空気を読める、察することができるのは国際的な視点から見ると、実はものすごいスキルだと思う | Olive Twigs

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日本にいても、世界のどこにいても、自分を生きる


「これに関しては日本は本当に素晴らしいな」と思うことですが、海外では行政関係の役所や企業のカスタマーセンターなどの担当者の対応がとっても冷たいことが多いのですが、それと比較して日本は本当に手取り足取りとても丁寧なことが多いです。聞かなくてもこちらのニーズを先読みしてくれて、親切に色々と教えてくれたり、丁寧にきっちりとサービスを提供してくれます。

しかしながら、海外では大抵の場合そういうことは、全然とはもちろん言いませんが、ほぼ期待することはできません。とても親切で気の利く人ももちろんいます。でも、基本的にこちらが質問しなければ、あちらから答えてくれることもないし、ましてや丁寧に教えてくれるということはほとんどありません。

また、例えば同じ電話番号に電話して、同じ質問を数人の別の担当者にすると、みな違った答えをくれてしまうと思うくらい、情報や回答の提供に関しても人によって偏りが大きかったり。。。

 

結果としてこちらが混乱してしまい、あちらもそのように答えが担当者で違ったことなどを詫びるわけでもなく、こちらが解決にたどり着くまで二度手間、三度手間を被るという場合も出たりしました。(それが多すぎるので、そういうものだと諦めて、そうなることを最初から想定して構えているくらいになりました。そうでないとやっていけませんでしたから。)

そういう中でわかるのは、日本や多くのアジアや東洋の国々では、程度の差はあれ大抵は自分に相対する人の状況を自然におもんばかり、それに応じて自分の対応を決めていくという傾向が強いのですが、西洋の文化の中では、相手の中に入っていくというよりは、「自分がどうあるか」を強く持っている傾向があるなと感じます。なので、「自分は自分に対して聞かれた質問に、自分が分かる範囲で、適切に答えていると思うから、それで十分だと自分は思う」というような感じです。

ある意味でそれは人の目を気にせず、自分自身の有り様を貫けるということでもあります。自分は自分のベストを尽くせているのだから、達成感もあり、また満足も持てると思います。自分の尺度や軸がしっかりそこにあり、相手の感情はそこには入り込んでいませんから、その面ではスッキリと完結していると思います。これはまさに日本人が「憧れる」ようなものですね。これはでも、自分の責任を果たすことには意識はむきやすいかもしれませんが、逆に相手への配慮には欠ける結果にもなると思われます。

「配慮」と書いたのですけれど、もちろん西欧の人々はみな配慮がなく、つまり思いやりに欠けると言っているわけではありません。人を助けたり、色々な形でニーズのある状況にいる人をサポートしたり、持っているものを惜しみなく与える人はたくさんいます。その人がどれだけ見返りを気にすることなく与えいているかということが、社会的な評価にも大きくつながるくらいです。

思うのは、それが常日頃から状況を「察しながら」動くというのではなく、何かニーズがある、助けが必要な現状に気付いたら、その時点で自分で決心して手を差し伸べていくという、あくまでも自分が認知して、決心して、行動していくような感じがします。なので、行動の起点がとことん自分にあるというのが西欧かなと思われます。

苦しい中にある人に深く同情したり、子供や弱い立場にあるものに愛情を与えたり、人を憐れんだり思い遣ったりする心というのは、西洋東洋を問わずユニバーサルに存在する人間の「心」だと思います。ただ、状況や状態を察する、いわゆる「空気を読む」ような、表面にはっきりと出て来ない、行間を読むような、言葉にならない言葉みたいなものを敏感に感知できるセンサーのようなものは、それとは別物で、それは東洋ならではの文化でもあり、東洋人が社会生活の中で身につけている性質、性格であるという気がします。

実際にアジアや東洋の国に住んでいて、しかも日本のような国に住んでいると「察する」という文化習慣がむしろとても負担に思えてしまうこともたくさん出てくるのもあると思います。西洋の感覚が比較的に自分を主体に、自分がどうあるかということに重きを置くことで、周りのことを必要以上に気にしなくて済んで楽でもあり、自分主体で生きられることはもっと自信のある力強い生き方につながるとも言えます。でもその反面、自分以外の人への興味や知りたいという気持ちを持ったり、ありのままに細かく理解しようと努めていったり、その上で自ら手を差し伸べてつながっていこうとする方向には動きにくいのかなと思えたりもします。

この東洋的なものと西洋的なものとは対極にあると思います。どちらが良いというつもりは決してなく、どちらも素晴らしい面があり、どちらも行き詰まる面があると思います。だから互いが必要で、学び合って、補い合って、強めあっていけるのが一番理想的なのでしょう。ただ、加えて伝えたいと個人的に自分の経験からも思ったことは、この東洋的な「察する」という文化、習慣的に身についている感覚は、世界的な視点から見ると、とってもとっても優れた価値あるもの、素晴らしいスキルであって、特に自分の国を一歩出ると、見知らぬ地でも周りを理解してなんとかつながる道を探していくための、頼りになる力強い道具のようになってくれるということなのです。