主の平和をお祈りいたします。日本オリベットアッセンブリーです。🕊️

現代のクリスチャンホームにおいて、子どもたちの「スマートフォンやSNSとの付き合い方」は、多くの親御様にとって共通の、そして切実な祈りの課題ではないでしょうか。

 

今回の「信仰と家庭コラム」では、海外のキリスト教メディア『Christian Daily International』に掲載された、デジタル機器への過度な依存が子どもたちの心の健康(メンタルヘルス)に及ぼす影響について考察した記事を翻訳・編集してお届けします。

 

記事では、専門家による鋭い分析とともに、この問題は教育学や心理学だけでは根本的な解決には至らず、最終的には「福音の力」「キリストの愛」、そして「神の知恵」こそが、この世代を救い出す唯一の鍵であるという、本質的な結論が提示されています。

 

デジタルネイティブの時代を生きる子どもたちが、世の文化の奔流に流されることなく、神様の豊かなご支配の中を歩むことができますように。そして、その歩みを支える霊的な知恵と識別力が、すべてのご家庭に豊かに与えられますよう、心よりお祈りいたします。

 

【翻訳記事】デジタル機器の過度な使用が未成年者の健康を損なう――「私たちにはキリストの愛と神の知恵が必要だ」第①編

ピュー・リサーチ・センター(PRC)によると、米国の子どもと青少年の96%が毎日ソーシャルメディアを利用しており、そのうち半数近くが「ほぼ絶えず利用している」と回答しています。この傾向は、世界の多くの国々にも共通していると考えられます。
 

専門家たちは、ソーシャルメディアの利用と精神的健康の悪化との間に直接的な因果関係があるとは、現時点では断定していません。しかし、不安やうつ、孤独感との関連性を示す研究や証拠は年々増えています。

 

自死や薬物の過剰摂取、あるいはオンライン上の危険なチャレンジ企画への参加によって子どもを失った親の中には、その背景要因としてソーシャルメディアの影響を指摘する人もいます。

 

一部のソーシャル・ネットワーキング・プラットフォームでは、すでにセンシティブなコンテンツを非表示にする設定が導入されています。しかし、米国で審議されている法案が成立すれば、テクノロジー企業は未成年者のアカウントについて、こうした設定を初期状態から有効にすることが義務づけられます。

 

KOSA(Kids Online Safety Act:子どもオンライン安全法)は、米国上院で賛成91票、反対3票で可決されました。同日、上院は、テクノロジー企業による未成年利用者のデータ収集を禁止する「児童・青少年オンライン・プライバシー保護法」も可決しています。

 

KOSAは、オンライン上のいじめ、違法薬物の販売、性的搾取に関連するコンテンツを子どものアカウントから閲覧できないよう、企業に義務づける法律です。また、「依存症のような行動」を促す機能や、利用者を搾取するようなマーケティング手法も禁止の対象としています。

 

『Wired』によると、企業の説明責任を追及する非営利団体「テック・オーバーサイト・プロジェクト」をはじめとする法案支持者たちは、この法案を、テクノロジー企業の製品が子どもたちに及ぼす影響について、企業に責任を負わせるための重要な一歩と評価しています。

 

テック・オーバーサイト・プロジェクトのエグゼクティブ・ディレクターであるサシャ・ハワース氏は、6月の声明で次のように述べました。

 

「ソーシャル・ネットワーキング企業の貪欲さによって、あまりにも多くの若者、親、そして家族が深刻な被害を受けてきました。KOSAによって、こうした家族に対する企業の説明責任が果たされる時は、とっくに来ているのです。」

 

一方、非営利のデジタル権利団体「テクノロジーと民主主義センター」などは、この法律が成立した場合、性的健康やLGBTQI+に関する問題など、若い利用者にとって重要な情報へのアクセスが制限される可能性があると懸念しています。

 

