タレスはそういったそうな。
しかし、それは世の中のものがすべて水で出来ている
という意味ではないらしい。
水は形がなく常に変化しする。
蒸発して消え去ったり、突然雨になって降ってきたり
湧くこともある。
しかし、水そのものは消えない。
世の中はまるで水のように流転し変貌する。
しかし、世の中そのものは消えない。
したがってその存在そのものについて問うことに意義がある。
タレスはそう言いたかったようである。
世界は水で出来てる。昔の人は単純だったなんて。。。
単純なのはお前だ。
タレスはそういったそうな。
しかし、それは世の中のものがすべて水で出来ている
という意味ではないらしい。
水は形がなく常に変化しする。
蒸発して消え去ったり、突然雨になって降ってきたり
湧くこともある。
しかし、水そのものは消えない。
世の中はまるで水のように流転し変貌する。
しかし、世の中そのものは消えない。
したがってその存在そのものについて問うことに意義がある。
タレスはそう言いたかったようである。
世界は水で出来てる。昔の人は単純だったなんて。。。
単純なのはお前だ。
米中はもめるたびに株価は大きく変動する。
もちろん悪化する。
それでは困るとばかりすぐに
和解する。
しばらくするとまたもめて
また株価が下がる。
まずいまずいと妥協して株価が戻る。
一方、日韓ではまるで株価に変化がない。
それぞれ米中のもめごとに反応して上下はするものの
日韓当人同士の関係では両者の株価に変動がない。
こうなると米中と違って安心してもめることができる。
関係の回復について識者の様ような見解があるが、
余に言わせれば、株価に変化がない限りでは
どれだけもめてくれても構わないということなのだろう。
それにしてもどちらの株価も冴えない展開であるよ。
結局は2大国のご機嫌次第。
これでは鬱憤もたまるわけだ。
古典力学をモデルにした経済学原理。
そこから生まれる数理ファイナンス。
しかし、そんな金融工学とはちょっと違う経済物理学。
価格変動がブラウン運動であることを前提とした
ブラックショールズ偏微分方程式に対してすでに
50年代には反論がある。
統計物理学の上にたった計量的な経済学とは。
コンピュータを使っていつ解けるとも知れない
遠大なテーマに望む地味な仕事だそうだ。
今後、ビッグデータの開放とともに
研究が加速するという。
果たして。
それでもほとんど役に立っていない
近代経済学に比べれば
なかなか深みがあってよろしいか。
やっと三分の一あたり。
まだまだ長いが
資本主義の正体が知れるとあるので
宇野だの小幡だの内田だの参考にしながら
読解を進めることにする。
いったい何を教えてくれるというのか。
しかし、すでに予感は読み取れるところが
嬉しい。
余がこれまで出会ってきた人たちの中には
一緒にいることがとても困難なものたちが
たくさんいた。
恩知らずな人、
常識を著しく逸脱している人
乱暴な人
嘘をよくつく人、などなど
これらは単に個人の資質の問題であると
余はずっと思っていた。
しかし、精神心理、医学等の勉強をすすめていくうちに
疑問が湧いてきている。
ある種の気分障害やパーソナリティ障害は
余がこれまで出会ってきた彼ら彼女らと基本的に何ら変わらないのだ。
余自身の中さえ、大いに共感できるものもある。
世の中に起こるさまざまな出来事、それに対する
人々の対応。
そういったものを診ていると
みんな何らの精神疾患に罹患しているのではないか、
いやむしろ診断がついてしまうではないかと
そう思えて仕方がない。
もしそうであるならば、
法律よりも治療ということになろう。
法は罹患者にはほとんど意味をなさないからである。
民主主義は人民がみな正常な精神状態であることを前提としている。
15%以上はうつで、25%以上はパーソナリティ障害であるのなら
これはむしプラトンのいう哲人政治の方が人間には向いているのかも
しれない。
資本主義がさらに進行し、格差がもっと拡がっていけば
必然的に資本家による貴族政治のようなものが復活する。
しかし、その資本家たちもまた大いに気分障害者である。
困ったものだ。
精神医学の不断の進歩だけが人類の未来を左右すると
余は想う。
労働から次の労働へと繋いでいくにあたり
新たな労働に対する備えとして
休養なり娯楽なりを行う。
