一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1924年8月15日付の『東亜日報』「洞・町内の名物」が取り上げているのは、通洞の林檎園である。

 

◇ソウルでヌングム(在来種のリンゴ)畑として有名なのは、彰義門外です。彰義門外に住む人々は、この季節になると多少なりとも現金収入を得るようになります。実際に彰義門外へ行ってみると、あちらこちら一面がヌングム畑で、なるほど名高いヌングムの産地であることが実感できます。松洞の畑と比べても、決して見劣りするものではありません。
◇ところで「京ヌングム」といえば、ソウルのヌングムは彰義門外のものだと思われがちですが、実は通洞のヌングムを指します。通洞のヌングム畑は一か所しかありませんが、その品質はソウルを代表するといえるほど優れています。そのため、広大な彰義門外のヌングムも、わずかな通洞ヌングムには及ばないと評価されています。量より質を尊ぶ世の中では、このようなことも当然といえるでしょう。
◇彰義門外では現在もヌングムの栽培が盛んで、多くの人々がそれを食べ、また売買しています。しかし、いまや通洞のヌングム畑は日本人の所有になってしまったといいます。「京ヌングム」という名前だけが残り、それを実際に知る人は少なくなりました。質より量を重んじるようになると、このような変化が起こりがちですが、いまの世の中は再び質を重んじようとしているようです。
 このように考えてみると、通洞の名物であったヌングム畑は、まさに歴史に名を残す名園であったといえるでしょう。

 通洞とは、現在の通仁洞トンインドンである。1936年、京城府は隣接地域を編入して行政区画の再編を行い、「洞」を「町」に改めるなどの整理が実施された。それまでの「通洞」は「通仁町」と改称され、これが解放後に再び「通仁洞」となった。上の記事に登場する地名を現在の地図に重ねると、次のような位置関係になる。

 

 

 現在、観光客にも人気の通仁市場トンインシジャンがある一帯が通仁洞であり、そこから北へ進むと紫霞門チャハムントンネルがある。トンネルを抜けた先が付岩洞プアムドンである。紫霞門トンネルは、北岳山ブガクサンから仁旺山イナンサンへ続く城壁の山稜を貫くもので、その真上に北小門プクソムンが位置する。この門を彰義門チャンウィムン、またの名を紫霞門という。

 

 この通洞では「林檎園」が名物とされているが、ここでいう「林檎」は、現在われわれが食べているリンゴ、すなわち사과サグァとは別種ともいえる果物である。記事でも「사과(サグァ)」ではなく「능금(ヌングム)」と記されている。

 

 現代の日本ではフジ、紅玉、ジョナゴールドなどが主流であり、韓国でもフジのほか、ホンロやカムホンといった品種が多く出回っている。いずれも野球ボールやソフトボールほどの大きさで甘味が強い。

 

 一方、ヌングムは直径2〜4センチほどと小さく、酸味が強く甘味は弱い。半ば野生種ともいえる「在来のリンゴ」であり、現代のリンゴとはほとんど別の果物といってよいほどの違いがあるという。

 

Trees and Shrubs Onlineより

 

 1935年修正測図の1万分の1地形図を見ると、北門(彰義門・紫霞門)の外側、付岩里一帯に「果園」の記号が多数描かれている。これがヌングム畑であったのだろう。

 

1915年測図 1930年修正測図 1/10,000

 

 同じ地図には「李鍝公別邸(石坡亭)」の記載も見える。これはもともと哲宗チョルチョン代の領議政・金興根キムフングンの別荘を、興宣大院君フンソンデワングン李昰応イハウンが取得して「石坡亭ソクパジョン」と名付けたものである。李昰応の孫・李埈鎔イジュニョンの養子となった李鍝イ ウが当時の雲峴宮ウニョングン当主であり、李鍝はのちに広島で被爆して戦死した人物として知られる。

 石坡亭の風雅な庭園景観は、周囲に広がるヌングム畑と切り離して考えることはできない。王族の遊宴地と庶民の果樹栽培が、同じ斜面を共有していたのである。


 付岩里のヌングムは、住民たちによって京城府内へ売り歩かれていた。1923年8月7日付『東亜日報』には、次のような記事が掲載されている。

 

