『記憶のための殺人』

(1984/堀 茂樹訳、草思社、1995.8.1)

 

1995年に草思社から

〈ロマン・ノワール〉シリーズと題して

ジャン・ヴォートランと

ディディエ・デナンクスの作品が

合わせて一挙に5冊

訳されたことがありました。

 

デナンクス作品は3冊訳されましたが

その内の1冊が今回ご案内の

『記憶のための殺人』で

フランス推理小説大賞の他に

ポール・ヴァイヤン=クーチュリエ賞

というものを受賞しています。

 

後者は

共産主義者だった

フランス人作家に由来する

賞のようですが

詳細は不詳。

 

 

1961年にパリで起きた

アルジェリア人による

街頭デモの弾圧時に

一人のフランス人教師が

機動隊の服装をした何者かによって

射殺されます。

 

しかし

デモに巻き込まれたか

アルジェリア人シンパと考えられ

正式に捜査が行なわれることなく

処理されてしまう。

 

その20年後

その教師の息子が

フランスのトゥールーズで

公文書館を出た後

何者かに射殺されます。

 

デナンクス作品シリーズ探偵

カダン刑事が事件の調査に乗り出し

20年越しの二重殺人の背後に隠された

フランス史の暗部を暴いていく

というお話です。

 

 

解説によりますと

実際にフランス史の暗部に関わった

ある人物の経歴を基に

書かれているようです。

 

権力者や成功者が

過去のスキャンダルを隠蔽し

保身を計ろうとして事件が起きる

というパターンのミステリは

たくさん書かれています。

 

日本では松本清張の

『ゼロの焦点』(1959)が

そうしたプロットの先駆であり

典型といえるでしょう。

 

現在では使い古されたプロット故に

『記憶のための殺人』

初刊時の衝撃度は

相対的に弱まっていると

思わずにはいられません。

 

ただ、その一方で

モデルとなった人物が

国家レベルの黒歴史に

二度にわたって関与していたという

まさに、事実は小説よりも奇なり、を

地でいくような現実には

驚かされました。

 

 

本書が内包するモチーフは

国家理性 raison d'État 批判で

「《国益》という言葉」が大嫌いだ

と発言する警視が登場する

J=F・コアトムールの

『真夜中の汽笛』(1976)と

共通する感性が見てとれます。

 

国益の名のもとに

多くの一般国民や外国人が

抑圧され弾圧され排除される

という状況は

多かれ少なかれ現在でも日々

見られるのであってみれば

現在でも読まれるべき作品

ということになりましょうか。

 

 

ミステリとしては

トリックという点からみれば

素朴すぎるところがありますし

小説としてみても

フランス・ミステリにありがちの

あらすじを辿るような書き方だと

思わないでもありません。

 

小説としての部分だと、たとえば

1961年に射殺された教師の妻は

それ以来、外界の出来事を遮断し

子育ても放棄し、外出することなく

20年間、閉じこもって暮らす

という設定なんですが

カダン刑事が訪ねてきて

強制的に外界へと通じる窓を開くと

ぱっと回復してしまう。

 

まさに「ぱっと」という感じで

時間もたいしてかからないし

そのためもあって

あまり葛藤が感じられない。

 

英米の作家であれば

こういうところは腕によりをかけて

(なんて言い方も変ですけど)

じっくりと書き込むと思います。

 

もちろん、現実の人間の場合

あるいはそんなふうに

ぱっと回復することも

あり得るのかもしれませんけど

小説のリアリズムというのは

そういうものではない

と思うものです。

 

そういうリアリズム観も

固定観念かもしれませんが

フランス・ミステリに対する

違和感というようなものは

こういうところに

由来しているのかもしれません。

 

 

本書はずいぶんと前に

古本で入手していたのですが

例によって読んだのは

今回が初めてだったりします。(^^ゞ

 

久しぶりに本棚から

引っぱり出してきたところ

訳者が献本した際の添え状と

参考資料のコピーが

挟まってました。

 

『記憶のための殺人』献本添状他

 

添付資料のひとつとして

1997年11月11日付の

『出版ダイジェスト』に

訳者が書いた記事のコピーがあり

そこに次のような

興味深い一節がありました。

 

人は(…)公務員(会社員)である前に市民であり、人間である。したがって人には、「市民の共同体」(ドミニック・シュネデール)たるネーションの本来の意味を救うために国家への服従(会社への忠誠)を拒否しなければならないときがある。また、普遍的な倫理原則——ヒューマニティーの原則——に従うために自らの職能を裏切らねばならないときがある。組織のヒエラルキーを優先し、それに合わせて価値のヒエラルキーを転倒するのは“自由”の放棄である。それはまさに「人でなし」になることだ。

 

20年以上も前の文章ですが

現在でもまったく変わらずに

通用するかと思います。

 

 

ペタしてね