そのため、普段はシリコンバレーのテクノロジー企業に説明責任を求めている一部の団体までもが、この法案の成立を阻止するため、結果としてテクノロジー企業やそのロビイスト側に立つという状況が生まれました。

 

この問題は、親や教師たちの間でも大きな懸念となっています。

 

青少年宣教に長年携わってきた心理学博士であり、教師、講師、作家でもあるフラビオ・カルボ氏は、クリスチャン・デイリー・インターナショナルのスペイン語版『ディアリオ・クリスティアノ』の取材に対し、デジタルネイティブ世代の子どもたちにとっては、ソーシャルメディア上の生活と現実の生活との境界が、もはやほとんど存在しないように見えると語りました。

 

カルボ氏は次のように説明します。

 

「今日の青少年や子どもたちの間では、ソーシャル・ネットワーク、より正確にはソーシャルメディアを通した、新しい形の社会的交流が生まれています。

 

かつて私たちが“通常の生活”――あえて『通常』という言葉を使いますが――の中で行っていたことを、今の子どもたちはオンライン上で行っています。

 

友人関係を築くこと、スポーツについて語り合うこと、オンラインゲームで遊ぶことなど、すべてがそうです。TikTokをはじめとするソーシャルメディアでのフォロワーは、彼らにとって現実の友人と同じくらい重要な存在なのです。

 

私たち大人にとっては、仮想世界と現実世界は別のものです。しかし、青少年や子どもたちにとって、その境界はほとんどありません。彼らにとって、仮想世界もまた現実なのです。」

 

国際クリスチャン・スクール協会(ACSI)のラテンアメリカ地域ディレクターを務める教育者、エストゥアルド・サラサール・ヒニ氏は、『ディアリオ・クリスティアノ』の取材に対し、この問題には、新型コロナウイルス感染症のパンデミックによる長期的な孤立も大きく影響していると語りました。

 

「PRCが示しているような、ソーシャルメディアへの依存と、それが未成年者の心理に及ぼす影響については、パンデミックの経験と切り離して考えることはできません。

 

私が言っているのは、隔離措置が続いた2020年から2021年にかけての長い期間のことです。人々は強制的に孤立し、画面だけが他者とつながるための唯一の手段となりました。

 

それ以前から存在していた不健全な依存は、この期間にさらに深刻化し、あらゆるウイルス以上に広がっていきました。私たちは子どもたちを一つのウイルスから守りました。しかしその一方で、より破壊的で、より致命的な力を持つことが次第に明らかになりつつある別のものを抱えさせてしまったのです。」

 

『ディアリオ・クリスティアノ』は、親と教師を対象に、三つの質問からなる簡単なアンケート調査を実施しました。

 

その結果、11.1%は、ソーシャルメディアと青少年の認知発達との間に問題はないと回答しました。一方、88.9%は、子どもたちがソーシャルメディア上で交流することには何らかの問題があると考えていることが分かりました。

 

家庭での経験として寄せられた証言には、共通した傾向が見られました。それを一言で表すなら、「注意力の散漫」と「対面での人間関係の希薄化」です。

 

回答者の中には、ソーシャルメディアの利用に一定の制限を設けること、とりわけ子どもが十分な年齢に達するまでは、自分専用のアカウントを持たせたり、保護者の監督なしで利用させたりしないことの重要性を挙げる人もいました。

 

心理教育学を専攻したラウラ・スティリアーニ氏は、『ディアリオ・クリスティアノ』の取材に対し、次のように語りました。

 

(第②編へ続く)

 

※本記事は、信仰と家庭財団(Faith & Family Foundation)および Christian Daily International に掲載された報道記事を、当宣教本部にて翻訳・紹介するものです。

 

🔗 英語原文はこちら: https://faithnfamily.org/overuse-of-digital-devices-harms-underage-kids-health-we-need-love-of-christ-wisdom-of-god/

 

 