暑さの盛りに、物売り同士の喧嘩騒ぎが起きた。
去る五日、炎天下で汗を流しながら歩き回っていた油売り四人が、紫霞門の前で腰を下ろし、汗をぬぐいながら休んでいた。そこへ、門の外からヌングム売りがやって来た。油でてかてかになった顔の男が、冗談まじりに、
「おい、ほかに商売がなくて、ヌングム売りなんかやってるのかい」
と声をかけたところ、これがもとで大喧嘩に発展してしまった。
もともと紫霞門の外にはヌングム売りが多い。この騒ぎを聞きつけて一人、また一人と人が集まり、三十人あまりが一団となって、油売りの額がヌングムのように真っ赤に腫れ上がるまで殴りつけたという。ついには巡査まで出動する騒ぎとなった。喧嘩をする当人たちは好きにすればよいとしても、この猛暑のなか、警棒を抱えて走り回る巡査のほうこそ、息切れしないか心配になるばかりである。

 

 京城府内の通洞付近にも、付岩里の果園と同じ記号が地図上に確認できる。この場所は、「売国奴の元凶」と目された李完用イワニョンの邸宅や、尹徳栄ユンドギョンの洋館・碧樹山荘ビョクスサンジャンに隣接する地域であった。

 

 

 『東亜日報』の記事が掲載された1920年代、京城とその周辺では急速な都市化が進行していた。城壁外側の南向き斜面に広がっていたヌングム畑は、住宅地や別荘地へと次々に転換されていった。通洞を含む「西村ソチョン」一帯は、日本人と朝鮮人有力層が混住する地域となり、都市ガスや上下水道などのインフラも整備されていた。

 

 さらに、日本品種のリンゴが市場に流入し、小さく酸味の強いヌングムは果物市場から次第に姿を消していった。

 

 こうして、付岩里から、そして通洞からヌングム畑は消えていったのである。

 

 植民地支配が終わる頃には、ヌングムは「昔よく食べた小さなリンゴ」として、その名だけが記憶に残る存在となった。1960〜70年代になると「사과サグァ」がリンゴの総称となり、「능금ヌングム」は若い世代の日常語から姿を消していく。

 

 しかし一方で、ヌングムは失われゆく時代の象徴として文学の中に生き残った。1963年、朝鮮日報主催の新春文芸賞では、ヌングム農家を題材とした林河イム ハのシナリオ「荒ぶるヌングム(성난 능금)」が当選している。その後も童話や郷土文学、回想録の中で繰り返し登場する題材となった。

 

 そして2021年4月、ソウル市は「ソウル・ヌングム」復元プロジェクトを発表した。付岩洞周辺に残る木や保存株から穂木(台木に接ぐ部分)を採取し、市農業技術センターで260本の接ぎ木繁殖が始められている。

 



 ヌングムの木は果樹としてだけでなく、庭木や薬用植物としての価値も持つという。

 もっとも、私自身はまだ一度も実物を見たことがなく、もちろん食べたこともない。もしどこかで見かけることがあれば、ぜひ教えていただきたい。かつて通洞の名物であったその果実を、いつか手に取って眺め、そして味わってみたいものだ。

 

これまでブログに書いてきた、1924年の『東亜日報』に掲載された 「わが街の名物(내동리名物)」の解説と蘊蓄😃を一冊の本にまとめました。
Kindle版電子書籍(サンプル版あり)に加え、紙のペーパーバック版もあります。
『京城とソウル: 東亜日報 わが街の名物』一松書院
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 2月15日に発売した拙著『京城とソウル――東亜日報「我が街の名物」』は、これまで本ブログに連載してきた内容を全面的に再構成し、一冊にまとめたものです。電子版(Kindle)とペーパーバックの両方で刊行しました。

 

 本書の素材となっているのは、1924年6月25日から8月15日まで『東亜日報』に連載された「一百洞町一百名物 我が街の名物」という企画です。京城の洞や町を一つずつ取り上げ、その土地の「名物」を写真入りで紹介する、いわば読者参加型の都市案内でした。表向きは納涼企画、懸賞付きの軽妙な読み物です。しかし、その紙面を丁寧に読んでいくと、当時の京城社会の構造、植民地支配の現実、人びとの感情までもが、行間から立ち上がってきます。

