一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 京城の龍山の日本軍駐屯地の北側、練兵町の一画に「永岡商店」があった。1909年に、永岡長右衛門が羊羹の製造を山口県長門市で始め、1923年に軍指定の製菓工場として京城に進出した会社である。

 

 

 1945年8月、日本の敗戦で朝鮮の植民地支配が終焉を迎えた。朝鮮半島の北緯38度線以南の敗戦処理を行うため、アメリカ軍が朝鮮に上陸し、本籍が内地にある日本人は朝鮮から退去させられ(「引揚げ」と称した)、日本人名義の企業は「敵産」としてアメリカ軍政の管理下に置かれることになった。

 

 その際に、日本名義の資産を「売却」「譲渡」「管理委任」などの形で朝鮮側の名義に移すことで、「敵産」としてアメリカ軍政庁に接収されるのを回避しようとする動きが起きた。企業だけでなく、学校や宗教団体でも同様の動きがあった。日本仏教系の寺院、東本願寺や浄土宗別院、それに博文寺などでも、朝鮮人仏教関係者への引き継ぎが模索された。学校は、法人化して朝鮮人代表者を置く動きがあった。ただ、引き受け側でも、様々な思惑が錯綜していて、簡単に進んだわけではなかった。

 

 京城の本町二丁目で営業していた丸善・京城支店のケースでは、日本の店舗の委任がどのように行われたかが書き残されている。『丸善社史』には次のように記されている。

 既に内地とは通信連絡ができず、一方、日本の軍部や総督府からも何らの指示もなく、社員は全く途方に暮れつつあった。そのうち9月8日、米軍が京城市内に進駐してきたため、人心も次第に静まり、不安も薄らいだが、そのような状況の中で、近く在鮮日本人は、全部本国へ送還されるということも確かになったので、送還後の当支店の管理を朝鮮人社員裵渉(京城府立高等普通学校卒業後、昭和12年11月当支店に採用、のち選ばれて社員資格の待遇を受けていた一人で、今一人社員待遇の朝鮮人も居た)に委任することとなり、9月下旬米軍当局者立ち会いの下に店内の諸物品を棚卸しして現物並びに帳簿を整理し、支店と裵渉との間に、管理委任に関する契約書(米軍当局者サイン)を取交わした。

昭和26年版『丸善社史』

 その後の現地新聞(『中央新聞』1946年2月23日付)の報道によれば、この「管理委任」成立の後、「敵産」の再稼働を請け負っていた朝鮮実業公司が、丸善社屋の明け渡しを要求してきた。こうした介入が行われることは珍しくなかった。ただ、旧「丸善」の裵渉ペソプらは、翌年3月に、書店名を「太白テベク書籍公司」として営業を再開しており、「敵産」としての接収は免れたのであろう。

 

 丸善は「敵産」としての接収を免れたが、こうした回避策は、成功した例と失敗した例が混在している。

 

 菓子製造と菓子の卸問屋だった「永岡商店」では、どうだったか。

 日本の敗戦時、「永岡商店」には、4人の朝鮮人従業員がいた。1925年に東星商業学校を卒業してグリコに入社し、1940年から永岡商店の販売担当となった閔厚植ミンフシク、1927年に京城電気学校を卒業してウエハス技術担当になった申徳鉢シンドクパル、1938年に善隣商業学校を卒業し、4月から経理事務の社員となった朴炳圭パクビョンギュ、それに高等普通学校を卒業してベーキング担当だった韓達成ハンタルソンである。ちなみに、善隣商業は古賀政男も通った日本人と朝鮮人が共に学ぶ実務系の名門校だった。

 

 朝鮮人従業員のうち、唯一の事務系社員だった朴炳圭を中心に、「丸善」京城支店と同じように、米軍当局者の立ち会いのもと管理委任に関する契約書が取り交わされた。彼らは会社名を「鮮美ソンミ製菓合名会社」とした。ウエハス製造機、ミキサー、ボイラー、電気釜、飴製造機などを引き継いで、菓子の製造を再開した。

 

