おまけ道@琵琶湖畔で実家生活♪ポテチンっ♪

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私は滋賀県の実家にいて被害をまぬがれましたが、その半年前まで大阪・大淀南の10階建てのマンションの10階に住んでいました。そのマンションの近くにイラストレーターの知人がいて、電車が動いた震災翌日になんとか知人のマンションまで行き着き、近くの自転車屋さんで自転車を購入して、甲子園口の嶋本昭三先生のアトリエへ向かいました。
確か、先生にはお会いできなかったのですが、アトリエのスタッフさん数人が片付けをされているのを確認して、芦屋で一人暮らしをされていた山崎つる子先生のご自宅を目指しました。
自転車で走れたのは甲子園口ぐらいまでで、そこからは瓦礫の道をひたすら自転車を押して歩く道のり。同じように西に向かって歩く人がいれば、逆方向に歩いてくる人がいました。その中には背広でビジネスカバンを持ったひとも。阪神電車が脱線していたり、車のショールームの大きなガラスが今にも落ちそうにブラブラとしていたり。。。
私がつる子先生を尋ねた時にはすでに部屋の中は片付けられていて、先生は「お水がないからワインを飲んでいるの」とおっしゃって、夕飯をご馳走してくださいました。その時のことを十数年後、浮田要三先生から「すぐに鎌ちゃんが尋ねてきてくれて、嬉しかったとおつるさんが言うてたで」と知らされ、あの時、自分の思いだけで大変な時に訪ねていったことを反省していたのですが、浮田先生のおかげでホッとしたのでした。その浮田先生は2年前に。。。
 当時、仕事をしていた学研の「テレビライフ関西」に書いたコラムを探していたのですが、その号だけが何故か見つからない(ーー;)
でも、震災を特集したページが見つかりました。何ができるか誰もが考えて、行動していたのだな。。。と思い出しました。
 被災地でカメラを持っていた私に地元のおばさんが「写真、撮ってや。撮っとかんと、皆、忘れてしまうから」と言ってくださいました。
 あれから22年、昨年は震災関連の行事が半分に減ったそうです。震災を知らない世代も多くなりました。あの時、あのおばさんが言うてた通りや。。。と。
 震災、サリン事件、911、311、テロ事件など、様々な事故、事件があり、私的には震災の翌年に父が亡くなり、5年前に母が亡くなり。。。忘れたこともあるけれど、それぞれの体験を次に活かすためにどうすればいいか、今日は考える日にしたいと思います。
※昨年のブログ記事を修正して掲載
■追記:震災時、東京からテレビで女性の看護師さんが重たいバケツを持つニュースを観て、「僕には力がある!」と東京から来てくれたトンガ人のタシ氏も亡くなり、近年、そのフォローを献身的にしてくださった奥様も亡くなったとネットを通じて知ることになりました。タシ氏と一緒に過ごした御影工業高校の生徒の皆さんは38歳ぐらいになってるはず。いつかタシ氏の話を一緒にしたいです!

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地震報道では震源地近辺の情報がよく流れますが、その周辺の被害も相当だと思われます。
個人的には鹿児島の高齢の親戚など心配しておりますが、微力ですが何ができるか考えます。
阪神淡路大震災のおり、当時東京在住だったトンガ人のタシ氏は、テレビで看護婦さんが重たいバケツを持っているのを見て、「僕はお金はなけれど、僕には力があるからバケツを持つことができる」と単身、神戸に来てくれました。ご縁があって、私と一緒に御影の避難所にたどり着き、彼は1ヶ月、避難所でボランティアとして活躍しました。
私はお金も力もなけれど、きっと他に何かできることがあるはずだ!
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阪神淡路大震災に思うこと♪


私は滋賀県の実家にいて被害をまぬがれましたが、その半年前まで大阪・大淀南の10階建てのマンションの10階に住んでいました。そのマンションの近くにイラストレーターの知人がいて、電車が動いた震災翌日になんとか知人のマンションまで行き着き、近くの自転車屋さんで自転車を購入して、甲子園口の嶋本昭三先生のアトリエへ向かいました。
確か、先生にはお会いできなかったのですが、アトリエのスタッフさん数人が片付けをされているのを確認して、芦屋で一人暮らしをされていた山崎つる子先生のご自宅を目指しました。
自転車で走れたのは甲子園口ぐらいまでで、そこからは瓦礫の道をひたすら自転車を押して歩く道のり。同じように西に向かって歩く人がいれば、逆方向に歩いてくる人がいました。その中には背広でビジネスカバンを持ったひとも。阪神電車が脱線していたり、車のショールームの大きなガラスが今にも落ちそうにブラブラとしていたり。。。
私がつる子先生を尋ねた時にはすでに部屋の中は片付けられていて、先生は「お水がないからワインを飲んでいるの」とおっしゃって、夕飯をご馳走してくださいました。その時のことを十数年後、浮田要三先生から「すぐに鎌ちゃんが尋ねてきてくれて、嬉しかったとおつるさんが言うてたで」と知らされ、あの時、自分の思いだけで大変な時に訪ねていったことを反省していたのですが、浮田先生のおかげでホッとしたのでした。
今日は朝から当時、仕事をしていた学研の「テレビライフ関西」に書いたコラムを探していたのですが、その号だけが何故か見つからない(ーー;)
でも、震災を特集したページが見つかりました。何ができるか誰もが考えて、行動していたのだな。。。と思い出しました。
当時、カメラを持っていた地元のおばさんが「写真、撮ってや。撮っとかんと、皆、忘れてしまうから」と言ってくださいました。
あれから21年、今年は震災関連の行事が半分に減ったそうです。震災を知らない世代も多くなりました。あの時、あのおばさんが言うてた通りや。。。と。
震災、サリン事件、911、311、テロ事件など、様々な事故、事件があり、私的には震災の翌年に父が亡くなり、3年前に母が亡くなり。。。忘れたこともあるけれど、それぞれの体験を次に活かすためにどうすればいいか、今日は1日、考えたいと思います。



