以前、半ば強引に、善悪二元論という宗教(もどき?)を書いた。


 そして、知っている方は知っていると思うが、善悪二元論というので有名なのがゾロアスター教、そしてこの宗教をプロットとした映画が何を隠そう、あのスター・ウォーズである。


*ちなみに自分は映画を見ていないので、その魅力を存分に理解されている方をさりげなく募集していたりする。


 パチモンというのはある意味善悪二元論ならぬ


真贋二元論、


 ともいうべき考えに基づいている、と勝手ながら考えている。


 本物の追及には大変な手間がかかる。そして嘘は基本的に許されるものではない。


 それに本物を作り上げるには手間がかかる。そして手間の代償としてお金がかかる。時間もかかることはいうまでもない。


 ではパチモンはどうか?


 パチモンにはそれほどお金がかからない。


 本物と見分けがつかない、例えば超一流の贋作者が本物として鑑定家等専門家を欺くことを無上の悦びとする場合とかは別として、基本的にはいい加減なものである。


 だがそれがいい。


 パチモンはそのいい加減さがいい加減であればあるほど滑稽であり、逆に本物の素晴らしさを引き立てるための露払い的な側面を持つものだともいえる。


 しかし、一方で、本物はパチモンが滑稽であればあるほどその価値が改めて認識される、そういう認識であってもいいんじゃないかとは思っている。


 本物を理解するのには正直言って時間がかかるものである。ましてや見えないところに力を入れているところを真に理解し、そこに対価を払うなんて誰にでもできることじゃないし、自分にそれができるかというとやっぱりそれは難しいと思う。


 自分の場合であってもやはり、「これは見えないところに一番の仕事が発揮されてますよ」と言われて初めて気付かされる、ということの方が多い、というよりほとんどだし、それを最初から見抜き、それこそ値札のない商品に最初から価値を見出して対価を支払うなんてまず無理だと思う。


 ならば、それを知るには、というと、遠回りかもしれないが、やはりその対極としてのパチモン、つまり徹底した偽物の存在を知る、ということが一つ意味合いを持つことにもなるんじゃないかと思う。


 パチモンには真の美しさよりもむしろ、表面的な美しさがある。


 では表面的な美しさは否定されるべきものかというとそうじゃあない。少なくとも表面的に人を惹き付ける、それがなければ人に見てもらうことすらできない。


 パチモンは基本的に一見さんお断りならぬ、一見さんのみお取り扱いともいうべきものである。

 

 長く付き合っちゃ困るのだ。メッキが剥がれるから。


 もちろん、その剥がれっぷりを楽しむのがパチモンの楽しさでもある。


 それはいうなれば盗賊の頭が急速に頭角を現して領主の地位に納まった途端、自らの出自を飾り立て、あれよあれよという間に天子様と祭り上げられていく、しかし圧政によって民の不満が高まっていって遂には滅びてしまう。平家物語よりもさらに極端なジェットコースターよりも早い新幹線並みの栄枯盛衰物語を眺めるような感覚であろうか。 (世界史には割とそういう王朝交代劇がある。)


 ここで不思議に思う方もいらっしゃるかもしらないが・・・・「なぜパチモンとわかって買うのか?」ということである。


 自分で言うのも何だが普通の人間とは感覚が違う。だからこういうものに魅力を感じる、といってしまえばそれまでなのだが、何故かというと難しい。


 だが、なぜかというと、敢えて言ってしまうと廃墟の美学というか、そういうものに近いのかな、と思うことがある。


 真贋二元論などと仰々しい話題に始まり、パチモンとは何か?そして廃墟の美学など、今回はとりとめもなく書きすぎてしまった。また別の機会があればきちんとした形でまとめてみたいと思う。

 相撲のキーホルダーを秋葉原で買ってきた。


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 確かに相撲は日本の国技である。日本のお土産として相撲というテーマを扱うことは決して悪くはない。


 読みづらいかもしれないが、「相撲」の下に、「横綱 SUMO」の文字が書かれおり、とりあえず相撲らしさを演出してえることだけは確かなようである。


 だが、しかし、


 これを見て相撲をイメージできる人が何人いるだろうか?


 以前書いた記事をもう一度伝えることになるが、同じく秋葉原で寿司のキーホルダーというのがあって、



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 これを見ると、確かに寿司のイメージを思い浮かべることはできる。


 もちろん、寿司=マグロということが十分に理解されず、もしくは寿司=赤い魚という誤った偏見が根付くことによりである、このお土産を手にした、例えば欧米人を寿司屋に案内し、せっかくだからとウニとか高級なネタを注文したとしよう。


 Hey! イチロー、僕はSUSHIを食いたいんだ。このキーホルダーにあるような赤い魚を注文してくれよ!


 なんて誤って認識を持たれないことを切に願っている。


 ・・・と話が横道にそれてしまったが、つまりである、相撲ならばもっと力士のちょんまげとか、土俵とか、工夫をする必要があるのではないだろうか?


 何故に電車の切符のような作りにする必要がある?