 当初は10人ほどしかいなかった従業員は、創業3年後の1948年には300人に増えた。この頃、ヘテ・キャラメルが大ヒットし、購入者が夜明け前から、販売所がある南大門ナムデムン市場、東大門トンデムン市場、芳山パンサン市場に押しかけ、長蛇の列をなした。工場からオートバイ一台と自転車一台をフル稼働して商品を運んだ。砂糖や小麦粉は、永登浦ヨンドゥンポ美昌ミチャンから購入して菓子を製造した。この美昌はもともとは朝鮮運送株式会社で、○の中に星をデザインしたマークが商標だったので「マルボシ」と通称されていた。現在のCJ大韓通運の前身である。永登浦の美昌倉庫から、原材料を調達していたのである。

 

 

 「ヘテ」は、包装パッケージに描かれた獬豸(朝鮮語でヘテ、現在はヘチとも呼ばれる)に由来する。上掲の1950年の広告では、「ヘテ本家 鮮美製菓合名会社」と表記されている。その後、1950年代には「ヘテ製菓」が正式な社名となった。

 

 1975年2月24日付の『毎日経済新聞』に、ヘテ製菓を取材した記事があり、それにはこのように書かれている。

今日のヘテグループを象徴するものは、まさに「ヘテ」というブランドである。これは、同社の母体となった永岡商店を経営していた日本人の「ナガオカ」氏が、光化門前を通りかかった際、そこに置かれていたヘテ像を見て名付けたことに由来する。ヘテは火災を防ぐ火護神として、あらゆる不幸を追い払い福を招く霊獣として伝えられてきた吉運の象徴であり、また善悪を正しく判断する不思議な海の獣でもある。

 日本人の「ナガオカ」氏とは、永岡商店の永岡長右衛門のことである。

 

 現在、ソウルの景福宮正門・光化門前には獬豸像が2体置かれている。

 

 

 朝鮮王朝時代から、もともとこの場所に置かれていた。

 日本人にも有名で、早くから絵葉書にもなっていた。さらに、1921年、煙草の製造・販売が朝鮮総督府専売局に移管されたとき、専売局が最初に出した両切り煙草の一つが「カイダ」であった。古いハングル表示で「ヘテ」ともある。

 ところが、1926年、景福宮の正殿の前に朝鮮総督府庁舎が建てられた時、光化門は東側に移築され、獬豸像は撤去されて庁舎の裏に放置された。しかし、3年後の1929年11月になって、獬豸像は総督府庁舎前に再設置された。京城府内で火事が相次いだため、火災を防ぐ火護神とされる獬豸像を再び表に出したとも言われた。『京城日報』にも写真入りで報じられた。

 


もう1体のヘテは右の門柱の陰か…(1945年9月撮影の写真)

 

 永岡長右衛門が獬豸像を目にしたというのは、この再設置以降のことであろう。永岡商店は、主力の羊羹の他に、松の実ドロップ、フルーツゼリー、フィンガーなどを製造、販売していた。そして、新たに、松の実入りキャラメルを開発して「カイダ」として売り出した。1936年3月の『朝鮮新聞』に、「滋養の菓子 松の実入 カイダ」「一粒=不老長寿(栄養価)」という広告が出ている。

 

 

 

 デザインには獬豸(ヘテ)が描かれ、商品名には「カイダ」が用いられている。

 

 そのデザインは、植民地支配が終わった後の「ヘテ本家 鮮美製菓合名会社」のヘテ・キャラメルのパッケージにもほぼ同じ意匠で用いられ、「登録商標」あるいは「美匠特許」と記されている。

 

 

 管理委任契約には、製造設備や製菓技術だけでなく、原料調達ルートや包装デザイン、商標図案の継承も含まれていた可能性が高い。

 

 カイダのモデルの獬豸は、もともと朝鮮のものであって、朝鮮の人々にはなじみのあるものである。抵抗感なく引き継げるデザインであったことも大きかった。

 

 こうした経緯で「鮮美製菓合名会社」は、生産をほとんど中断することなく、カイダ・ブランドをハングルに置きかえてヘテ・ブランドとして生産・販売を行い、それを発展させていったと思われる。

 

 1950年、朝鮮戦争が勃発すると、順調に成長していた鮮美製菓にも大きな試練が訪れた。従業員300人余りは離散し、9月28日のソウル奪還後には従業員数は100人余りに減少していた。
しかし創業者たちは、生産機械を地方に移転するなどして、一時中断していた製品生産を1951年3月から再開した。

 