これらは明らかに消費である。
資本論によればこの消費こそが
資本家と労働者を別ける決定的なものであるようだ。
一方、休養でも娯楽でもない、いわゆる自己研鑽というものは
どうであろうか。
それは投資と言えるものであろうか。
投資であるなら元本が利益を連れて返ってこなくてはならない。
しかし、実際には利益どころか元本すら戻ってこない。。
それは自己投資と呼ばれているものが
往々にして単なる消費に過ぎないことを明示している。
休息で消費し、娯楽で消費し、その上自己研鑽とやらでまた消費する。
これでは、労働者が労働者から抜けられないのも当然である。
精神の充実を誘う生きがいと
生活の安定を賄う労働とは
しっかり別次元のものとして考えなかればならない。
国債の利子分を税金でまかっている。
法人税の減税分を消費税で補填している。
国からも企業からも
賃労働者は搾取されっぱなしだ。
しかし、その賃労働者が株を買って
その配当を得たならば、
それはむしり取られた賃金の一部を
場合よっては全部を取り返すことになるかもしれない。
このように考えてみると
資産運用の別の目的が見えてくる。
いや、これが本来の目的かもしれない。
ひたすら経を唱える。
そんなことに何の意味があるのか、と
これまで思っていた。
この作業は心理学的に
マインドフルネスだったようだ。
声に出すとよりいっそう
自動思考といった雑念を抑制しやすくなる。
何かに集中したいときに忍者たちが9字を結んだのも同じ。
東洋の思想というものは実に奥深い。
農奴と地主は利害において
当然対立関係にある。
そりゃそうだ。
しかし、資本主義においては
対立関係にあるはずの労働者と資本家がそうはならず、
実際には仕事を取り合うことで、
あるいは資本家に自分の売り込み合戦をすることで
労働者同士が対立関係になっている。
そして皮肉にも資本家同士は搾取するというこの一点において
いつも同盟関係にあるという。
尾崎行雄が言っていた。
庶民は本来リベラルな政権を支持することが得であるのに
自分たちに対立するはずの保守の政権を支持するのは矛盾であると。
しかし、これも上の理屈で説明できる。
資本主義においては庶民の敵は金持ちではなく、
隣の庶民である。
そして金持ちに対しては自らの生活のためにも
いつも媚を売っていかざるおえない。
これが資本主義の不思議な魔法であるという。
資本家同士が国を超えて常に同盟するという件は
産業革命以降の世界史上のイベントを
良く説明してくれるのみならず、
現在の国際情勢も分かり易いものにしてくれる。
争っているのはいつも鬱憤の貯まった労働者同士である。
これを魔術と言わずにして何といおう。
現在の資本主義世界における人生とは
この魔術をいかに理解し使いこなすかにある。
まさに人生と魔術は同伴している。
資本論の中に
資本と労働の再生産というものがある。
理論だてて労働者がエリートも含めて
いつまで経っても労働者のままで
資本家もまた資本家のまま。
そして資本はひたすら増えていく。
そういったことをくどくどと説明している。
確かに説得力のある話ではあった。
しかし、これが真実であるとすると
労働者がそうであり続けるのは自業自得ということになる。
また、むしろ階級闘争など起こらないことになる。
労働者は労働者同士で相争うだけのことで、
資本家は知らん顔で資本を増やしていくだけのこと。
それがゆえに団結せよといったのか。
その時代も今も何も変わらない。
周りを見渡しても賃労働者は次の労働力の生産のためにか、
ひたすら消費している。
賃労働者は賃労働者であることを自ら選択しているように思える。
そして資本家は資産をチマチマと幾分か無意味に増殖させている。
この資本論の理屈では
格差とは低辺は低辺のままで上が伸びていくことで起こるのか。
ふと現実に返ってみると、
被雇用者の賃金はここ10年いや20年、特に変化していない。
一方で資本家の資産は20年前の何十倍となっている。
これはただケチな性格で貯蓄癖があったからということとは
別の力が働いていたというわけだ。
マルクスは今見直されているというが、
確かに資本主義の闇をよく見抜いているように思えた。
特に、労働者の経済的隷属というものが
実は労働者自身の自発的なものによるもので、
それは資本主義体制の宿命であるといったところが
興味深い。