自分がコーヒー・カンタータを
初めて意識したのは
エリー・アメリングの
歌を聴いてから
というわけではなく。
おそらくは
講談社現代新書に書き下ろされた
礒山雅[いそやま ただし]の
『J・S・バッハ』を
読んでからだと思います。
(講談社現代新書、1990.10.20.
写真は1992年6月26日発行の第4刷)
礒山は上掲書の第8章
「バッハを知る20曲」で
コーヒー・カンタータの
おすすめ盤として
エマ・カークビー盤を
あげています。
ただし、その際
「これが理想的な演奏とは、
けっして思わないが……」
と付け加えてありました。
『J・S・バッハ』を読んだ当時
まだカークビー盤は
聴いてませんでしたけど
なぜ理想的な演奏だと思わないのか
不思議に思っていたものでした。
その後、
カークビー盤を聴きましたけど
それでも磯山の書いた
意味するところが
分からないまま
幾星霜。
実は磯山の意図は
『J・S・バッハ』の後
17年後に書き下ろされている
『バロック音楽名曲鑑賞事典』の
コーヒー・カンタータの項目を読めば
明らかになるのでした。
(講談社学術文庫、2007.2.10)
磯山は上掲書で
次のように書いています。
シュレンドリアンには、まぎれもないバッソ・ブッフォのトーンがある。またリースヒェンには、スーブレットの面影がある。すなわちこの作品は一篇のオペラともいうべきもので、演技をつけて上演しても、まったく違和感がない。バッハは父に困惑と焦燥の音楽を、娘には快楽と艶笑の音楽を付けた。強調しておかなくてはならないのは、娘がはるかな結婚にあこがれる清純派ではなく、すぐにでも男を欲しがる現実派として描かれていることである。演奏には、そうした性的なくすぐりをぜひ忍ばせてほしいのだが、そこまでやっている演奏者は、今のところないようだ。(pp.212〜213)
バッソ・ブッフォというのは
Wikipedia によれば
喜劇的な役割を得意とする
バス声域のことだとか。
スーブレット soubrette というのは
小粋[こいき]で抜け目のない
(「機知に富んだ」といわれることもある)
小間使い役などに適した声質のことで
以下のブログの記事が
他のソプラノにもふれていて
参考になります。
それはともかく
先に引用した
磯山の文章を読めば想像がつく通り
カークビー盤を「理想的な演奏」と
「けっして思わない」理由は
「性的なくすぐり」を
忍ばせていないから
ということだったんですね。
『バロック音楽名曲鑑賞事典』を
買って読んだ時は
先に引用した箇所の意味に気づかず
今回、コーヒー・カンタータについて
いろいろ確認するために
礒山の1990年の本を引っ張り出した後
2007年の本を読んで
初めて気づかされたのでした。
17年振りに
腑に落ちた次第ですが
「そこかーい!」と
ツッコミを入れちゃいましたぜ。( ̄▽ ̄)
「性的なくすぐり」は
国立劇場の演出に
忍ばされていたような気も
しないではなく。
礒山雅が
前回の映像を観てどう思うか
ちょっと聞いてみたい気がしますね。