 1953年には、9月に「ソウル復帰新製品」と銘打った宣伝が出ており、1953年7月27日の休戦協定調印後に、ソウルでの生産を本格再開したのであろう。

 

 

 翌年8月の光復節の祝賀宣伝では、「ヘテ・キャラメル本舗 ヘテ製菓合名会社」と社名が記されており、1953〜5年に、社名を「鮮美製菓」から「ヘテ製菓」に社名変更したものと思われる。

 

 

 その後、全国に販売網を整備し、日本から最新設備を導入して近代化を進め、1970年に朴炳圭が社長に就任すると「脱・製菓業」を掲げ、アイスクリーム、乳業、果汁飲料、酒造、観光事業などへ進出した。サントリー韓国法人や済州島チェジュドの柑橘事業を引き継ぎ、総合食品グループへ発展した。
 また、1982年には韓国プロ野球創設に参加して「ヘテ・タイガース」を創設した。タイガースは宣銅烈ソンドンヨルらを擁して9度の韓国シリーズ優勝を果たし、韓国球界屈指の名門球団となった。
 

 しかし、1997年のIMF経済危機でグループは深刻な経営難に陥った。不動産・観光・流通などへの過剰な事業拡大と多額の負債が重荷となり、1999年にグループは事実上解体された。プロ野球のヘテ・タイガースは2001年に起亜自動車へ売却された。

 主力のヘテ製菓は債権団管理下で再建が進められ、2005年にクラウン製菓によって買収された。

 

 現在は「クラウン・ヘテ製菓グループ」となっているが、ヘテ・ブランドは存続している。

 

 解放後、永岡商店から受け継いだカイダ・ブランドはヘテ・ブランドへと発展し、ヘテは韓国有数の財閥へ成長した。IMF経済危機でグループは解体されたものの、その獬豸ブランドの伝統は、現在も韓国社会で受け継がれている。

 広島市内、相生橋のたもと。1945年8月6日、被爆して動けなくなった第二総軍教育参謀・李鍝イウ中佐がここで発見されたとされる。1970年に建設され、1999年に平和公園内の現在位置に移設された韓国人被爆者慰霊碑の斜め対岸に当たる。

 



 李鍝の夫人・朴賛珠パクチャンジュは、1963年11月に来日して、陸軍士官学校45期慰霊祭に出席し、李鍝の死亡後に自決した御附武官・吉成弘中佐の夫人・吉成まきのとも面会している。

 

 

 この時、11月7日に広島を訪れ、亡き夫・李鍝のゆかりの地を巡り、相生橋で献花した。

 

 

 李鍝は、高宗皇帝の息子・李堈 イ   ガンの次男として1912年11月15日に生まれた。1907年に即位した純宗皇帝と、その弟で皇太子の李垠イウンは、叔父にあたる。ここで、李鍝の位置関係を整理しておく。

 

 

 高宗の父・李昰応イハウンは、息子が国王に即位したことで大院君テウォングンの称号が与えられ、その居宅・雲峴宮ウニョングンは権力の中枢の一つとなった。

 

 時は流れ、大韓帝国は日本に併合され、1917年には、大院君の孫で雲峴宮の当主だった李埈鎔イジュニョンが47歳で死去した。李埈鎔には跡継ぎの男児がいなかったため、その従弟に当たる李堈の次男・李鍝を養子として雲峴宮を継がせた。

 

 李鍝は、養子となった時には満4歳だった。鍾路チョンノ小学校に入学したが、1921年4月に日本に送られて学習院初等科に転校した。李堈の長男で、李鍝の兄・李鍵イゴンも日本に送られ、下渋谷常盤松の皇室所有地に住まいがあった。1925年には李鍵の邸宅の隣に李鍝の別邸が建てられた。その後、李鍝は、陸軍中央幼年学校を経て、1933年に陸軍士官学校(45期)を卒業した。

 


 

 1928年、李垠とその妻・方子マサコ(梨本宮方子)夫妻が欧州旅行から神戸に帰国した際の写真が、1928年4月10日付『朝日新聞』に掲載されている。

 

左から、李鍝、李堈、李垠、方子、徳恵、梨本宮夫妻
 

 神戸で撮られたこの写真で、李堈・李垠・徳恵トッケが高宗の子供、李鍝はその孫にあたる。兄の李鍵は、この時、習志野馬術大会出席のため神戸には来なかった。

 