主の平和をお祈りいたします。日本オリベットアッセンブリーです。🕊️

現代の子どもたちは、スマートフォンの画面の向こうに広がる、人工知能(AI)やデジタルテクノロジーが形づくる「もう一つの世界」の中に生きています。親が隣の部屋にいる間にも、AIは文句も言わず、子どもたちの問いに答え、彼らの内面を静かに、しかし深く塗り替えています。

情報やプログラム、教会活動はかつてないほど溢れているのに、なぜ子どもたちの信仰は「言葉(知識)」だけにとどまり、「生き方(本質)」へとつながらないのでしょうか。

今回の「信仰と家庭コラム」では、インド福音同盟(EFI)の総務であるビジャイェシュ・ラル(Rev. Vijayesh Lal)牧師の、現代の教会と家庭の盲点を突くメッセージをお届けします。

AI時代という前例のない挑戦の中で、私たちが世代を超えて「生きたキリストの臨在」をいかに継承していくべきか、確かな指針を提示してくれるコラムです。すべてのクリスチャンのご家庭に、深い霊的な覚醒と知恵が与えられますように。

 

【翻訳記事】AI時代、私たちは子どもの中に真の信仰を育むため、これまで以上に奮闘しなければならない 第②編

 

(前回の続き)

※第①編(前編)をまだお読みでない方は、まずこちらからご覧ください。 
 

👉 【第①編】はこちら:

 

教会は、この点について自らを正直に見つめ直さなければなりません。

ここ数十年、次世代の課題に対する私たちの主な対応は、「活動を増やすこと」でした。誠実な思いと配慮をもって、より多くのプログラムやイベントを企画し、年齢ごとの働きを整えてきました。しかし、その過程で私たちは、弟子訓練(ディサイプルシップ)を、本来の「共同体が生活の中で担う営み」から、「決められた時間に、決められた人が、決められた場所で行うもの」へと、少しずつ移し替えてしまったのです。

 

家庭は、「教会で補われるから大丈夫だろう」と考えました。一方、教会は、「家庭で始まった信仰がそのまま育まれていくだろう」と考えました。その結果、本来、信仰が受け継がれていくはずだった世代を超えた交わりの営みは、次第に細くなってしまいました。

私たちは信仰を「教えて」はきました。しかし、信仰を受け継ぐ「人」を育てることには、必ずしも十分に取り組めていたとは言えませんでした。

 

信仰が繰り返し語られていても、それが日々の生活の中で――家族がお金をどう扱うか、対立や苦難にどう向き合うか、感謝をどのように表すか――という具体的な姿として実践され、子どもたちに見られることがなければ、その信仰は根づきにくくなります。子どもたちは、信仰の重みを知らないまま、その言葉だけを覚えてしまうかもしれません。身近な人の生活の中で目にし、喜びをもって受け継がれない信仰は、やがて自分自身のものとして生き続けることが難しくなるのです。

だからこそ、世代を超えた弟子訓練の回復は、新しいプログラムから始まるのではなく、「回復された生き方」から始まります。

 

家庭は再び、本当の意味で互いが共に生きる場所とならなければなりません。祈りが、子どものために用意された一つの活動ではなく、大人たち自身の生活に根づいた現実であり、その中へ子どもたちが自然に迎え入れられる場所です。また、親同士が互いに赦しを実践し、その姿を通して子どもたちが赦しを学ぶ場所です。そして、神への信頼が、特にその信頼に犠牲が伴うような時期にこそ、目に見える形で表される場所なのです。

 

これと並行して、教会は地域における本来の姿、すなわち年齢別のミニストリーが並ぶ組織ではなく、「一つの家族(神の家族)」でなければなりません。そこは、子どもたちが本当の意味で知られ、年長者が信仰の記憶を受け継ぎ、若い世代が新たな力をもたらし、その双方が互いに必要な存在として尊ばれる場所です。

 

