賃労働者である限り搾取され続ける。

 

勤務を経験し、そのうえで自営して雇用者になってみると

 

そのことが痛いほどよく分かる。

 

しかし、搾取されていたころは結構幸せだった。

 

幸福な奴隷とはこのことか。

 

生きがいを大いに感じながら働いていた。

 

一方搾取する側に回った現在、果たして幸せであるか。

 

これが微妙である。

 

余は想う。

 

幸福であるのなら奴隷でも結構ではないか。

 

井の中の蛙でもいいじゃないか。

 

貧乏に満足し、その中に生きがいを感じ、

 

働くことに喜びを得るのなら

 

もうそれで十分であろう。

 

しかし、そうは思えない幸か不幸か分からない人間がいる。

 

ひたすらに利潤を求め資産を増殖させることのみに

 

エネルギーを消耗している。

 

そういう人間はもはや搾取することでしか満足できない。

 

余は想う。

 

それもそれでいい。

 

飽きるまで搾取を続ければよい。

 

そして飽きたら、学問でも公共活動でもすればよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本論の勉強をしているうちに

 

親鸞にたどり着く。

 

どうも親鸞の生き方というものが

 

文科系学者たちの想うところと

 

相い重なるものなのかもしれない。

 

延暦寺から法然のもとにゆき。

 

ずっと思い悩みながら新潟の方まで旅をする。

 

そして今度は関東へ。

 

最後はもう一度京都に帰ってくる。

 

その後も安寧ではなかったが

 

それなりの信念をそれなりに貫いている。

 

そしてそれなりに死ぬ。大往生ではなくそれなりである。

 

 

経済学など何の役に立つのだろうか。

 

文学、社会学など意味があるのか。

 

それは仏法など何の役に立つのであろうか、と問うた

 

親鸞の苦悩に似ているか。

 

 

このように純粋に苦学することが学者であるのなら

 

余は学者ではないようだ。

 

かといって金に対する執着も中途半端で

 

商人としても半人前である。

 

折に触れて学問したり

 

金を稼いでみたり、

 

社会活動に参加してみたり、

 

もうちょっとジョブを確定させたいと想うのであるが、

 

親鸞の女房連れてフラフラと旅して回る

 

その部分だけが妙に楽しそうで共感できる、

 

そんな余は何者であるか、

 

などと考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

暑すぎて、暇すぎて

 

最近は資本論の勉強に励んでいる。

 

高校生のころ

 

マルクスの資本論やハイデッガーの存在と時間は

 

教養人のシンボルのようなものだった。

 

それがしばらくしてすっかり廃れてしまって

 

あんな古典のどこが面白いとばかり

 

目もくれなくなった。

 

ところが最近また資本論が見直されているという。

 

そこで一度は勉強してみたかった資本論に

 

この際挑戦することにした。

 

暇なので何時間も読書に当てられる。

 

しかも今の時代youtubeで解説動画もたくさんある。

 

やはりじっくり学問するのは楽しいものだ。

 

 

専門職の人間は仕事に関係ないことには

 

まったく触れることなく一生を終えていく。

 

幸とか不幸の問題ではない。

 

いや、まさにその問題かもしれない。

 

 

米中の交渉が穏便に進んだようなので

 

投資家としてはありがたいところである。

 

トランプが金正恩に会うとか何とかに対して

 

外務省が「心配しないくていい」とあった。

 

米朝の友好ムードは止めてほしいということだ。

 

国内は消費税やら2000万やらで暗くなってきているところで

 

韓国が幸せそうなのは国民を刺激するからまずいのだろう。

 

消費税後にくる法人税減税が真実ならば

 

投資家たちにとっては

 

経済成長が見込める親韓、親中は

 

大いに結構である。

 

 

投資家はつまり

 

消費税賛成、リストラ賛成、そして親韓、親中、親米。

 

配当性向増に繋がるものはなんでも賛成となる。

 

投資家はおそらく親安倍である。

 

経済政策はもう少しハト派でいってほしいところ。

 

経営者側からすればまったくその通りとなるだろう。

 

腐ったみかんは大変迷惑であるから。

 

また、生き生きと頑張っている従業員にとっても

 

腐ったみかんは邪魔である。

 

パワハラであるとのことでそれはまったく

 

そうではあるのだが、

 

現実問題として腐ったみかんは困りものである。

 

よって、退職に誘導するのは当然の流れとなる。

 

リベラル派はこの考えには決して納得がいかないであろう。

 

余もリベラルであるのだが、しかし、

 

腐ったみかんはいただけない。

理想的なパン人生というものがあった。

 

そこから逸れてしまった。

 

