(講談社文芸文庫、1991年9月10日発行)
親本は1969(昭和44)年に
講談社から刊行されました。
それまで、何度か
芥川賞の候補になりながら
(直木賞の候補にも一度なっている)
受賞を逸してきた作者は
本書によって
読売文学賞を受賞しています。
小沼丹の小説には
ミステリがかったものがある
ということを耳にして
かなり以前、古本屋で見つけた際
買っておいたものです。
ただし読むのは今回が初めて。(^^ゞ
北村薫は
『春風コンビお手柄帳』に寄せた
巻末エッセイの中で
『黒いハンカチ』に続く
小沼丹のミステリ短編集を編むなら
『宝石』や『推理ストーリー』などの
探偵小説専門誌に載った作品だけだと
「小沼の作品集として、
いかにも寂しいものになってしまう」
と書いています。
その上で、探偵小説専門誌だけでなく
『懐中時計』に入っている
「エヂプトの涙壺」「断崖」「砂丘」から
「村のエトランジェ」「二人の男」などまで
視野に入れなければならないと述べ
「守備範囲を決めた読書は貧しいものだ。
宝貝は、それぞれの海に眠っている」と
記しており、それに触発されて
ちょうど買ってあった『懐中時計』に
目を通してみようかと思った次第。
『懐中時計』には
小沼丹の後期の作品を代表する
大寺さんを視点人物とする私小説の
シリーズ第1作「黒と白の猫」が
収録されており
小沼文学を考える上で
避けて通れない作品集でもあります。
というのも
その「黒と白の猫」について
巻末の「著者から読者へ」というエッセイ
(内容は新聞に発表した文章の再録)で
北村薫が『春風コンビお手柄帳』の
巻末エッセイでふれていた問題が
主題化されているからです。
「突然女房の死に出会って、
気持の整理をつけるために
それを小説に書こうと思った」
その「当時の手帖を見ると」
「いろんな感情が底に沈澱した後の
上澄みのような所が書きたい。
肉の失せた白骨の上を乾いた風が
さらさら吹過ぎるようなものを書きたい」
と書いてあったのだとか。
一人称で書くと
「乾いた風の替りに湿った風が吹いて来たり、
べたべたくっつくものが顔を出したりする」が
「『僕』の替りに『大寺さん』に出て貰ったら」
うまくいったそうです。
ここらへんの機微をどう解釈するかが
小沼文学を論じる際の
ひとつのキモになっているようですね。
だから北村薫も
巻末エッセイで言及しているわけだし
本書の解説でも秋山駿が
論じようとしているわけです。
その秋山駿の解説は
なかなか示唆に富んでいて
面白かったし
勉強になりました。
秋山駿の解説で
印象的な引用のされ方をしていた
「蝉の脱殻[ぬけがら]」は
昆虫を題材とするアンソロジーに採るのに
ぴったりな感じの作品ですが
読んだあとで秋山の解説を読み直すと
なるほどいわれてみれば
と腑に落ちるところがあります。
ちなみに、個人的には
「黒と白の猫」を読んで
『春風コンビお手柄帳』の第2話
「消えた猫」において
北村薫が問題にしたような書き方をさせた
作者の猫に対する姿勢のようなものが
腑に落ちたような気がしたのも
収穫だったりします。
なお、再版では直ってるかもしれませんが
秋山の解説中の引用部分(p.290)で
「(! …)」となっているのは
「(……)」の誤植でしょう。
引用した際に中略であることを示す
慣用的な表現であることを
知らない植字工(かな?)が
自己流に解釈して組んだのだと思いますけど
校正の目もスルーしたのは
純文学系の本にしては、ちょっと珍しいかも。
閑話休題。
先に北村薫がふれていた
昭和30年代に書かれた三編
「エヂプトの涙壺」「断崖」「砂丘」は
作者曰く「話を作る興味がまだ強かった」頃の
ミステリめいた要素のある作品です。
中では「砂丘」が
ちょっと迫力があるというか
鬼気迫るものがあり
印象に残ります。
「断崖」は
「モヤシ君殊勲ノオト」の
第3話「赤土の崖」を
思わせるようなところがありました。
三編中、二編までが
不倫がらみのプロットだったので
ちょっとイージーかなあ
と思ったりしたものの
読んでしばらくすると
なんか、じわじわくるものがあったり。
そういえば
「モヤシ君殊勲ノオト」にも
不倫を匂わせる話があったことが
思い出されますね。
イージーといえば
大寺さんシリーズ以外は
上記、ミステリめいた作品も含め
ひなびた温泉地や旅行先が
舞台となる作品が多いのも
興味深いところでした。
旅先で出会った人物を
スケッチしたかのような作品は
これまた、小沼文学における
ひとつのモチーフなのかも。
まあ、もう少し
別の作品も読んでかないと
何ともいえませんけれど。
ちょっと印象的だったのは
「揺り椅子」の出だし。
高架になったばかりの
中央線に乗っている
大寺さんの描写から始まります。
それまで地上を走っていた電車が
高架になったときというのは
こんな感じだろうなあというあたり
リアルに実感できるだけでなく
「中央線が高架になったのって
この作品が発表された頃(1965年)かあ」
と感慨にふけったことでした。
最初にも書いた通り
全編を通して読んだのは
今回が初めてですが
古本で買った当時、すぐに読んでも
ピンとこなかったのではないか
とも思っています。
その意味では
自分的には読みごろだったわけで
買っておいて良かったと
素直に思っています。(^_^)