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おまけ道@琵琶湖畔で実家生活♪-100117
花をすべての人に!

1995年1月17日午前5時46分。阪神淡路大震災の日。滋賀の実家で揺れを感じました。
その日は電車が動かず、翌日、JR京都から京阪に乗り継ぎ、淀屋橋へ。
歩いて大阪・大淀の友人のマンションへ。友人宅は揺れがひどく、家財道具が全滅。
なんとかかたずけた後でした。

それから、自転車を買って、芦屋で一人暮らしをされている美術の先生を訪ねました。
武庫川を超えるまでは自転車で走れたのですが、そこからは瓦礫で自転車を押して歩きました。
途中、道を迂回もしながら進みました。同じように誰かを訪ねて行く人も大勢いました。
すれ違う人にはサラリーマンみたいな姿をした人もいて、とても不思議な行進が続いていました。
甲子園口の先生の家に行くと、すでに生徒さん数名がかたずけをしていました。

それを確認し、芦屋で一人暮らしをされている先生の家を目指しました。
何時間かかったのか記憶にないのですが、夕方、もう薄暗くなっていました。
幸い、その先生は御無事で、少し、お話をしてから、大淀へと帰ったのですが、十三大橋が段差で通れないと聞いていたので、ひたすら国道を走りました。深夜1時を回って、やっと帰りついたのですが、行きと違い、帰り道は恐いぐらい静かで、車も人もいなかったのを覚えています。

後で考えたら、途中に崩れた家もたくさんあり、あの中に人がいたのかも...と思うと...。

その翌日、友人と献血に行き、その翌日、熱でぶっ倒れました。震災1週間後、散歩派の杉山氏と自転車で三ノ宮まで行き、三ノ宮がまるで戦争映画のセットみたいになっているのを見て、唖然としました。
三ノ宮の友人宅に運べるだけの水や食料を手渡しましたが、出会う人、出会う人、皆、涙も見せずに淡々としていたように思います。涙が出ないのはそれだけショックが大きかったからだと言う事。

後でわかりました。涙が出るまでには時間がかかるんだって。

震災10日後だったと思います。東京からトンガ人のタシ氏がやって来ました。
「ニュースを見てたら、看護婦さんが大きなバケツで水を汲んでいた。僕は力があるから。行く」と言って、奥さんに見送られて、やって来ました。
新大阪まで迎えに行き、電車で行けるとこまで行き、東灘区界隈をお手伝いできるところを探して歩きました。途中、おじいさんの合同葬に行く母娘に会いました。
トンガ人のタシ氏がこれこれこおいうわけで来た。と話すと、突然、お母さんが泣き出しました。
娘が泣き出したお母さんを見て、「震災から今日までお母さんは一度も泣かなかった」と。
タシ氏は優しくお母さんの肩を抱いてました。

その後、御影工業高校の食堂でお手伝いすると言う事になり、タシ氏は1カ月、被災した人と一緒に体育館に住み込むことになりました。
私はその間、ちょくちょく高校を訪ねながら、他の避難所にボランティアしたいと東京からやってくる人を紹介するような事をしていました。
役所ではすでに応募者が多く、受け付けしてもらえない状況だったり、当てもなくやって来た人がボランティア難民となって、被災者に助けられると言うような事もあったので。
そんな日々を過ごすうちにタシ氏はとても人気者になり、お別れの時にはお別れ会まで開いてもらい。皆で号泣しました。
そして、その数年後、タシ氏は肺がんになり、生まれ故郷のトンガで奥さんに見守られ星になりました。タシ氏とは御影でお別れして、それっきりですが、いつも元気に歌ってた姿を思い出します。御影工業の生徒さんたちも、あれから10年。
結婚して子供がいる人もいるんだろうなぁ。「ボランティア」言葉の意味は何かの辞書に載っているんだろうけど、私はボランティアってボランティアする人が救われるんだなって。
私はそう思っています。合掌(ー人ー)

※この記事は2005年にアップしたものをコピーしています。

今年で20年か。。。と言うことは来年は父が亡くなって20年ってことになる。
早いわ。
この20年、私は何をしてたのか・・・。
母も亡くなってしまったし・・・。

先のこと、今現在、いろいろ考えて、すぐに行動しなきゃ!
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