一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 12・12クーデターの現場はソウル市内各所に広く散らばっている。クーデターの発生からすでに45年。当時からそのまま残っている建物や施設もあるが、1979年当時とは全く違った姿になっている場所も多い。旧朝鮮総督府だった中央庁庁舎は撤去されて久しく、クーデターで「ハナ会」の拠点だった30警備団の駐屯地も、保安司令部や首都警備司令部も全て移転して当時の面影はない。45年前の当時の現場を、今のソウルの地図と照らし合わせながら、エリアごとに見てみよう。

 

漢南洞公邸エリア

 保安司令部の憲兵隊が、鄭昇和チョンスンファ大将を連行するために向かった陸軍参謀総長の公邸は漢南洞ハンナムドンにあった。この一帯には軍首脳や国防部長官、外交部長官などの公邸が集まっていた。2022年に大統領に就任した尹錫悦ユンソクヨル大統領が執務室を龍山ヨンサンに移したのに伴い、外交部長官公邸を大統領官邸に改修し、現在は用途が変わっている。ただ、この一帯が国家首脳部の居住地区であることに変わりはない。

 

 12・12クーデターの最初の銃撃戦は、この漢南洞公邸エリアで起きた。

 

尹錫悦大統領就任前の漢南洞公館エリア

 

首都警備司令部・安全企画部(旧中央情報部)

 この漢南洞の公邸エリアから南山ナムサン1号トンネルを市内中心部に向かうと、トンネルを出た右側が首都警備司令部、左側が中央情報部(KCIA)の南山庁舎だった。日本の植民地統治下では右側が憲兵隊司令部、左側には景福宮前に移転するまでの朝鮮総督府庁舎、そして朝鮮総督官邸が置かれていた。

 

 

 1990年代半ば、日本の統治下で手が加えられた南山を復元するとして、首都警備司令部や情報機関を漢江の南側に移転させた。現在、忠武路チュンムロの「南山ゴル韓屋マウル」になっている場所が首都警備司令部の跡地、ソウル・ユースホステルとなっているのが旧KCIAの南山庁舎だった。

国防部・陸軍本部・保安司令部西氷庫分室

 漢南洞の公邸エリアから梨泰院イテウォンを抜けて西に行くと、旧米軍龍山基地のサウスポストの北端、三角地サムガクチに出る。ここに国防部と陸軍本部がある。

 

 現在は道路を隔てて向かい側に戦争記念館があるが、12・12当時は、まだそこも駐韓米軍基地の一部だった。2022年に尹錫悦が大統領執務室を青瓦台チョンワデから国防部の本館に移したが、この国防部本館ビルは2003年10月に竣工したもの。1979年の12・12当時は、北寄りの建物(現:国防部調査本部)が国防部庁舎で、その裏手に陸軍本部があった。

 

 全斗煥チョンドゥファン少将が司令官をしていた保安司令部の西氷庫ソピンゴ分室は、米軍のサウスポストの南東側、潜水橋チャムスギョ盤浦バンポ大橋)に向かう道路から1本入った道沿いにあった。激しい拷問を行なうことで知られており、別名「氷庫ピンゴホテル」と呼ばれ恐れられていた。この施設で、金載圭キムジェギュ、鄭昇和、張泰琓チャンテウァンらは「録音調査(=拷問審問)」を受けた。実はこの分室は金載圭が保安司令官だった時に設置したものだった。

 西氷庫分室は1990年に閉鎖され、保安司令部は機務キム司令部と名称が変わった。以前分室があった場所には現在はテウォン西氷庫APTが建っている。その敷地前に、ここに「氷庫ホテル」があったことを示すプレートが埋め込まれている。

 

首警司30警備団・国務総理官邸・保安司令部

 首都警備司令部の30警備団は、大統領官邸の青瓦台の向かい側、景福宮キョンボックンの北西隅に駐屯していた。日本統治時代にはここに朝鮮総督府の官舎があった。

 

 青瓦台の西側に隣接して大統領殺害現場となった「宮井洞安家クンジョンドン アンガ」があり、東側の三清洞サムチョンドンへ通じる道沿いに国務総理官邸があった。朴正煕の死後、大統領代行となり12月6日に大統領に就任した崔圭夏チェギュハは、12・12の時はこの総理官邸で執務していた。

 

 

 12・12クーデターの時に「ハナ会」の拠点となったのがこの30警備団の駐屯地だった。30警備団は、1996年12月に移転のため景福宮から撤収した。現在は、その駐屯地跡地に泰元殿テウォンジョンが復元されている。

 

