英語の壁をどう乗り越えられる? <自分の成功のフォーマットとは> | Olive Twigs

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さて、前回にお話しした、25年もカナダに住んでいるのに、全然英語が話せない、でもとても優秀でしっかりと自分のビジネスで成功している東洋医学の先生の話の続きです。

 

一体どうやったらそれが成り立つのか?すごく疑問じゃないですか?

 

先生がその選択に至る過程に実際どういう事情や条件や気持ちがあったのかはわかりません。
特にカナダ(アメリカもそうかと思いますが)では、カナダ国外で医師の免許を取得して実際に医師として働いた経験を持っていても、カナダ国内で取得した医師免許を持っていなければ、基本医療行為を行うこと、医師として働くことが許されていないという実情があります。どんなに本国でトップの医学校を卒業しても、どんなに技術や知識があっても、どんなに素晴らしい実績があっても、一からカナダの学校に入り直して、英語またはフランス語での授業や試験を通過して、合格していかないといけないというわけです。そういう過程を踏まなければいけないのは、もう十分に母国で経験を積んできた移民系の医師にとっては、意味のないことに思える、という話を本当によくあちこちで聞きました。(この種類の話も話し出すと長くなりますので、別の機会があればまたお話しします)

話は少し逸れましたが、この先生のケースを見て、まさに目から鱗が落ちるような気がしたのは、英語を話して英語の環境にどんどん出て行って、そこでうまくやっていくということだけが成功の形ではないのだなということです。この先生はご自分の成功の形をご自分で見極めて、そこに向かっていかれたわけですね。

日本だけではなく、実際アジアの国々では、やはり英語という言語、英語圏の国に対するコンプレックスのようなものは、かなり強く存在します。

中国人がカナダやオーストラリアに移住する理由は、子供を流暢に英語が話せるものにしたい、というものが圧倒的です。英語をペラペラと話せる、母国語のアクセントが出ることなく、ネイティブと同じ発音で話せるというのは、親にとって大きな誇りであり、高いステイタスにいることと思われています。

日本でも英語が少し話せるというだけで、その度合いに関わらず、それだけでものすごく賞賛される場合が多いと思います。
海外で少し生活した経験があるとかいうだけで、雲の上のことのようにすら受け取られることもあります。

一般的に、学校の中で英語の成績が良いことと、数学や物理や化学や他の教科の成績が良いのと同じような印象が出来上がっていると思います。英語が使えれば、仕事の種類や幅、広がりの可能性も違うと思われていますし、実際お給料すら特別に、多く払われることも多いと思います。

でも、英語そのものを扱えることが本当に違いを作っているのでしょうか。英語がわかる、流暢に話せる、英語の世界に通じている、ということが、本当にその人の成功を決めているのでしょうか。

この東洋医学の先生の話に戻りますが、先生はご自分が持っておられる中国医療、東洋医学の知識をとことん使って、周りにいる中国人をはじめ、それ以外の民族(最近では西洋文化の中で育った人でも東洋医学の価値への気づきや信頼が深まっています)で彼の知識やスキルや経験を求める人に提供することで、成功してきているのです。

面白いのは、ここに集まる中国語のネイティブ以外の人は、先生が英語が話せないと分かれば、なんとか「へりくだって」先生の方に合わせて、会話を成り立たせようと努力するのです。そして先生は英語が話せないことを全然悪びれていません。続けてその人たちとなんとか会話を続け、最後はお互いニコニコ顏で診察終了です。

この先生も、英語が流暢に話せれば、まるでスターかのように羨望の的になれる中国人の間の感覚も良くわかっておられるでしょう。でも、世間一般に広まっているきらびやかな成功のフォーマットみたいなものをさっさと離れて、自分のフォーマット、土俵で、持てるものを注いで進んで来ているということなのですね。

英語の壁を乗り越えるということというのは、こういう乗り越え方もあるのだなと、とても知恵のある、マチュアな乗り越え方だな、と感じた経験でした。