 

 たとえば第1回の「鍾路チョンノ 鍾閣」。普信閣ポシンガクの鐘を「名物」として紹介しながら、3・1運動の際に乱打された事実や、「自由の鐘」になぞらえた記述に、にじませた抵抗の気配を読み取ることができます。単なる観光案内ではありません。歴史の記憶が、静かに、しかし確かに刻まれています。

 

 また「松峴洞ソンヒョンドン 殖銀村」では、朝鮮殖産銀行が造成した近代住宅地を取り上げ、「これを見れば朝鮮人の京城における没落が分かる」とまで書きます。住宅そのものよりも、その背後にある資本の力、土地の収奪、そして都市空間の再編が問題にされているのです。現在は「開かれた松峴緑地広場」となっているその場所も、かつては植民地期の権力と資本の象徴でした。過去を知ることで、いま見ている風景の奥行きが変わります。

 

 さらに「通義洞トンウィドン 東拓舍宅」では、東洋拓殖会社の社員住宅を「名物」としながら、小作人と土地の問題を痛烈に批判しています。新聞というメディアの制約の中で、どこまで書けるか。そのぎりぎりの表現が、かえって当時の空気を生々しく伝えてくれます。

 

 本書では、こうした記事を単に翻訳・紹介するのではなく、その歴史的背景をできる限り掘り下げました。朝鮮王朝期の制度、開化期の政治的変動、植民地統治の法制度、日本人と朝鮮人の法的区分、都市計画や交通網の変化……。ときには本文よりも背景説明のほうが長くなった箇所もあります。しかし、それは1924年の紙面を、表面だけでなく裏側まで読み解きたいという思いからです。

 

 この連載は京城北部に集中していました。そこから浮かび上がるのは、「朝鮮の人びとの街」がどのように変貌していったか、そして誰のための都市だったのか、という問いです。名物という軽やかな形式の下に、都市の階層構造がくっきりと描かれているのです。

 

 ブログでは一つずつ紹介してきましたが、書籍化にあたり全体の流れを意識して再配置し、地図や写真資料も整理しました。京城電気の沿線案内や当時の市街図と照らし合わせることで、読者の方が頭の中で1924年の京城を歩けるように構成しています。

 

 近現代の朝鮮・韓国を考えるとき、どうしても大きな事件や政治の動きに目が向きがちです。しかし、街角の「名物」を手がかりにしてみると、歴史はぐっと身近になります。鐘の音、住宅地の塀、煙草工場の煙、ソルロンタンの匂い。そうした具体的な風景の中に、時代の力学が凝縮されています。

 

 電子版はすぐにお読みいただけますし、紙のペーパーバックは資料として手元に置くのにも適しています。連載を追いかけてくださった方にも、新たな発見があるはずです。百年前の京城を、もう一度歩いてみませんか。

 

 

 なお、昨年11月には『続 韓国社会を掘る』も刊行しています。

 こちらも本ブログで積み重ねてきた記事を再整理し、テーマごとに再構成した一冊です。現代韓国社会の問題や歴史認識を、資料と具体例に基づいて掘り下げています。本書とあわせてお読みいただければ、1924年から現在へと続く時間の流れが、より立体的に見えてくるはずです。

 

 1924年7月29日付『東亜日報』の「洞内・町内の名物」で、玉仁洞オギンドンの名物として取り上げられたのは松石園ソンソグォンである。

 

◇善い人ばかりが人物でしょうか、悪い人もまた人物です。忠臣孝子だけが名を残すのでしょうか、乱臣賊子もまた名を残します。名目さえあれば名物なんです。北部衛生所は糞の臭いで名物、新門外の天然池はかぐわしい蓮の香りで名物。頼み事など持ち込まれっこない尹子爵の松石園とて、名物でないはずがありません。

◇ドイツ式建築を模し、ありとあらゆる贅を尽くしたこの家は、宮殿すら及ばぬほどだと言います。しかし、この家を見ると幼い子どもでさえ悪魔が巣食っているかのように不気味に感じ、立派な家だと羨む気持ちにはならないのです。とりわけ、あの尖った屋根の形がどれほど忌々しく見えたことか。屋根の上の避雷針を見るだけでも、ありとあらゆる陰険な企みがそこから湧き出してきそうに思われるほどです。この家の庭の池がある年の長雨で決壊し、町内の草葺き家屋が水浸しになったことがありました。その損害は、邸宅側で弁償したそうで、それほどまでにご親切なんだということのようです。