 韓国併合後、朝鮮の王族・公族とその子弟の多くは朝鮮から切り離され、日本内地に居住させられた。さらに、李垠、徳恵、李鍵はそれぞれ日本人と結婚することになった。ただ、李鍝だけは日本人との結婚を拒み、1935年に朴賛珠と結婚した。朴賛珠の祖父は朴泳孝である。

 

 朴泳孝(1861-1939)は、朝鮮末期から大韓帝国期にかけて活動した開化派の政治家であり、日本と深い関わりのある人物だった。甲申政変(1884)では日本の支援を背景に政権掌握を試みて失敗し、金玉均らとともに日本へ亡命した。その後政界に復帰し、親日的立場から改革を志向した。韓国併合後は伯爵に列せられ、日本統治体制のもとで活動した。李鍝が、朝鮮人の朴賛珠と結婚することに難色を示す日本側要人もいたが、朴泳孝もその説得に動いたという。

 

 李鍝と朴賛珠の新婚生活は下渋谷常盤松の別邸で始まり、李清イチョン李淙イジョンの二人の子供も東京で生まれた。

 

 

 李鍝は、1944年3月に北支那方面軍第1軍司令部の参謀将校として中国の山西省太原へ転出し、1945年6月10日に広島の第二総軍の教育参謀として着任した。広島への移動の際には、雲峴宮に立ち寄っている。

 

 1988年に中国放送が制作したドキュメンタリー「民族と海峡」で、李鍝公家公子、すなわち李清と淙の養育係だった金子鎮枝は、この時のことを次のように回想している。

とても、運動なさったんです、京城の師団に留まるように。当時、李鍝公殿下は頭がよくてしっかりなさっていて、朝鮮と日本がこうなっているということは、気持ちがおすみにならないわけだったんですね。で、なんとなしに陸軍の方でそれを恐れていたんですね。事務方もね、その懸念を持っておりましたからね。反対して猛運動をやったらしいんです。京城の方で、やっぱりおばあさま方が猛運動をやってらしたんですけど、阿部総督がこちらについてますからね… で、とうとうこっちへ(広島)へいらしたわけで。京城にいらっしゃったら、あの方は大統領にもなっていらっしゃいましたよ。妃殿下は、さぞ無念でいらっしゃるでしょうと思って…

 ちょっと、歯切れは悪いが、日本側では李鍝の考え方に民族主義的傾向があるのではと警戒感をもっており、朝鮮には配属しない意向だったことが感じられる。養育係の金子鎮枝が京城にいたということは、6月には朴賛珠と二人の息子・李清と李淙は、空襲の激しい東京を離れ、比較的安全と見られた京城の雲峴宮へ移っていたのであろう。

 

 そして、8月6日、李鍝は広島で被爆した。広島市編纂の『広島原爆戦災誌』第2巻(1971)には、このように記載されている。

 宇品の暁部隊内で被爆した竹中泰軍属が、鷹匠町の自宅の安否をたずねて帰り、途中、憲兵にとがめられながらも、午後12時40分、相生橋西詰に到着した際、同西詰北側で、被爆してうずくまっている李鍝公殿下(第二総軍教育参謀)を発見した。「君は軍の者か、町の者か?」と、殿下に問われた。「町の者です。家を見に帰るところです。」と、竹中軍属は答えた。「よう生きて帰ったね。俺は、今朝、やられたんだ。李鍝公という者だが、どうか憲兵隊に連絡を取ってくれないか…」と、頼まれた。
 李鍝公殿下は、顔から胸に火傷し、上衣は吹き飛ばされて、力なさそうであった。竹中軍属は、ともかく此処ではいけないと考え、殿下を背負い、本川国民学校東側の川沿いの道に面した防空壕(2畳敷位)に運んだ。殿下は16、7貫の巨体であるうえ、手は火傷してズルズルになっていたから、壕内に運びこむのも一苦労であった。
 竹中軍属は、連絡しようにも誰もいなくて困ったが、3時半ごろ、十日市派出所の負傷した巡査が歩いて来たので、これに連絡方をたのんだ。巡査は引返して、派出所が埋蔵していた油を持って来て、応急手当をした。そのうち4時半ごろ、軍人が通りかかったので、これに連絡することができた。
 この連絡により、宇品の暁部隊の舟艇が川をのぼって来て、殿下を収容した。
 宇品の凱旋館に収容され、軍医の診察を受けたときの状況については、佐伯司令官の記録(外傷見られずとある。)にあるが、そこから似ノ島の収容所に転送後、翌7日午後4時過ぎに逝去された。