教会は、信仰が講壇から語られるだけの場所ではなく、共に生きる日々の中で目撃される場所でなければなりません。そのような共同体では、どれほど優れたプログラムや綿密な計画でも生み出せないものが、世代を超えて受け継がれていきます。それは、互いのために集い続ける人々の静かな忠実さを通して、日々の何気ない歩みの中で育まれるのです。

 

さらに、もう一つ向き合わなければならない課題があります。それは、おそらく最も困難なものです。

さまざまな声があふれる時代において、弟子訓練のより深い目的は、「識別力(見極める力)」を養うことです。子どもたちは、何が真実かを知るだけでは十分ではありません。信頼できる人との関わりを通して、「誰の声に耳を傾けるべきなのか」、そして「なぜその声を信頼できるのか」を、時間をかけて学ばなければならないのです。

 

問題は、子どもたちが「何を信じるか」だけではありません。もっと根本的なのは、「誰の声に従うことを学んでいるか」ということです。

 

このような識別力は、短期間で身につくものでも、作り出せるものでもありません。注意深い関わりと信頼関係の積み重ね、そして現実の生活の中で確かなものと証明された信仰を通して育まれていきます。

その土台にあるのは、私たちが受け継ごうとしている真理は決して揺らぐものではないという確信です。そして、良い羊飼いであるキリストは今もなお語り続けておられ、その御声は、忍耐をもって耳を傾けることを学んだ人々には、今も聞き分けることができるという確信です。

 

これらすべてにおいて、私たちはパニックになる必要はありません。しかし、自らを正直に見つめ直し、これまで以上に意図的に取り組むことが求められています。

 

かつて信仰を次の世代へ自然に受け渡していた仕組みは、もはや自動的には機能しません。今、信仰という遺産は、世代を超えて共に生き、目に見える形で分かち合われ、キリストに根ざした生活を通して、意図的に受け継がれていかなければならないのです。

 

教会の未来は、より優れたプログラムや、より洗練されたコンテンツによって築かれるのではありません。世代を超えて分かち合われる生活の質によって形づくられるのです。それは、キリストが単に宣べ伝えられるだけでなく「知られ」、単に教えられるだけでなく「信頼される」生活です。

そして、この働きは、どんな組織にも、ミッションステートメントにも、戦略文書にも委ねることはできません。カンファレンスの決議や一時的な施策によって成し遂げられるものでもありません。まして、それを私たちに代わって誰かが担ってくれることもないのです。

 


※本記事は、インド福音同盟(EFI)の総務であり、月刊誌『AIM』の編集長であるビジャイェシュ・ラル(Rev. Vijayesh Lal)牧師による寄稿文(Christian Daily掲載)を翻訳・編集したものです。

🔗 英語原文はこちら:
https://faithnfamily.org/in-the-ai-age-we-must-work-harder-to-form-authentic-faith-in-our-children/

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主の平和をお祈りいたします。日本オリベットアッセンブリーです。🕊️

現代の子どもたちは、スマートフォンの画面の向こうに広がる、人工知能(AI)やデジタルテクノロジーが形づくる「もう一つの世界」の中に生きています。親が隣の部屋にいる間にも、AIは文句も言わず、子どもたちの問いに答え、彼らの内面を静かに、しかし深く塗り替えています。

情報やプログラム、教会活動はかつてないほど溢れているのに、なぜ子どもたちの信仰は「言葉(知識)」だけにとどまり、「生き方(本質)」へとつながらないのでしょうか。

今回の「信仰と家庭コラム」では、インド福音同盟(EFI)の総務であるビジャイェシュ・ラル(Rev. Vijayesh Lal)牧師の、現代の教会と家庭の盲点を突くメッセージをお届けします。

AI時代という前例のない挑戦の中で、私たちが世代を超えて「生きたキリストの臨在」をいかに継承していくべきか、確かな指針を提示してくれるコラムです。すべてのクリスチャンのご家庭に、深い霊的な覚醒と知恵が与えられますように。