 保安司令部は、景福宮の東側、現在は現代美術館ソウル館になっている建物にあった。ここは元々は京城医学専門学校の附属病院で、朝鮮戦争後は国軍病院となり、その後保安司令部がここに置かれた。クーデターの後、12月14日に祝賀パーティーが開かれて記念撮影が行われたのは、この施設である。

 

 

12・12クーデター時の兵力配置と展開

KBS 2023年4月30日放送「歴史ジャーナル あの日」より

 

 盧泰愚ノテウ少将が師団長をしていた第9師団は、ソウルの北西部高陽コヤン一山イルサンに師団駐屯地がある。休戦ライン間近の防衛を担う前線部隊だが、12・12クーデターでは師団麾下の第29連隊を光化門クァンファムン中央庁チュアンチョン(旧朝鮮総督府庁舎)前に出動させた。当時、作戦統制権はアメリカ軍の大将を最高指揮官とする米韓連合司令部にあり、韓国軍部隊の移動には米軍側の了承が必要だった。しかし、盧泰愚は独断で第29連隊をソウルに移動させた。これがクーデターの帰趨を決めたとされる。

 

 映画「ソウルの春」の元ネタの12・12クーデターの背景について整理しておこう。

 

  朴正煕暗殺事件と鄭昇和参謀総長

 12・12クーデターが起きる1ヶ月半前の10月26日夜に起きた朴正煕パクチョンヒ大統領と警護室長車智澈チャジチョルがKCIA部長金載圭キムジェギュに撃たれた事件。その事件現場となった青瓦台のそばのKCIA施設「安家アンガ」は、今は「ムグンファ公園」になっていて当時の建物はない。事件の当日には、金載圭と約束があった鄭昇和チョンスンファ陸軍参謀総長が安家の本館に来ていた。金載圭は、나棟の宴会場で朴正煕らを銃撃したあと、金載圭が撃ったことをまだ知らない鄭昇和を車に同乗させて現場を離れ、陸軍本部に向かった。助手席には金載圭の秘書官朴興柱パクフンジュが乗っていた。

 


 

 映画「KCIA 南山の部長たち」では、この日、陸軍参謀総長のKCIA部長訪問から、銃撃後に車で事件現場から離れるところをこのように描いている。

 

 

 朴正煕大統領の死去の報告を受けて、すぐに崔圭夏チェギュハ国務総理が大統領権限代行となり、鄭昇和陸軍参謀総長を戒厳司令官として戒厳令を宣布した。大統領殺害事件の捜査本部長には保安司令官の全斗煥チョンドゥファンが任命された。金載圭は、銃撃現場にいた金圭元キムゲウォンの証言などから大統領を銃撃したことが発覚して逮捕された。その後の調べで、鄭昇和は大統領の銃撃と殺害には関与していないとされたのだが…

 

 12月12日のクーデターは、大統領銃撃現場近くにいた鄭昇和戒厳司令官の逮捕を口実に引き起こされた。10月26日の事件当日の鄭昇和の動きをむし返して、それを逮捕容疑として利用したのである。

 

  士官学校とハナ会

 鄭昇和は、大韓民国建国前のアメリカ軍政下の1947年に高校を卒業し、警備士官学校(陸軍士官学校の前身)に入学、6ヶ月の速成課程を経て士官に任官した。1978年5月に大将となり参謀総長に就任した。

 

 陸軍士官学校が4年課程になるのは朝鮮戦争中の1951年入学の11期生から。大学と同じ4年課程、しかも学費が無料で卒業後は軍のキャリアが保証されている士官学校には優秀な学生が集まり、一流大学と肩を並べる高等教育機関とされた。卒業生は国家をリードするエリート士官を自認した。全斗煥や盧泰愚ノテウは、その4年課程になった士官学校の最初の卒業生だった。

 

 陸士11期生の慶尚北道キョンサンブクドの同郷出身者は、軍の人事や処遇に関して情報交換し親睦をはかることを目的とする組織を作った。これが拡大して「ハナ会」となる。「ハナ会」は、朴正煕の1961年の5・16クーデターの時に陸軍士官学校の学生を動員して市街パレードを敢行するのにも一役買った。この「エリート士官学生たちの支持アピール」が、「反乱」を「革命」と称するようになる転機とされた。

 

(音声なし)

 

 「ハナ会」は、士官学校出の特定のグループが内輪で親睦を図る集まりだったが、次第に勢力を拡大して軍内部の人事や配置にまで影響力を行使する「結社」の性格を帯びていった。

 