 李鍝公殿下は、朝鮮王最後の王世子李垠殿下の甥にあたり、当時、古田町高須の前田別荘に約3か月滞在中、第二総軍司令部へ出勤途上において被爆したのであるが、このとき、猫屋町の憲兵分隊(光道国民学校内)動務の柳田博憲兵准尉は、李鍝公殿下の護衛憲兵を勤めていた田辺憲兵軍曹が、馬に跨がったままで、相生橋から約500メートル先の十日市町電車停留所付近の倒壊民家の前で死んでいる現場を、7日に確認し、その死体を収容した。
 李鍝殿下の死去にあたり、お付武官吉成弘中佐はその責任を感じ、殿下の病室の前の芝生に正座して、ピストルで殉死したと言われる。殿下の遺骸は総軍の飛行機で、京城の自邸朴賛珠妃殿下のもとに届けられた。ちなみに、昭和38年11月7日、朴賛珠夫人が来広せられ、相生橋上から、川に花束を投げて、故殿下の冥福を祈られた。

 李鍝の遺体は、防腐処理を施されて広島市南部の吉島飛行場(現在の中区光南)から京城に送られた。8月8日午前11時40分、汝矣島の京城飛行場に到着した棺は、南大門・朝鮮総督府を経て雲峴宮に安置された。

 

 この時の様子を前出の金子鎮枝はこのように回想している。

御遺骸が着く日ですか、お迎えに行って帰ってらしたんです。そしたら、嘘だろうって本当のこと聞かしてくれって言って、むこうでお嘆きになってらしたんですって。ずいぶんやっぱりその時にはね、悲しそうにしてらっしゃいました。お帰りになった時に、私に抱きついてね、本当かって。何遍も何遍もおっしゃいましたね。嘘なんだろう。嘘ではございませんと申し上げましたけど、なんとも言いようがなかったです。お子様は、お子様でね、私にへばりついてましてね。おもう様はね、お星様におなりになったんだって、っておっしゃるんですね。なんてお慰めしていいかわかりませんでした。

 葬儀は、8月15日午後1時、東大門の京城運動場で陸軍葬として行われた。正午からのポツダム宣言受諾の「玉音放送」の直後であったが、予定通り執り行われた。朝鮮総督府は、すでに8月11日には敗戦に備えて内々に準備に着手していた。8月14日の夜の23時過ぎには、翌日正午に放送予定のポツダム宣言受諾に関する天皇の読み上げ原稿の全文が同盟通信社京城支局に電話送稿で東京から届いた。従って、総督府や軍の上層部は、李鍝の陸軍葬の時には、日本の敗戦が周知された後のことだと分かっており、葬儀の準備はそれを前提に淡々と進められていた。

 

 葬儀の前日の8月14日、朴賛珠は、自決した吉成弘の妻・まきのに、「戦死を悼む」と電報を打った。まきのは、李鍝の被爆死は新聞報道で知ったが、夫の生死については知らされずにいた。吉成弘の自決を知った朴賛珠が、京城から大分の宇佐のまきのに一報を入れたのである。

 その後、朴賛珠と子供達は、下渋谷常盤松の別邸に戻ることはなかった。

 

 日本の敗戦によって、植民地統治体制は解体されたが、旧王家の管理を行う「李王職」は米軍政のもとでも存続した。1948年7月、大韓民国の建国に先立って米軍政長官のディーン少将の命令書で「雲峴宮」の所有者は李鍝・朴賛珠夫妻の長男・李清であることが確認された。しかし、大韓民国の国務会議は、1949年2月に「旧王宮財産処分法案」を制定し、「旧王宮財産は国有とする」と定めた。ただし、「旧王族の生計維持上必要な財産は、大統領令の定めるところにより、王族に譲与することができる」とされた。雲峴宮に関する権利関係も微妙になった。

 

 ここで朝鮮戦争が勃発した。戦争中、朴賛珠は二人の息子を連れて釜山プサンに避難した。その避難先の釜山での出来事を、息子の李清が1991年12月11日付の『東亜日報』のインタビューで、このように回想している。