 

【翻訳記事】AI時代、私たちは子どもの中に真の信仰を育むため、これまで以上に奮闘しなければならない 第①編

 

先日、デリーのある教会で出会った父親が、十代の息子の口から、一度も「声に出して祈る姿」を見たことがないと話してくれました。その少年は教会で育ち、神学について語ることができ、聖書の物語もよく知っていました。しかし、教会から家庭へと至るどこかで、本来受け継がれるべきものが伝わっていなかったのです。父親が無関心だったわけではありません。ただ、その信仰の伝承がいつ行われるべきだったのか、そして誰がそれを行うべきだったのかが分からなかっただけでした。

 

このような話は、もはや珍しいものではありません。むしろ、日常的に耳にするようになっています。

現代の教会が直面しているのは、「活動の危機」ではなく、「信仰伝承(継承)の危機」です。信仰は多くの家庭や教会に存在し、教えられ、祝われ、守られています。しかし、それがかつての世代のような深さと継続性をもって、イエス・キリストとの個人的で生きた関係として、次の世代へ受け継がれていないのです。

 

かつては、世代を超えて比較的自然に受け継がれていたものが、今ではかつてないほど意図的な取り組みを必要としています。私たちが問われているのは、「信仰が教えられているか」ではなく、「生きた信仰が受け継がれているか」ということです。

 

キリスト教の歴史の大部分において、信仰は生活そのものを通して受け継がれてきました。聖書が「家に座っているときも、道を歩くときも」と語るように、子どもたちは教えを聞くだけではありません。親が困難や希望について語る姿を見聞きし、神に守られた家庭の日常を共に生きる中で、信仰を自然に「吸収」してきたのです。教えという言葉は、生活がすでに語っていたことを明らかにする役割を果たしていました。

 

その流れが止まったわけではありません。しかし、今はかつてない形で妨げられるようになっています。しかも、その妨げは家庭の外ではなく、家庭の内側で起きています。子ども自身が自ら進んで関わり、多くの親が十分に把握できていない「形成環境」を通して生じているのです。

私たちは今、親がすぐ隣の部屋にいても、静かに、個人的に、そして瞬時に応答しながら子どもの内面を形づくっていく「目に見えない存在」と向き合う、歴史上初めての世代なのです。

 

今日の子どもたちは、複数の世界の中で育っています。家庭、地域、教会という目に見える世界。そして、その傍らを走り、ますます日常の中へ入り込んできている、デジタルや人工知能(AI)によって形づくられるもう一つの世界です。

 

この世界は、他に誰も相手をしてくれないときでも、子どもの声に耳を傾け、すぐに応答してくれます。苛立つことなく答え、子どもが何に興味を持つのかを学習し、静かにそれをさらに差し出します。それは単なる気晴らしではありません。時間をかけて、子どもの人格や価値観を「形成」していくのです。

子どもが何に注意を向けるかは、やがて何を願い、どのように世界を理解し、「何が真実で、自分はどこに属するのか」という静かな感覚を形づくっていきます。

こうした形成の多くは、今やプライベートな空間で、デバイスとの静かな対話を通して行われています。そこでは問いが発せられ、答えが返され、誰にも気づかれないまま、少しずつ心の中に印象が刻まれていくのです。

 

多くの家庭では、子どもたちが親や牧師と深く語り合う時間、あるいは応答がすぐには見えず、ときに神秘的に感じられる神へ祈る時間よりも、スクリーンと真剣に向き合う時間のほうが長くなっています。

もちろん、こうしたデジタルツールが聖書を届け、信仰についての率直な疑問に答え、牧師のいない地域の子どもたちへ福音を届けるために用いられることは事実です。それは大切であり、感謝すべきことでもあります。

 

しかし、本当の問題は、そうしたツールに価値があるかどうかではありません。人間の声や神の声に耳を傾ける前に、人工的な声に頼ることに慣れた子どもが、「生きられた現実としての信仰」を信じられるように育っているのか、それとも信じにくくなるよう形づくられているのかということです。