 ところで、軍部隊の指揮官となる士官(将校)は、全てが士官学校出身というわけではない。各種の軍事学校の幹部教育でも士官を養成をする。1969年まで、幹部教育を受けて将校になる「甲種将校カプチョンチャンギョ」という制度があった。この「甲種将校」出身の将校と、陸士出のエリート将校との間には軋轢があった。尉官(少尉・中尉・大尉)、佐官(少領・中領・大領)、そして選ばれたものが将官(准将・少将・中将・大将)になる。准将以上には星がつく。制服や制帽、そして公用車のナンバープレートにも星が表示される。

 

大将は「フォー・スター(포스타)」

 

 大領(大佐)から「スター」の准将に上がるところに関門があり、そこでも「エリート将校」と「甲種将校」との間のせめぎ合いがあった。

 

 大統領銃撃事件で金載圭に撃たれて死んだ警護室長車智澈は、12期の陸軍士官学校を受験したが不合格。やむなく砲兵学校を出て「甲種将校」となった。しかし、スターが付かないまま中領(中佐)で退役して国会議員に転じた。1974年に大統領夫人陸英修ユギョンスが撃たれて死亡した文世光ムンセグァン事件が起きると、見込まれて警護室長に抜擢された。車智澈は青瓦台警護室長の権限を強化して首都警備司令部の指揮権の一部を警護室長に移し、30警備団への影響力を強めた。戦車も配置した。

 

 1979年の10月に朴正煕と車智澈とを銃撃した金載圭は、朴正煕よりも9歳年下だが、解放後の警備士官学校では朴正煕と同期だった。三つ星の中将(쓰리스타)で退役し大統領の側近となり、KCIAの部長になった。

 

 映画「南山の部長たち」では、KCIA部長と大統領警護室長との口論の場面で、「いいな?クァク中佐・・!」と、軍隊時代の階級差でトドメを刺す場面がある。

 

 

 このように、スターの付く将官になるか/なれないかは、軍を退いた後の処遇や人間関係にも大きく影響する。だから、スター目前の佐官クラスの部隊指揮官たちは、「ハナ会」のメンバーでなくとも、人事に強い影響力を持つ「ハナ会」には逆らえないということも起きた。

 

 鄭昇和が首都警備司令官に登用した張泰琓チャンテワン少将も陸軍行政総合学校出身の「甲種将校」だった。1979年11月に司令官に就任した時、首都警備司令部の部隊、特に青瓦台チョンワデ直近の30警備団には「ハナ会」のメンバーが少なくなかった。士官学校出ではなく中佐止まりだった車智澈が、スターやスター目前のエリート士官たちを従えて悦にいっていたからだ。

 

全斗煥と盧泰愚の襟章と帽子に星が二つ 少将(투스타)である

 

 その結果、全斗煥がクーデターを起こすと、多くの首都ソウルの中核部隊の指揮官が「反乱軍」側に付くことになった。朴正煕大統領と一緒に殺されてしまった車智澈の置き土産の軍の人事が、クーデター勢力側に有利に働いたのだ。

 

赤枠が「反乱軍」側についた部隊指揮官
KBS 2023年4月30日放送「歴史ジャーナル あの日」より

 

 1979年12月13日の朝、つまり全斗煥らが12・12クーデターを起こした翌日。朝刊各紙の一面や社会面には、前夜に首都ソウルで漢江ハンガンの橋が遮断され市内に軍隊が展開するという事件が起きたことが大々的に報じられた。

 

 『東亜日報』の社会面の記事(右上)はこんな内容だった。(手動でスクロール)