インタビュー:大院君5代宗孫 李清氏

(前略)

 解放後に制定された旧皇室保護法によって旧皇室の財産すべてが国有化されたが、雲峴宮だけは除外された。
「母が釜山避難時代に、政府の要人だけでなく、国会議員全員を訪ねてまわり、雲峴宮は大院君の私邸であると訴えました」その結果、国会で、雲峴宮は旧皇室が所有していたものかどうかを問う投票まで行われ、150対8で雲峴宮は私有財産であると認められた。

 雲峴宮では、先代の李埈鎔の未亡人、それに先々代の李載冕の未亡人が暮らしていた。朴賛珠は、二人の息子を育てながら、二人の未亡人の生活を支えなければならなかった。そのため、大韓民国建国前後に、興宣大院君が持っていた石坡亭(現在の付岩洞所在)や、雲峴宮の洋館と付属の土地を徳成学園に売却している。現在の徳成女子大学鍾路キャンパスがそれである。また、雲峴宮の北側の一画で「雲峴宮礼式場」を営業したり、映画スタジオを計画していた東苑映画社と10年間の賃貸契約を結んだりした。さらに、「雲峴観光開発株式会社」を立ち上げて、李載冕・李埈鎔・李鍝が葬られている楊州郡和道面の墓所に隣接する公園墓地「牧蘭公園墓地」の造成・分譲にも乗り出した。

 

 大韓民国の初代大統領の李承晩は、朝鮮王朝の王家と同じ全州李氏ではあったが、遠い分家の末流であり、もともと共和主義者で、王制を嫌っていた。高宗・純宗につながる関係者に対しては、彼らが日本と深い関係を持っていたこともあり、冷淡だった。国籍の回復や帰国についても、これを認めなかった。

 

 1960年の4・19学生革命で李承晩政権が倒れ、その翌年、5・16クーデターで実権を握った国家再建最高会議の議長朴正熙は、李垠夫妻や徳恵の国籍回復や帰国について、1961年7月に東京の韓国代表部を通じて受け入れの意向が伝達された。11月、朴正熙が訪米する際、当時の日本首相・池田勇人の招きで日本に立ち寄り、迎賓館で方子夫人と面談して、旧王族・公族の関係者の韓国帰国問題が動き出した。

 

 まず、徳恵の韓国帰国の手続きが始まり、翌1962年1月の帰国が決定した。この徳恵の出迎えの使者として、1月16日に来日したのが朴賛珠と次男の淙であった。1月26日に、統合失調症で闘病中の徳恵は羽田空港からソウルに帰国した。

 

ノースウエスト機で金浦空港に到着しタラップを降りる徳恵翁主。横に付き添うのは七寸の甥・李海善 

 

 同じ1962年の6月13日には、墓参を名目として李方子と息子の李玖夫妻が韓国に一時帰国した。夫の李垠は東京で病床にあり、李垠の帰国の下準備のための渡航だった。この時も、朴賛珠が空港出迎え、尹大妃(純貞孝皇后)との再会、朴正煕議長の接見などで李方子に寄り添っていた。

 



 そして、その翌年、1963年11月に朴賛珠は再び来日した。この時に、冒頭に書いたように、陸軍士官学校45期の慰霊祭に出席して、李鍝の死亡後に自決した御附武官・吉成弘中佐の夫人・吉成まきのとも会った。そして、11月7日に夫・李鍝の死後初めて広島を訪れたのである。

 

 広島から東京に戻った朴賛珠は、11月16日に東京から韓国に戻り、同月22日の李垠夫妻の帰国を発表している。



 

 11月22日、病床のまま李鍝(英親王)と、方子夫人、息子の李玖が韓国に帰国した。

 

 

 徳恵の帰国、そして李垠・李方子夫妻の帰国という一連の動きの中で、朴賛珠は重要な役割を果たしていたことが分かる。行動力に富んだ人物であったと言える。

 

 その後、朴賛珠は広島にも行っておらず、韓国内での被爆者団体の集まりにも一切顔を出していない。

 李垠・方子夫妻の帰国の下準備で東京を訪れた1963年11月が最後の機会だと考えて広島に行ったのであろう。

 