別の人生を受け入れながらも

 

かつて己が理想としていた人生パターンを

 

折に触れて思い出している。

 

 

彼は理想的な人生パターンを

 

パン人生に限定し過ぎているし、

 

また理想化し過ぎている。

 

 

多様化したこの世界において

 

パン人生だけが彼にとっての

 

選択肢ではない。

 

 

職業人生とはよく聞く話である。

 

弁護士人生、医者人生、会計士人生。

 

営業マン人生、証券マン人生なども聞く。

 

もちろん生活の糧としての技能なりは重要であろうが、

 

それを超えた分については

 

もはや趣味の領域である。

 

 

こげぱんこそは

 

人生の豊かな可能性の臨界値に

 

足を踏み入れた人生のモデルである。

 

アクションポテンシャルは臨界値を超えないと

 

発動しない。

 

また、一度のアクションポテンシャルを体験したものは

 

しばらくの不応期を迎えるのはやむをえないのかもそれない。

 

 

 

 

 

 

 

繰越欠損は9年損益通算できる。

 

よって9年赤を継続してから黒がよい。

 

しかし、なかなかうまくいかなかった。

 

黒のときに限って経費がほとんどかからず

 

赤の後にはすぐに黒が来てしまった。

 

経験も積んできたことだしそろそろ

 

その辺りをうまく調整したいものだ。

 

給与の調整は税金逃れを指摘されるので

 

やってはいけないという。

 

これまで困っていたが、

 

今年度は巡り合わせがよかった。

 

黒の獲得と赤の帳消しでうまくいきそうだ。

 

このパターンの実行には勇気がいるが

 

思うに

 

勇気は熟慮や精気よりもむしろ

 

経験から得られるものらしい。

 

結局、得できるかどうかは

 

勇気に依存している、と知る。

 

 

稼いだ金をひたすら貯める人はどれくらい

 

いるのだろうか。

 

何か目標があって蓄財したのちその目的のためにこれを散財するのは

 

当然のなりゆきである。

 

目標もないから最初から蓄財せず常に消費し続けるというのも

 

自然な発想である。

 

 

では、貯まってしまうのはどんなときか。

 

 

目標あって蓄財したのではあるが、

 

なんらかの障壁に出くわして

 

これを使うことができなってしまった場合。

 

 

世界史の勉強の中で先生が言われた。

 

ユダヤ人は有形の財産が欲しくて、

 

これは誰もがであるが、

 

蓄財に励むところまではよかったが

 

迫害の故に

 

有形資産をもつことが許されなかった。

 

彼らは

 

夢を叶えるために貯蓄した金融資産を

 

そのまま持っているしかなかった。

 

そして、ここに金融資産運用という形で

 

実体経済とは別の経済システムが生まれてきたという。

 

今や金融経済は実体経済の50倍を越えているとか。

 

 

さて、ユダヤの富豪とまではいかないまでも

 

ある程度金を貯めてしまった小富豪たちの

 

出現メカニズムはほぼこれで説明できる。

 

これらの小富豪は

 

起業で大成功をした卓越した運の経営者なのでもなく、

 

博打や賭け事などの数奇な幸運に恵まれたのでもない。

 

ただ普通に努力して働き、

 

ただ普通に貯蓄したのであるが、

 

何らかの不遇にてこれらを使うことが許されなかった。

 

そう、不遇でなくては使ってしまうのであるから、

 

不遇は必須である。

 

結果として彼らは

 

一般人からすれば信じがたいほどの

 

金融資産を持つことになったのである。

 

この事実は

 

現代の高度に発達した金融資本主義経済社会において

 

意図せずして、彼らを特殊な存在に変えていく。

 

2000がどうのなど彼にとっては

 

財布に残った忘れられた小銭の話である。

 

 

 

 

 

最初から入りきれないと分かっている部屋に

 

誘導する。いかにも官僚的だ。

 

結局、チェックを済ました後は一人ひとりと抜けていく。

 

形式主義には怠慢で対抗している。

 

実に愚かしく時間のムダである。

 

それにしても余はまた想う。

 

この人たちの視野はきっと狭いであろうなと。

 

余もかつてそうであった。

 

それが悪いと言っているのではない。

 

その中で人生を終えるのも大変結構である。

 

幸か不幸か余には別の機会が与えられた。

 

また余は想う。

 

別次元に入った余には今ひとつ何かが足りない。

 

当然である。

 

別次元は荒野であるからすべてが欠如している。

 

かつての専門も教養のひとつとなってしまった余にとって

 

実学の空しさと人文学の儚さが身にしみる。

 

などと帰路にて。