青柳いづみこ『グレン・グールド』
(筑摩書房、2011年7月10日発行)

新宿のディスクユニオンで見つけた本で
上の写真だと
分かりにくいかもしれませんが
ビニール・カバーがかかっているのは
そのためです。

なぜかディスクユニオン新宿店の
クラシック売場の本には
CDやDVD包装用のビニール・カバーが
よく古本屋で目にする
パラフィン紙のように
かけられているのです。

ちなみに本書は現在
ちくま文庫に入っています。


基本的に
グレン・グールドという
ピアニストが好きな人
ないし嫌いな人向けの本です。

もっとも
グールドって誰? という人は
そもそも手に取りは
しないでしょうけど(苦笑)


グレン・グールドは
1955年に録音した
バッハの『ゴルトベルク変奏曲』で
鮮烈なデビューを飾り
後には
コンサート・ピアニストとしての活動を停止
レコーディング・アーティストとして
毀誉褒貶、様々なディスクを録音し
主にバッハ弾きとして知られる
クラシックのピアニストです。

こちらのブログでも
何度か話題にしたことがありますけど
青柳の本は買ってなかったので
読むのは初めてなのでした。


青柳の本の特徴は
様々なライブ・レコーディングを聴き
コンサートをドロップ・アウトするまでの
グールドの演奏を検討し
他のピアニストのあり方や
同時代的状況
自身のピアニストとしての活動をふまえて
グールドが目指したものは何だったのかを
考えようとした点にある
ということになりましょうか。

かつては
公式にリリースされたレコードしか
聴けない状況でしたけど
その後、残されているライブの音源や
テレビに出演した際の映像などが
続々、発掘されるようになりました。

そうした音源や映像を基に
ピアニストとしての経験もふまえつつ
論を進めていくというのが
初刊当時としては
画期的だったのだと思います。


今では類書が多いのかどうか
分かりませんけど
自分が読んだ範囲では
翌年(2012年)に出た
中川右介の
『グレン・グールド
 孤高のコンサート・ピアニスト』

比較的、近いアプローチかも
しれません。

ちょうど青柳の本が出た翌年に
青柳もふれている
『グレン・グールド
 天才ピアニストの愛と孤独』

というドキュメンタリー映画が
日本で公開されています。

本書が出た頃というのは
レコードによって創られた
神話的・偶像的なイメージが
再検討されていた時代だ
ということになりましょうか。


ちなみに自分は
この本を読む前に
同じ著者による
『ボクたちクラシックつながり
 ——ピアニストが読む音楽マンガ』

『ボクたちクラシックつながり』
(文春新書、2008.2.20)

を読み終えており
コンサート・ピアニストがおかれている
ストレスフルな状況について
予習したみたいになっていたので
それと重なる記述もあったからか
わりと腑に落ちる感じで
さくさく読めました。


音楽的な細かい分析は
こちとらが演奏できない素人なので
よく分かりませんけど
印象的だったのは
理想とする音楽を感得して
それを表現することと
実際の表現との間には
楽器の限界などもありズレがある
そのズレを補おうとし
心の中に浮んだ音楽を正確に表現しようとして
レコーディング・アーティストに
縛られざるを得なかったのではないか
録音中にグールドが口ずさむ歌声も
心の中に到来した音楽を表現する
現われだったのではないか
という考察でした。

これはすごく納得できるというか
文章の場合でも
心の中に浮んだことを
文章にした途端に
正確さが失われ
いいたいことを正確に表現できず
誤読される余地を残してしまう
ということがあるので
まあ、レベルは違うかもしれませんが
実感として
よく分かるという気がしました。

多くの作曲家は
音楽的霊感を
音符を使って楽譜に投影する
と、目されているわけですが
楽譜による表現には限界があるので
音楽的霊感をそのまま写すのは
無理がある
ということと
楽譜通りに弾くという
純正主義・直解主義との
矛盾葛藤対立の中から
グールドの様々な演奏や奇行を
意味づけていくあたり
なるほど、と膝を打つ感じでした。


『青柳瑞穂の生涯』の感想でも
ちょっと書きましたが
やっぱり
ピアニストがおかれている現状への
問題意識があると
読ませますね。

グールドの演奏
特に、モーツァルトや
ベートーヴェンのそれを
聴いたことがないと
同時代におけるグールドの異端ぶりが
ピンと来ないかもしれませんけど
『ボクたちクラシックつながり』を
面白いと思った人なら
読んでみてもいいかもしれません。


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