◇会洞には「具善福の橋」という橋があり、桂洞へ上がる西側の路地は「洪述海の谷」と呼ばれています。門の前の橋や、そこで暮らす路地の人々に何かお咎めがあるわけではありません。この家も、「松石園」などとは呼んだりせずに、「尹子爵の邸宅」と呼ぶべきではないですか。青い松も白い石も、さぞかし無念に思っていることでしょう。

■「尹子爵」とは誰か

 この記事にある「ユン子爵」とは、尹徳栄ユンドギョンのことを指している。6月29日付の松峴洞ソンヒョンドンの名物・殖銀村の記事には、尹沢栄ユンテギョンの兄として「でか頭将軍(대갈장군)と呼ばれている尹徳栄」と登場している。後頭部が出っ張っていたことから来たあだ名とも言われるが、韓国併合によって甘い汁を吸った横柄な欲張りという意味合いを込めた揶揄でもあったとされる。

 

 

 

 祖父の尹容善ユンヨンソンは朝鮮王朝から大韓帝国にかけての重鎮で、養子の尹徹求ユンチョルグが早世したため、孫の尹徳栄・尹沢栄兄弟を皇室に積極的に売り込んだ。その結果、尹沢栄の娘が高宗コジョン皇帝の息子と結婚し、皇太子妃となった。皇帝(純宗スンジョン)即位後の純貞孝スンジョンヒョ皇后である。

 この縁戚関係を背景に、兄の尹徳栄も次第に権勢を強めていった。尹沢栄の屋敷があった松峴洞の西側、現在の司諫洞サガンドン97番地に大邸宅を構えた。景福宮キョンボックン東側の一等地である。

 

■巨大邸宅の造営と「碧樹ピョクス山荘」

 尹徳栄は、日本による韓国併合の過程で、宮廷内部において皇族やその周辺に日本への迎合を働きかけた。その見返りとして、日本から子爵の爵位と公債証券46万ウォンの恩賜金を受け取っている。現在の貨幣価値に換算すると、200億ウォンを超えるとも言われる。

 

 尹徳栄は、この恩賜金をもとに、朝鮮王朝時代から「松石園」と呼ばれていた玉仁洞山側の土地を買い集めた。韓国を日本に売り渡した元凶とされる李完用イワニョンも玉仁洞に土地を所有していたが、その所有地の広さは尹徳栄が李完用を凌いでいた。

 

최종현,김창희編『오래된 서울(古きソウル)』(2013)より

 

 ここに建てられたのが、ヨーロッパ貴族の居城を思わせる大規模な洋館である。『東亜日報』の記事ではドイツ式建築とされているが、フランス領事館から持ち出されたフランス貴族の邸宅の設計図をもとに建てられたとも言われている。

 

 1913年に着工し、1917年頃に主要部分が完成したが、細部の仕上げ工事は1935年まで続いた。1924年当時、この洋館は迎賓館や宴会場として使用されていたが、尹徳栄自身はここを居宅とはせず、敷地東側に建てた韓屋に住んでいた。敷地内には側室のための韓屋なども建てられていたという。

 

 この記事では、「具善福グソンボク橋」とか「洪述海ホンスレ谷」とかの例を揚げて、ここも「尹子爵邸」とでも呼べばいいではないか…と皮肉って書かれている。具善福、洪述海はいずれも朝鮮王朝後期の両班で、その名が地名で使われていたということらしい。

 

 この時期には、この尹徳栄の所有地一帯が「松石園」とも「碧樹山荘」とも呼ばれ、洋館の呼称は定まっていなかったようだ。やがて、「碧樹山荘」は、もっとも目立つこの洋館の呼称のように使われるようにもなる。 

 

1929年頃『오래된 서울』(2013)より)

■水害・宗教施設・そして解放へ

 邸内には池があり、舟遊びまで行われていたという。しかし、大雨の際には裏手の仁旺山イヌァンサンからの渓流が増水し、この池が決壊することがあった。1920年8月5日付の『朝鮮日報』には、次のような投書が掲載されている。