ツールを利用することと、ある「臨在」によって人格が形づくられることは、まったく別のことです。教会が今、学ばなければならないのは、この違いです。

次の世代が「何にも形づくられない」ままでいることはありません。彼らは必ず、何かによって深く形づくられます。

 

唯一の問いは、その形成が、キリストにしっかりと結ばれ、互いに責任を負い合う生身の関係の中で起こるのか、それとも適応力が高く、説得力を持ちながらも、誰にも責任を負わないデジタルの影響力によって起こるのかということです。

 

今日では、牧師や宣教師の子どもたちの中にも、単に信仰から離れただけではなく、長年にわたってデジタル空間に静かに没頭する中で、「親の信仰は真実ではない」だけでなく、「有害ですらある」と信じる世界観を、一人で築き上げてしまった若者たちがいます。

彼らは無関心なのではありません。むしろ、深い確信を抱いているのです。そして、その確信は、親が安全だと思っていた家庭の中で、誰も深刻に受け止めないまま育まれてしまった「声」によって形づくられました。

 

そのような家庭では、神が、子どもにとって日常的に経験する権威主義的な存在と重なってしまうことがあります。これは本質的には神学の問題ではなく、「関係性の問題」です。そして、その始まりは誤った教理ではなく、「不在(関わりの欠如)」にあります。だからこそ私たちは、日々の生活の中で子どもたちと共に歩み、信仰を生きて示し、関わり続けるために努めなければなりません。

 

しかし、この危機には、さらに見えにくく、名付けにくいもう一つの姿があります。それは、教会を離れることなく礼拝にも出席し、恵みや召命、神の臨在について流暢に語ることができるにもかかわらず、その日々の生活や会話、友人関係、そして人生の選択が、信仰を持たない人とほとんど変わらない若者たちです。信仰の言葉は残っていても、信仰の世界観は失われているのです。

 

彼らの願いや恐れ、そして「人生は何のためにあるのか」という根本的な感覚そのものが、告白する信仰ではなく、自分たちが生きる時代によって形づくられてしまっています。

 

ローマの信徒への手紙12章で、パウロは「心を新しくして造り変えられなさい」と勧めています。この言葉は、信仰とは既存の人生に教理を付け加えることではなく、人生の土台そのものを新しく造り変えるものであることを前提としています。その刷新が起こらないとき、若者たちが持つ信仰は、生き方ではなく、単なる「宗教的な言葉」になってしまうのです。

 

これは情報不足の問題ではありません。彼らは十分すぎるほど多くの情報を受け取っています。問題は「形成」の不足です。与えられた信仰が、自分自身の生きる信仰にならなかったのです。

こうした葛藤そのものは、新しいものではありません。どの時代の若者も、友人からの圧力、アイデンティティの揺らぎ、欲望の誘惑、人間関係の難しさに直面してきました。それは、この時代特有の道徳的崩壊ではなく、壊れた世界に生きる人間が共通して負う重荷です。

 

変わったのは葛藤そのものではありません。それに向き合うための「内なる土台」が弱くなっていることです。信仰が真に受け継がれるとき、それは葛藤を取り除くのではなく、そのただ中でも揺るがずに立ち続ける足場を与え、その足場の上で共に立ってくださるキリストを信頼する力を育みます。その「信仰による足場」が、今、かつてなく薄くなっているのです。
 

(第②編へ続く)

 

※本記事は、インド福音同盟(EFI)の総務であり、月刊誌『AIM』の編集長であるビジャイェシュ・ラル(Rev. Vijayesh Lal)牧師による寄稿文(Christian Daily掲載)を翻訳・編集したものです。

🔗 英語原文はこちら:
https://faithnfamily.org/in-the-ai-age-we-must-work-harder-to-form-authentic-faith-in-our-children/