(1937/井伊順彦訳、新樹社ミステリ、2007.8.31)
本にかかっているパラフィンは
自分でかけたものです。
白を基調としたデザインは
美しいのですけど
(カバーを取った本体も白です)
持っているうちに汚れそうだったので
買ったその日にかけました。(^^ゞ
かつては
マージェリー・アリンガムの代表作といえば
『幽霊の死』(1934)と
『判事への花束』(1936)で
日本でも、その2冊のみ
早い時期に翻訳されていました。
ただ
作風が変わったとされる
『幽霊の死』以降
第二次世界大戦が始まるまでに
もう2冊、力作が発表されており
その翻訳が待たれていたのですが
(待っていたのは
ファンだけかもしれませんけどw)
いわゆるゼロ年代の後半になって
ようやく訳が出始めたのでした。
その未訳だった2冊の内のひとつで
イギリスでは
『判事への花束』に続いて
刊行されたのが
今回の『クロエへの挽歌』です。
今、気づきましたが
原書が出て70年後に
ようやく邦訳されたことになりますね。
(それからさらに10年
経ってしまいました……【 ´(ェ)`】)
人気ミュージカルの主演俳優が
嫌がらせを受けているので
調べてもらえないかと頼まれた
お馴染みアルバート・キャンピオン。
週末に、俳優が所有する
郊外の屋敷に赴いたところ
当のミュージカルに
特別出演したばかりだった女優の
奇妙な死に遭遇します。
状況から
事故死だと思われたのですが
キャンピオンは殺人だと確信します。
ところが
犯人の見当がついたあたりから
キャンピオンは
調査への情熱を失ってしまい
そうこうするうちに第二の事件が起きる
……というお話です。
本作品の読みどころのひとつは
郊外の屋敷に滞在する
ミュージカル俳優の取り巻きたち、
作曲家や広報係
トレーナーや代役俳優
そして俳優の家族(妻と妹)の
間で交わされる
心理的な葛藤というか
チクチクとしたやりとりです。
思わせぶりな言葉と態度の応報で
読んでいて
実に神経に響いてくるあたり
アリンガムの筆力を感じさせますが
そういう心理小説みたいなノリは
読むのがしんどいのも
また、事実でしてね。σ(^_^;)
読みどころは読みどころなんですけど
語り手も
いちいち読み手に説明せず
キャンピオンの印象が
ときどき示されるだけなので
なおさら疲れる感じ。
ミステリとしての読みどころは
キャンピオンが関係者の一人に
ひとめ惚れしてしまい
事件の解決を渋るところ。
ただ単に渋るだけではなく
最後の解決の場面になって
面白い効果を生んでいます。
考えようによっては
ミスディレクションとも
いえなくはないのですけど
いわゆる本格ミステリに見られるような
どんでん返しの爽快感を期待するより
名探偵に対する皮肉
というふうに読んだ方が
読み方としては楽しめるかもしれません。
ステファノ・ターニという評論家が
昔、テーマにしていた
いわゆる「失敗する探偵」の
ひとつのパターンでもありますし
某古典ミステリの(当時における)現代版
あるいは伝統の踏襲といえるのかも。
上に書いたことは
キャラクターものとしての
読みどころにもなるわけですけど
キャラクターという点ではもうひとつ
キャンピオンの従者で、かつては夜盗の
ラッグ(本書の表記はラグ)と
ミュージカル俳優の幼い娘との親交が
息の詰まるような物語の中で
オアシスのような感じになってます。
両親は忙しくてかまいきれず
無理解な女中のために
精神的に追いつめられていた少女が
ラッグとの交流によって
生き生きとしてくるシーンは
心暖まるものがありますね。
アリンガムの小説では
前に発表した作品の登場人物が
再登場することがしばしばあります。
本書において
キャンピオンに調査を依頼するのは
『手をやく捜査網』(1932)で
連続殺人が起きる一族の人間だった
ウィリアム・ファラデーです。
なんと、自叙伝を書いたところ
それを原作にしたミュージカルが作られ
しかも当たってしまうという
有卦に入っていたとことでした。
『手をやく捜査網』では
収入の手段がなく
厳格な母親のもとで
隠れて酒を呑むような
ちょっと情けない感じだったのですが
本書では、まあ相変わらずとはいえ
年相応の落着きが感じられるのも
書いた本が劇化されて成功し
お金が入ったからかもしれませんね。
そのファラデーとの会話の中で
ファラデー家を仕切っていた
厳格な母親キャロライン・ファラデーが
亡くなったことが知らされて
ちょっとしんみりします。
最初に読んだ時は
ファラデー家の人々のことを
意識していなかったので
今回、再読して
ちょっと印象が変わりました。
これも、発表順に読んできた
効能ともいうべきものでしょうか。
発表順に読んできた効能
というのにあたるかどうか
分かりませんけど
『幽霊の死』や
『判事への花束』で描かれた
犯人の性格に接してきた読み手なら
それがレッド・ヘリングになって
キャンピオンの間違った推理を
受け容れやすくしているかも知れません。
アリンガムが意識していたかどうか
微妙なところですけど
おそらく
意識していたのではないでしょうか。
だとすれば
それが本作品の
最大のトリックだと
いえるかもしれません。
本書は今回が再読なんですけど
最初に読んだ時と
印象が変わったところのひとつに
第二の事件である
駅での縛殺事件が
あげられるかもしれません。
翻訳が出た時
アメリカ同時多発テロは
もちろん起きたあとでしたけど
その時よりも
テロリズムの恐怖が、よりリアルに
感じられるようになった
ということもあるでしょう。
と同時に、犯人の性格が
よりリアルに
意識されるようになった
という気もしています。
いずれにせよ
あまりいいことのようには
思えませんけどね。
本作品の2年後に
大戦が勃発するわけですが
戦争へと向う空気に敏感な
当時の読み手には
ぴりぴりとした心理劇よりも
刺激が強かったかもしれません。
というか
こんなプロットを考えるアリンガムって
かなり過激なんじゃないかと
今さらながら思う次第です。
邦題の「クロエ」というのは
殺害される女優の名前です。
原題は Dancers in Mourning で
in Mourning には
喪服を着る、とか
喪中、という意味がありますから
あえて直訳すれば
「喪服の(or 喪中の)ダンサーたち」
「喪服を着た(or 喪中の)舞踏家」
といったところかなあ。
mourning には
悲嘆に暮れる、哀悼する
というニュアンスもあるので
邦題もいい感じなのですけどね。