漢江の南北遮断5時間 漢江の橋、車両通行禁止に
会社帰りの市民が歩いて橋を渡る
路肩の車の中で徹夜も
帰宅できなかった人は旅館の相部屋で


 12日午後7時、ソウル龍山ヨンサン漢南洞ハンナムドン鄭承和チョンスンファ参謀総長公館に出動した軍の捜査機関員と、公館の警備兵との間で起きた衝突で、この一帯をはじめ、ソウル市内の11の漢江橋の交通が遮断され、江北から江南へ退勤する多くの市民が足止めされ、橋を歩いて渡る事態になった。 また、橋の上や道路の左右に車を止めたまま、車の中で仮眠したり、徒歩で帰宅して13日未明になって車を取りに戻るなど、明け方まで交通混雑をもたらした。
 この日の夜8時頃から漢南高架道路北端と檀国タングク大学校の間、奨忠洞チャンチュンドンから国立劇場の間、薬水洞ヤクスドンロータリーから漢南洞の間の道路が軍と警察によって遮断され、夜11時頃にはソウル市内の南北をつなぐすべての橋梁の車両通行が禁止された。
 このため、すべての車両が足止めされ、夜間通行禁止の0時が迫る中で、橋の左右の江辺カンビョン道路などには数千台の民間車両が停まったままで、人々は車から降りて歩いて橋を渡ったり、車の中で夜を明かすことになった。
 漢江の南北をつなぐ橋は、車両通行の禁止から5時間後の13日未明4時、通行禁止の解除とともに車両通行が再開された。
 橋の上と両側で足止めされていた数千台の一般車両は、通行禁止時間中にもUターンが許されており、明け方4時の通行再開と同時に一斉に動き始め、普段見られないような慌ただしい夜明けとなった。
 この日、漢江橋の車両通行が突然禁止されると、帰宅できなかった永同ヨンドン蚕室チャムシル永登浦ヨンドゥンポ金浦キンポなどの地域の住民は、徒歩で橋を渡って1〜2時間かけて家に戻ったり、橋の近くの旅館などにも宿泊した。この夜、マスコミ各社には「橋の通行が遮断されているが、何かあったのか」といった問い合わせ電話が明け方まで相次いだ。

 

 外国の新聞・通信社もこの事態を大きく報じた。『読売新聞』もソウルの島元特派員発でニュースを伝えた。

読売新聞1979年12月13日夕刊

【ソウル十三日! 島元特派員】
 鄭戒厳司令官逮捕という衝撃的な事件のあと、一夜明けた十三日のソウル市内には、戦闘服、自動小銃で武装した兵士の姿が増え、特に中央政庁舎などのある中心部では、緊迫した空気がみなぎっている。だが、十二日夜には一晩中戦車がごう音をあげて走り回っていたのに、十三日は一応は静かな表情を取り戻している。
 ソウルのど真ん中太平路の中央政庁舎の周囲は、前日まで警備を担当していた首都警備司令部部隊とは違う部隊が配置されている。戦車二十台、装甲車八台と、その数も増強され、無反動砲を装備したジープが庁舎の表裏双方の出入り口に配置されて、一層いかめしい印象を与えている。
 一般の市民はいたって平静で、商店や会社も平常通りの営業を行っている。ただ、十二日午後八時に、ソウルのビジネズ街と居住区をわける漢江の十二の橋が突然通行禁止になったため、市民は自動車を放置して徒歩で帰宅したり、あわてて旅館にかけこんだり、車内で一夜を明かす人も多かった。橋の通行止めは十三日午前五時に解除されたが、市民たちはようやく朝のラジオ放送で通行禁止の理由を知り、納得するとともに「またか」との深刻な表情をも隠していない。職場では少しでも情報を得ようと、ニュースの時間のたびにラジオの周囲に人が集まるが、放送は国防相談活を繰り返し流すだけで事件の詳細についてはまったく報じていない。
米軍人外出控えよ
【ソウル十三日=島元特派員】
 グライスティーン駐米大使は、十三日午前、ソウルの米軍放送を通じて、外人学校を十三日は休校にしたことを伝えるとともに、アメリカ人は不用な外出をしないよう呼びかけた。ウィッカム駐韓米軍司令官も同放送で、米軍人とその軍属に対し、外出をひかえるよう呼びかけた。

 

 一夜明けた13日に伝えられた国防部長官の声明で明らかになったのは、陸軍参謀総長で戒厳司令官だった陸軍大将鄭昇和が拘束され、李熺性イヒソンがその後任に任命されたことだけ。12月12日の夜に一体何が起きていたのか、一般市民は知りようがなかったし、この事件に関与した当事者の多くもまた、この時点では前夜起きた出来事の全貌を把握していたわけではなかった。

 

 その後、1987年の「民主化宣言」があり1993年には「文民政権」の金泳三キムヨンサム大統領が誕生し、紆余曲折を経ながらもこの12・12の「真相究明」と「責任追求」が行われるようになった。その過程で明らかになった事件の経緯を再構成して、テレビ各局がドキュメンタリー番組を作り、ドラマ化されて「コリアゲート」(1996 SBS)や「第5共和国」(2005 MBC)などが放映されてきた。

 

 2023年11月に韓国で公開された映画「ソウルの春」も、この12・12事件を素材にして脚本が書かれている。再現劇ではないので、登場人物は微妙に仮名になっているし、場面描写やセリフには当然ながらかなりの脚色が加えられている。実際にはなかった場面も挿入されている。この映画は、韓国で1,300万人以上の観客を動員し、韓国人の4人に1人が観たとされる。今年の5月からは韓国のNetflixでも公開されており、2024年8月23日日本でも公開。