 「雲峴宮」の当主の李清は、1990年にアメリカから韓国に帰国して、ソウル市に「雲峴宮」の売却を申し出た。ソウル市議会では反対論、慎重論が強く、一旦は保留されたが、1992年になって買い入れが決定された。

 

 朴賛珠は、北阿峴洞ブクアヒョンドンに邸宅を購入して李清夫妻と暮らしていたが、1995年7月13日に死去した。


 1994年に広島の中国放送が朴賛珠のインタビューを申し入れたが、応じなかった。代わりにインタビューを受けた李清は、次のように答えている(1994年03月21日放送「抗日 日韓併合のかげに」)。

 

広島には行きたくないですね。土も踏みたくない。行くとすれば、家族の眠るお墓に行きます。

 

 そして、復元された「雲峴宮」は1996年10月25日に一般公開された。

 

 


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 2026年3月21日、BTSのコンサートで多くの人が集まった光化門クァンファムン広場。

 

 

 韓国の文化遺産を世界に発信する象徴的な場所であると同時に、この広場は、現代史の節目ごとに人々が集い、その時代の鼓動を刻んできた場でもある。

◆大韓民国の建国(1948年8月15日)

 

 この日、制憲国会が開かれた旧朝鮮総督府庁舎前で、大韓民国政府樹立の国民祝賀式が行われた。大統領に選出された李承晩イスンマンは、国内外に政府樹立を宣言。同日深夜零時をもって米軍政から統治権が移譲され、大韓民国が成立した。

 

 朝鮮総督府庁舎建設時(1926)に景福宮キョンボックン東側へ移設された光化門は、この時点ではまだ正面に戻っていない。祝賀式には世宗路セジョンノに十数万人が集まったとされる。

◆ジョンソン・アメリカ大統領訪韓(1966年11月)

 

 当時、韓国は米国の要請に応じてベトナム戦争に大規模な戦闘部隊を派遣していた。ジョンソン大統領の訪韓は、この派兵に対する米国の謝意を示すとともに、朴正煕パクチョンヒ政権への支持を内外に示すものであった。

 

 到着当日、金浦キムポ空港から市内に入ったジョンソン大統領夫妻は、ソウル駅前、市庁シチョン前広場での歓迎集会を経て、中央庁チュアンチョン(旧朝鮮総督府庁舎)までパレードを行った。沿道には延べ200万人の人出があったとされ、世宗路も統率された歓迎人員で埋め尽くされた。

 

 世宗路の西側部分には路面電車の線路があったが、ジョンソン大統領訪韓前に急遽アスファルトで埋められ、その後は緑地帯になっていた。

 

映画「미워도 다시한번」(1968) より

 


 その後、この緑地帯は削られ、世宗路は片側7車線、上下14車線の大通りとなり、歩行者は地下道へと追いやられていく。

 

 

 1970年代から80年代にかけての大規模集会は、汝矣島ヨイドの5・16広場が主な舞台となる。

 

 光化門前の歩道が人で埋め尽くされたのは、1979年、朴正煕大統領の国葬であった。

◆朴正煕大統領国葬(1979年11月3日)

大韓ニュース 第1264-5号-故 朴正煕大統領 国葬

 

 中央庁前広場での告別式は数十万人規模とされ、葬送行進の沿道には延べ100万人規模の人出があったと報じられている(政治的誇張の可能性あり)。

 

 この後、世宗路が大規模な人波であふれかえることは少なくなるが、それに替わって市庁前のロータリー(2004年までは交通の要衝)が、新たな集会空間として機能するようになる。

 

◆市庁前広場 李韓烈イハンヨル君の葬礼(1987年7月9日)

 

 全斗煥チョンドゥファン政権末期、次期大統領選挙を間接選挙で行おうとする動きに対し、直接選挙を求める声が高まっていた。

 その中で、ソウル大学生・朴鍾哲パクジョンチョル君が南営洞ナミョンドン対共分室での拷問により死亡。さらに6月9日、延世ヨンセ大学前で戦闘警察の催涙弾が李韓烈君の後頭部を直撃した。李韓烈君は、7月5日に死去し、9日に民衆葬が行われた。

 

映画『1987』エンディング・ロールより

 

◆旧朝鮮総督府庁舎の撤去(1996年8月)

1995年3月1日 3・1節セレモニー

 

KBS 旧朝鮮総督府庁舎の本格的撤去始まる(1996.08.20) 


