(1938/小林晋訳、国書刊行会、2006.9.25)
国書刊行会から出ていた
世界探偵小説全集の第40巻です。
本にかかっているパラフィンは
自分でかけたものです。
『幽霊の死』以降
第二次世界大戦勃発までの間に
発表された力作のひとつで
イギリスでは
『クロエへの挽歌』(1937)に続いて
刊行されました。
翻訳の方は
いわゆるゼロ年代になってから
ようやく刊行されたのですが
実際に店頭で見たとき
ついに出たかと
感慨もひとしおだった記憶があります。
ある舞台女優の
失踪していた婚約者が
死体となって発見され
不穏な空気が漂っていたところ
女優の現在の夫が
飛行機で飛び立つ壮行会の会場で
不審死を遂げる……
というお話です。
惹句風にいうなら
「不幸と諍いを招き寄せる舞台女優!」
という感じですけど
そういうキャラクターの描写が
小説としての読みどころのひとつ。
今回はキャンピオンの妹が
ファッション・デザイナーとして
登場します。
舞台女優のために作った
衣装のデザインが盗まれたり
その舞台女優に
愛する男の気持ちを奪われたりと
さんざんな目に合うのですけど
かといって
その女優との友人関係が
壊れるわけでもない。
そこらへんの
人間関係の機微が
読みどころといえば
読みどころなんですけど
読み手によっては
イライラするかもしれませんね。
ミステリとしての読みどころは
上記したように
キャンピオンの妹が
事件関係者の一人であり
その他の関係者も
自分の階級に属する友人知人が多いため
単に真相をつきとめればすむ
というだけではなく
スキャンダルにならないよう
落としどころを探ることを
キャンピオンが求められる
というところでしょうか。
前作『クロエへの挽歌』に引き続き
キャンピオン自身の事件
とでもいうべき展開を
見せるわけです。
キャンピオンは
上に書いたような状況に
自分が置かれること自体
何者かの意図によるのではないか
という疑いが拭えません。
そういうあたりをふまえれば
本作品は
いわゆる「操り」テーマの
バリエーションということも
できるでしょうか。
キャンピオンが「操り」に気づく
きっかけとなるのが
ロレンス・スターンの引用であるあたり
いかにも1930年代に登場した
新しいイギリスの本格派らしい
という気がします。
キャラクター的には
『甘美なる危険』(1933)以来の
アマンダ・フィットンの再登場が
読みどころといえるでしょう。
アマンダが務める飛行機会社の
尊敬する代表者が
事件に深く関わっているため
アマンダもまた
やきもきさせられます。
その代表者が
社交場で恥をかかないよう
その場を収めるために
キャンピオンとの婚約を発表する
という場面も出てきます。
キャンピオンが
アマンダは綺麗になったなあ
と実感する場面が何度か
出てくるんですけど
結局『甘美なる危険』の時は
さほど真剣ではなかったのかね
とか思ってみたり。
その婚約問題が
犯人に罠をかける際に
活きてくるわけですけど
その際、アマンダを
川に投げ込むシーンがあります。
キャンピオンが提案し
アマンダもそれに乗ったのかどうか
むしろアマンダの方から提案して
キャンピオンが
柄にもないことをしたのかどうか
気になるところです。
再登場ということでは
ラッグのもとに
前作『クロエへの挽歌』で知り合った
ミュージカル俳優の娘から
手紙が届いたりしていて
シリーズを追っている
読者へのサービスも
怠りない感じですね。
なお、キャンピオンの妹は
最後に愛する男と結ばれます。
事件が解決して
恋人たちの関係が回復する
ということ自体は
お約束なのですけど
このときのプロポーズの言葉が
仕事をやめて家庭に入り
自分を支えてほしい
と言っているように読めるので
個人的にはちょっと驚きでした。
最初に読んだ時も
ちょっと気になったような
記憶があります。
というのも、同じ時期に
ドロシー・L・セイヤーズが書いた
『学寮祭の夜』(1935)だと
女性の自立に配慮したような
プロポーズが描かれるからでして。
これに拠って見るに
アリンガムはセイヤーズに比べると
ちょっと保守的なのかもしれない
とか思ったり。
もちろん
キャンピオンの妹は
フィクションのキャラクターですから
それがそのまま
作者の考えと同じわけではない
と考えるべきでしょうけど
同時代的にどう読まれたのか
ちょっと気になるところですね。