。京釜線で約10時間をかけ、22日夜19時に京城駅へ到着した。新聞が予告したような「列車中で身支度を整え、到着後すぐ踊り出す」という展開にはならなかったものの、車中ではかなり盛り上がっていたようだ。

長途の列車中を賑やかに囃し続け
博多ドンタク団 京城着
博覧会場や市中を練り回る

釜山上陸以来、300哩10時間にわたる長途の車中を打通しに囃し続けながら、22日夜、官民多数の熱烈なる出迎えを受けて入城した博多ドンタク団の一行は長途の疲れをものともせず、23日朝8時には朝鮮神宮鳥居前広場に集合、参拝し…

 『福岡日日新聞』1929年9月25日付

 一行は、翌朝午前8時に朝鮮神宮前に集合、参拝後、京城の中心街を練り歩いた。
 その時の写真が上掲の2枚の写真である。

 

 その模様を京城の新聞『朝鮮新聞』『京城日報』『毎日申報』は写真入りで報じている。

 

 

 特に、時実秋穂にとっては象徴的な場面であったと考えられる。直前の8月に齋藤實が再び朝鮮総督に任命され、着任したばかりの齋藤総督のもとへ、自らドンタク隊を率いて乗り込むことになったからである。その意味で、この京城行きは、時実にとっても高揚感を伴う出来事であったに違いない。

 

 その後、ドンタク隊は24日、25日と京城に滞在し、26日に帰路についた。しかし釜山駅到着後、その夜に出港予定だった北九州商船の福岡行きの「珠丸」が時化のため欠航となる。そこで時実市長が先頭に立ち、釜山駅周辺で急遽ドンタクの練り歩きを披露したという。突然のお祭り騒ぎに、周辺は大変な賑わいとなった(『朝鮮時報』1929年9月28日付)。一行は翌日の珠丸で福岡へ向かった。

 

 時実秋穂は1930年に福岡市長を退任した。その後、1931年6月に齋藤實が朝鮮総督を退任し、宇垣一成カズシゲが総督に就任、政務総監には今井田清徳キヨノリが起用された。この時期、京城日報社の社長が空席となり、後任として時実秋穂の名が挙がる。言論界での実績はなかったものの、朝鮮在勤経験の豊富さや、福岡市長時代の朝鮮との密接な関係が評価されたと考えられる。加えて、時実は宇垣、今井田と同じ岡山県出身であった。

 


 

 1929年の朝鮮博覧会に博多どんたく隊250人が大挙して参加し、京城の街を練り歩いた出来事は、単なる文化交流や観光を兼ねた団体見学のようにも見える。しかし掘り下げてみると、行政、経済、人脈が複雑に絡み合った背景が、芋づる式に浮かび上がってくる。