 1995年、金泳三キミョンサム政権は、光復50周年事業の一環として、植民地支配の象徴とされた旧朝鮮総督府庁舎の撤去を決定した。負の遺産の文化財としての保存を求める声も一部にはあったが、解体工事は翌年8月に着手され、1996年末までに完全に撤去された。

 

◆市庁前広場 サッカーワールドカップ(2002年6月)

KBS 市庁前24時 2002.06.22
 

 2002年ワールドカップでは、市庁前広場に多数の市民が集まり、街頭応援が展開された。韓国代表戦の日には赤い服の人々が広場を埋め、数万から数十万人規模に達した。

 

 大型スクリーンを囲み、歓声とため息が一体となる空間が生まれ、見知らぬ人同士が自然に連帯する場ともなった。この時、市庁前広場は「同じ時間を共有する場」となっていた。

◆米軍装甲車による女子中学生轢死事件(2002年12月)

 2002年6月13日、京畿道楊州キョンギドヤンジュで女子中学生二人が米軍装甲車に轢かれ死亡する事件が発生。当初は散発的な抗議にとどまっていたが、11月20日の米軍軍事法廷で無罪判決が出ると反発が一気に拡大した。

 

 11月下旬からろうそくデモが始まり、12月上旬から中旬にかけてピークに達する。抗議は光化門一帯にも広がり、世宗路や在韓アメリカ大使館前が主要な舞台となった。

 

 その最中の12月19日、大統領選挙が行われ、盧武鉉ノムヒョン候補が当選した。

◆盧武鉉の弾劾反対デモ(2004年3月)

 
 2004年3月12日、国会は盧武鉉大統領の弾劾訴追を可決。これに対し市民は強く反発し、光化門一帯でろうそくデモが連日展開された。
 
 
 集会は数万人規模に拡大し、民主主義擁護の意思表示の場となる。5月14日、憲法裁判所は弾劾を棄却し、大統領は職務に復帰した。

◆アメリカ産牛肉輸入反対(2008年5月)

 

 2008年4月18日、李明博イミョンバク政権が米国産牛肉輸入再開でアメリカと合意。これに対する不安から、5月2日に初のろうそく集会が開かれる。

 

 5月10日以降は連日開催となり、6月10日には大規模デモに発展。当初は平和的な抗議だったが、警察のバリケード設置や強制排除への反発から衝突が増え、次第に過激化した。

KBS 週末 市庁前広場”1泊2日”ろうそく集会(2008年6月28日)

 政府が6月19日に再交渉方針を示すと、7月以降は徐々に沈静化した。

朴槿恵パククネ弾劾要求ろうそくデモ(2016年10月29日〜)

 2016年10月24日、崔順実チェスンシルの国政介入疑惑が報じられると、10月29日に最初のろうそく集会が開かれた。

 

 以後、週末ごとに光化門一帯で集会が続き、11月12日には約100万人規模に拡大。要求は疑惑解明から大統領退陣へと変化し、抗議は全国に広がった。ソウルでのろうそくデモは、光化門前から青瓦台の近くにまで進出して展開された。

 

 

KBS 最初から6回目まで…ろうそくデモはこのように広がった(2016.12.04

 

 12月9日に国会が弾劾を可決し、2017年3月10日に憲法裁判所が罷免を決定するまで、平和的な大規模デモが継続した。

 


 

 2020年11月、世宗路の車道縮小と広場化工事が開始され、2022年8月6日、新たな光化門広場が開場した。

 

KBS 公園と一体化した光化門広場、1年9か月ぶりにオープン(2022.08.06)

 そして2024年12月3日夜、尹錫悦ユンソギョル大統領(当時)による非常戒厳令宣布以降、光化門広場は罷免要求とそれに反対する勢力の集会が毎週繰り返される場となった。
 
 

 こうして見ていくと、光化門という場所は、単なる都市空間ではないことが分かる。国家の成立を祝う場であり、権力を可視化する舞台であり、またそれに抗する民衆の声が噴き出す場所でもあった。

 車道に押しやられ、地下へと追いやられた歩行者は、やがて再び地上へ戻り、この広場を取り戻した。祝賀、弔い、抗議――そのすべてを受け止めてきた光化門は、まさに韓国現代史そのものを映し出す鏡である。

 


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