『真夜中の汽笛』

(1976/長島良三訳、角川文庫、

 1986.5.10/1986.6.20. 2刷)

 

確か昔、買ってたと思うんですが

本が出てこないので

Amazon にアップされている中古を

買い求めて読み終えました。

 

フランス推理小説大賞受賞作

とはいえ、まさか

ひと月ほどで再版されたとは

思いもよらず

ちょっとびっくり。

 

 

時に198−年12月

舞台はブルターニュ地方の

港町ブレスト。

 

元刑事のジェフは

失業中のポルトガル人労働者に

ある男の尾行を依頼します。

 

製靴会社の社長であるジェフの妹が

夫が浮気しているのではないかと疑い

パリへの出張中の素行を調べるよう

ジェフに依頼したのだったが

それを見知らぬ失業者に

仲介したのでした。

 

その夜、ジェフが妹の家を訪ねると

妹は何者かに殺されており

さらには、その夫の死体が

鉄道線路脇で発見される

……というお話です。

 

 

プロット自体は単純なので

読みなれた読者であれば

すぐに真相の見当はつくでしょうが

本作品の特異性は

そのプロットに

反政府運動を絡めた点

ということになりましょうか。

 

作中の年代を

発表年代よりも先の

近未来に設定し

作中のフランスは

軍人出身の首相によって

大粛清が敢行され

反政府活動が抑圧されている

という世界になっています。

 

被害者の製靴会社は

現政権を支持しており

反政府組織から脅迫状を

受け取っていただけでなく

それが被害者の書斎から発見されたため

事件は一気に政治的案件に変わる。

 

警察とは別に

MAC(文化普及運動)という

ゲシュタポのような組織が介入し

無辜の市民が弾圧される

という事態に至るのでした。

 

 

近未来を舞台とする政治小説

でもあるわけですが

読後の印象としては

1970年代に日本で流行った

社会派サスペンス・ドラマという感じ。

 

映画『新幹線大爆破』(1975)とか

『Gメン'75』(1975〜82)の

エピソードにありそうなやつ。

 

そういう、いわば

社会派的な題材であるために

物語の結末は暗いんですけど

ヒューマニズムと抒情性を

うまく、ない交ぜにして

ひとつの雰囲気を作り上げており

そこが良かったです。

 

 

事件の関係者を

政治的に決着つけようとして

警察が動き始めたとき

政治とは別のレベルで

真相を追及していたロー警視の

「それでもやはり、どこかで、

 たとえ弱よわしく、

 おずおずとしてはいても、

 正義もまた

 動き出しているにちがいない」(p.317)

という内面の台詞には

心動かされるものがありました。

 

ロー警視にはもうひとつ

最後の最後(エピローグの直前)に

名台詞があるのですけど

それについて書くと

ストーリー展開を

割ることになるので

ここでは伏せておくことにします。

 

 

そのロー警視は

「証拠によって明らかになった事実が

国益と合致している」と言う

警察本部長に対して

「私は《国益》という言葉が大嫌いです」と

冷ややかに言いはなつ

場面(p.298)があります。

 

これも名台詞のひとつですけど

ロー警視のこうしたキャラクターは

どのような背景から生まれたのか

ということが

いっさい語られないまま

物語が終了するので

そこは、やや物足りないかも。

 

英米の作家

特にアメリカのミステリなら

ここぞとばかりに

書き込むでしょうけれど

フランス・ミステリは

いたってサバサバしたものです。

 

ペイパーバックという容れ物ゆえに

決められた枚数というものがあって

何でもかんでも書き込むことが

できないという事情も

あるのかもしれませんし

ジェフの書き込みに集中した

ということかもしれません。

 

 

そんな不満もちょっとあるのと

やや展開が図式的なのとで

大傑作というのはためらわれますが

作者の名前を覚えときたくなるくらい

手堅くまとめられた

秀作ではあると思います。

 

エピローグは

正義のひとつの動きで終わりますが

それにグロテスクなユーモアを

絡めているあたりも

印象的でした。

 

わざわざ原註を付しているあたり

ユベール・モンテイエに通じる

ユーモア感覚のようにも

思われたり。

 

 

タイトルは

大晦日、新年になると同時に

港に停泊中の船が

一斉に汽笛を鳴らすという

慣習に由来します。

 

主人公のジェフが

新婚当時に妻と一緒に聞いたのを

大切な思い出にしており

それがキャラクターの

厚みにもなっている。

 

と同時に

サスペンスを盛り上げる

タイムリミットの指標でもあり

あと、事件が終局を迎えた際の

弔意の響きというニュアンスも

込められていそうです。

 

 

ちなみに作者名ですが

Jean-François Coatmeur

と綴られるので

従来の一般的な表記に従うなら

「J・F」ではなく

「J=F」となります。

 

ジャン=ポール・サルトルと同じですね。

 

そういえば、警察が証拠を求めて

被疑者の自宅を探している場面には

「《毛語録》とまではいかなくても、

ジャン=ポール・サルトルでも見つかれば、

それにこしたことはないが」(p.295)

という文章が出てきます。

 

サルトルというのは

そういう位置づけだったこと、

そう思われている時代もあったことを

垣間見せてくれる

興味深い場面でした。

 

 

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