世間では水害に遭った人々を救済していると言われているのに、玉仁洞にお住まいの尹大監どのは、自宅の前に大きな穴を掘ったままにしておき、雨が降るたびに決壊しそうになって、その下に住む住民の家を危険にさらしている。今回もまたその穴が崩れ落ち、下にあった家四十余戸が倒壊した。けが人まで出たというのに、まったく知らぬ顔で平然としている。こんなことがあってよいのだろうか。(隣居生)

 近隣住民の強い反発もあり、『東亜日報』の記事にあるように、最終的には水害被害を補償せざるを得なくなったのだろう。

 

 1935年、洋館の全工事が完了すると、この豪奢な建物は「世界紅卍字会ホンマンジャフェ」朝鮮支部の道院として使用されるようになった。宗教的修行の場であると同時に、慈善活動の拠点でもあった。尹徳栄は同会朝鮮支部の長「主会統長チュフェトンジャン」を務めている。「紅卍字会」は中国発祥の道教系新興宗教だが、宗教の違いを超えた救済を理念に掲げ、当時盛んに慈善活動を行っていた団体である。

 

『大京城府大観』(1936)

■解放後の変転と消滅

 尹徳栄は1940年10月に死去した。遺産を相続した養孫の尹康老ユンガンノは、1945年8月、日本敗戦直前に三井鉱山株式会社へこの土地を売却したとされる。具体的な契約資料は確認されていないが、もともと、碧樹山荘の南側、棲上洞ヌサンドンには三井物産京城支店長の社宅があったりして、何らかのつながりがあった可能性は考えられる。

 

 朝鮮戦争中、ソウルが北朝鮮人民軍の占領下に置かれた際には、この洋館は朝鮮民主主義人民共和国庁舎として使用された。その後、国連軍・韓国軍によるソウル奪還後は、アメリカ軍将校宿舎、さらに国連韓国統一復興委員団(UNCURK)の本部として利用されていた。

 1950年代後半に、写真家の金漢鏞キムハニョンが仁旺山から撮影した写真に、この頃の碧樹山荘が写っている。



 

 また、1956年11月に公開された映画『ソウルの休日(서울의 휴일)』にも、この洋館が登場する。朝鮮戦争後のソウル市民の生活を群像劇として描いたこの映画では、女性産婦人科医師の病院の裏手に碧樹山荘が映り込み、遠景には旧朝鮮総督府の建物も確認できる。

 

서울의 휴일(1956) 

 

 しかし1966年4月、改修工事中に火災が発生し、建物は大きな損傷を受けた。最終的に1973年、洋館は完全に解体・撤去された。


 現在、鍾路区チョンノグ玉仁洞47-27および47-33の住宅街には、当時の石造門柱の一部が残されている。また、鍾路区立朴魯寿パンノス美術館として使われている玉仁洞168-1の二階建て家屋は、1938年頃、尹徳栄の娘夫婦のために建てられた建物である。

 

石造門柱(Kakao Mapストリートビューより)

 

 さらに、忠武路チュンムロ南山ナムサンゴル韓屋ハノンマウルには、碧樹山荘関連建築として「玉仁洞尹氏家屋」が移築・保存されている。1998年4月の開園当初は「純貞孝皇后尹氏実家」と表示されていたが、2008年の史料調査によって、碧樹山荘内にあった妾宅の復元であることが判明し、2010年からは説明文が大幅に書き改められている。

 

 


 こうして見ていくと、松石園――碧樹山荘は、単なる洋館の豪邸というよりも、近代朝鮮の権力構造、日本統治、宗教活動、そして解放後の朝鮮戦争と都市再編までを引き受けた場所だったことが分かる。いま現地に立っても、当時の建物そのものを見ることはできないが、門柱の石や残された家屋を手がかりに、その痕跡をたどることはできる。1924年に名物と呼ばれた玉仁洞の松石園は、今日においても依然、名物と言える場所なのである。

 

 


これまでブログに書いてきた、1924年の『東亜日報』に掲載された 「わが街の名物(내동리名物)」の解説と蘊蓄😃を一冊の本にまとめました。
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