 もし、相撲と相模(さがみ)をよく間違える、という日本独特の冗談を世界に伝えん、感じの奥深さを非漢字圏にも伝えんとする志あればその意気を買わんとす。


 だが少なくとも寿司のキーホルダーにそれは見られない。


 つまり、である、こと相撲のキーホルダーはネタがなくて適当に済ませてしまった、といってしまえばそれまでかもしれないが、このキーホルダーのシリーズは大なり小なり漢字=記号、というか言葉遊び、そんな感覚があるのだと思う。


 例えば日本人でもそうだと思う。普段見慣れない漢字、例えば、


・魑魅魍魎(ちみもうりょう)

・空前絶後(くうぜんぜつご)

・隔靴掻痒(かっかそうよう)

・五臓六腑(ごぞうろっぷ)

・女郎花(おみなえし)

・薔薇(ばら)

・諸行無常(しょぎょうむじょう)

 ・

 ・

 ・


 もちろん、意味とか名称そのものは特別ではなく、ごく日常のものであって、これを例えば金言として用いようとか、ましてやTシャツのプリントに使おうとかいう人はおそらくいない。(非漢字圏の方であれば知らないが。)


 だが何というか、こういう漢字をさりげなく目にすると、何かよいこと、すごいことが書かれているのではないかとついついて勘ぐってしまうことがある。少なくとも自分が子供の頃はそうで、それがしょうもない意味であることがわかったのは大人になってからである。


 おそらく非漢字圏でない人々にとっては、いちいち意味を調べよう、って人もあまりいないであろうから、それはそれで、意味なんぞどうでもよく、単にエキゾチックな記号として記憶に残るのであろうと思う。


 一応、「SUMO」という文字を見て、多少は日本に詳しい人が「ああ、あれね。」と想像できる人がいる程度なのかもしれない。


 つまり、「日本の競技で、レスリングに似た内容のもの、土俵と呼ばれるサークルの中から出る、もしくは先に手を付いた方が負けというルール。」という内容である。


 おそらく横綱というのを見て、相撲には番付があって、最高位の力士に贈られる称号、ということまでは多分あまり理解はされないと思う。おそらく。


・この「横綱」って漢字、なんかクールじゃね?なんて読むんだろ?


・それが「SUMO」の正しい漢字じゃねーの?


 くらいな解釈なんじゃないかと。


 

 パチモンとは二神教であると思う。


 二神教、などと聞くと聞きなれない方も多いかもしれない。基本的に宗教というと、一神教、つまりキリスト教やイスラム教に代表されるような、ある絶対的な神が存在し、それ以外は認めないという、排他的な信仰を教義とするする宗教。(*ただし、イスラム教においてはキリスト教徒及びユダヤ教徒を「啓典の民」としてその存在自体は認めている。」


 一方で、日本の神道や古代ギリシャの神々、あるいやアフリカの土着の宗教、いわゆる精霊信仰などにみられる多神教、一神教のような厳格さはなく、非常におおらかな、悪く言えば非常に俗的な部分も持つ宗教である。


 どちらが正しいとか、上下云々をいうつもりはない。基本的に宗教というのはどちらかに該当するケースが大半である。


 では二神教とは何か?最も代表的なのが、というより数少ないそれにゾロアスター教というのがある。


 どういう宗教かというと、善の神(アフラ=マズダ)と悪の神(アーリマン)というのが存在し、どちらかが滅びることはない。必ず両者は存在し、また、悪の神が強ければ強いほど善の神の存在意義が強まる、という考え。


 これを「善悪二元論」という。


*知っている人は知っているかもしれないが、あのスター・ウォーズのプロットに使用されている宗教がこれである。


 実は善と悪の側に立つのはその人の意思に委ねられる。ただし最終的には善の神が悪の神を滅ぼし、悪の神についた者は全て滅びる、という考えである。


 救済という概念が最初から存在しない。


じゃあ最初から善の側に付けばよいのではないか?その方が安全で最後まで得をするのではないか?と思うかもしれないがそうではない。


 自分は映画は見ていないのだが、熱心なマニアの方は多く、そういう方の話だと、悪の側というものはつなわち人間の悪い面、すなわち私利私欲、あるいは目先の欲とかそういうものがあって、一方善の側はそういう欲を極力セーブしなければならない。使おうと思えば使える能力があっても抑えなければいけない。そこに葛藤があるということである。


 ・・・・と話がそれてしまったが、パチモンには多少意味合いがそれてしまうけれども、少なからずこの二元論、善悪二元論ならぬ、


真贋二元論


とでも名づけておこうか、そういう概念が存在していると思う。


 つまりである、なぜパチモンが面白いのかというと、それだけ本物に価値があり、魅力があり、またパチモンにはなり作り手の苦労がある、ということの証明である、ということが重要なのである。


 例えば以前に紹介したもの(といっても数えるほどしかないが)の本物を用意したとする。果たしてそれが誰にでも購入できる価格だろうか?お土産として印象に残るものであろうか?手に取った人がどこまでその価値を理解しうるだろうか?人に見せることが目的で買うとしたならばインパクトの伝わり方は?


 パチモンにはそういったものにつき好要件を備えたものが少なくない。これは非常に重要なものである。


 例えば江戸時代の伝統工芸というのは往々にしてそういうものが多いのである。


 箪笥や机、そういったものは見えないところに手をかける。そこに最大限の労力をつぎ込み、その仕上がりをごく自然に、何も仕事がなかったかのように仕上げることが最上の仕事とされてきた。


 しかし、今日、これを手に取った人の何人がこれを理解できるかは難しいと思う。まして外国人へのお土産となると、それも手ごろな価格でとなってしまったら・・・


 そうなると見栄えがし、インパクトがある、そして値段も手ごろならばパチモンの存在感は大きい。真贋のうちであればもちろん「贋作」であるけれどもその誘惑たるや目の前にきて去ることはない。


 いずれ滅びるとわかっていても選択してしまう悪のようなもんで、それは仮に最後の審判が本当に存在するとして、実際のその審判が来たとき、実際の滅びなきゃーわからない。そんなもんである。


 しかし、だからといってパチモンを買うことが悪いとは思わない。 (というよりそれをやめたら自我の崩壊ってぇ奴だぜ旦那ァ~。)


 というのはである、パチモンを買うというのはある意味本物を見ることであって、その本物の存在を知れば知るほどパチモンの滑稽さの理解も深まるということであって、それができるのであれば、また買うことにも価値があるんじゃないかと、そういってまたパチモンを買い続けているのである。