前回の記事の冒頭でも書いた通り
今年(2018年)に入って
ヘレン・マクロイの本邦初訳作品が
2冊も刊行されました。
そのうちの1冊が
前回の記事で紹介した
『悪意の夜』だったわけですけど
もう1冊がこちら。
(1944/渕上痩平訳、ちくま文庫、2018.6.10)
こちらはノン・シリーズ作品で
暗号テーマの長編として
名のみ知られていたものです。
まさに待望の翻訳というべき一冊。
暗号もので原題が Panic ですから
未訳だったときは
冒険サスペンスかスパイ小説だろうと
思っていたものでした。
実際に読んでみると
スパイ小説の要素もありますが
サスペンス+謎解き本格、という
いかにもマクロイな書きそうな作品でした。
今回、邦題を見て
なるほどそういえば
パニックの語源は牧神[パン]だった、
それを踏まえたストーリーか
なるほどね、と
腑に落ちたりした次第です。
ギリシャ神話研究者の叔父が急逝し
私設秘書を務めていた姪は
従兄弟の勧めもあって
辺鄙な田舎にある別荘に
静養と孤独を求めて住むことになります。
叔父は素人暗号研究家でもあり
戦場の兵士でも簡単に扱える
ぜったいに解かれない暗号を開発し
情報部に売り込んでいました。
その解読法を情報部に伝える前に
急逝してしまったため
私設秘書を務めていたヒロインが
解読法を知っているのではないか
と思われてしまい
そのために命を狙われる可能性もある
と脅されてしまいます。
一方、ヒロインが引っ込んだ別荘地では
何やら、いわくありげだったり
怪しげだったりする人々が
住んでいるばかりでなく
コテージのそばの森を
牧神かと思われる何かが跳梁し
ヒロインの神経をさいなみます。
その脅威から気を逸らすためにも
ヒロインは暗号解読に挑むのですが
ついに殺人事件が発生してしまう
というお話です。
気を許せる人間とていない
文明から隔絶されたかのような田舎で
恐怖の影に怯えながら
奮闘するヒロインを描く
というプロットであるため
そして伏線が丁寧に張られていることもあり
ヒロインを脅かす影の正体は
なんなく見当がついてしまいます。
(読者のアンフェアw)
スリラー映画などでは
定番の設定ということもあって
現代の読者にとっては、それこそ
古臭く感じられたりするのではないか
と余計な心配をしてみたり。
めでたしめでたしのエンディングも
戦前のアメリカ映画を連想させますしね。
むしろ
型通りなので安心して読める
と思われるかしらん。
本書が扱う暗号は
ヴィジュネル暗号というやつで
Wikipedia の項目記事に掲げられているような
アルファベットの方陣を使ったもの。
エドガー・アラン・ポオの「黄金虫」や
コナン・ドイルの「踊る人形」、
江戸川乱歩の「二銭銅貨」のような
いかにも暗号然としたものとは違い
アルファベットが
ランダムに並んでいるようにしか
見えないので
面白味が感じられないだけでなく
見ただけで拒否反応を示す人がいそう
と思わしむるようなものなのです。
乱歩がマクロイの本書に言及した際に
「機械的で機智がなく、少しも面白くない」
と書いたことが
「訳者あとがき」で紹介されてますし(p.358)
乱歩のそういう紹介文を読んで
つまらないものと思っていた読者も
多いのではないかと思われます。
ところがどっこい
実際に訳されたものを読んでみると
確かに暗号自体は
数学アレルギーのような人に
拒否反応を起こさせる体のものですが
マクロイは暗号の解読にポイントをおかず
解読のためのキーにポイントをおいて
どういうキーを設定するのか
推理する方向へと
謎を設定しています。
これは見事なアイデアで
そういうふうに設定したために
キーを推理しうる伏線も
張ることが可能となりました。
問題になるキーの隠し方に
乱歩のいわゆる機智も感じられますので
従来の乱歩の評価は
明らかに誤読といわざるを得ず
それを知らしめただけでも
本書は翻訳された意義がある
と思った次第です。
先にも書いた通り
同じ年に2編の未訳長編が出たので
どちらの出来がいいか、ということが
おそらく議論の対象になると思いますけど
個人的には、今のところ
『悪意の夜』の方が出来がいい
と思っています。
『牧神の影』には、上記したように
乱歩の読みを覆したという意味で
歴史的が価値があると思いますし
「訳者あとがき」で指摘されている
犬を使った伏線の張り方は
謎解きミステリとしてお見事
と称賛を惜しむつもりはありません。
でも、いかんせん
プロットが古風なため
真相のあたりが突きやすいのに加え
暗号をめぐるプロットと
牧神幻想をめぐるプロットの結びつけ方が
強引なような気がするわけでして。
そんなこともあって
年末の各種ベスト10などで
どちらが上位にランクインするか
今から興味津々だったりしています。
あと、今回
『牧神の影』と『悪意の夜』が
一緒に訳されたことで
マクロイの手つきというか
創作上の癖のようなものがうかがえるのも
興味深いところでした。
両作とも、冒頭で
ヒロインが何者かの影に驚き
それが鏡に映った自分だと気づく
というシーンがあったのには
ちょっと驚きでした。
また、ヒロインを取り囲む
少ない登場人物の中から
犯人が絞られるというのも
まったく同じ作りですね。
最後に謎が解かれたあと
登場人物の人間関係が
どうなったのか、どうなっていくのか
いわゆる後日譚がまったく描かれないのも
よく似ています。
『牧神の影』の場合
娯楽小説や娯楽映画の
パターン通りの終わり方なので
特に気にはならないんですけど
『悪意の夜』の場合は
真相が深刻なものだっただけに
残された登場人物が
どのように人間関係を修復していくのか
非常に気になりました。
あるいはウィリング博士は
誰にどこまで知らせるつもりなのか。
『悪意の夜』の
さらっとした終わり方は
いかにも1950年代の娯楽小説らしい
といえるのかもしれません。
ミステリは謎が解ければいいのであって
登場人物のその後については
どうでもいい、というと語弊がありますが
読者一人一人が(考えたいなら)考えればいい
という感じだったのかも。
当時の娯楽小説ジャンルとして
当り前の書き方だったのであり
現代のエンターテインメントは
登場人物の関係性を丁寧に追いかけることで
小説として発展してきたのだと
いえるかもしれません。
今回訳されたマクロイの2作を読むと
そんなことを
つらつら考えてしまうのでした。