
(1952/中川美帆子訳、論創社、2015.10.10)
昨年出た
『悪意の糸』(1950)に引き続き
今まで未訳だったミラー作品が
また刊行されました。
今回訳されたのは
かつて江戸川乱歩が紹介した際
「瞬時に消ゆ」という
仮題を付けていたものです。
もっとも乱歩は
この作品が好みに合わなかったらしく
『海外探偵小説作家と作品』の
ミラーの項目(『鉄の門』の解説)で
「普通の文体の『成り行き』探偵」もので
探偵小説ではなく
「成り行き探偵の経路に色々の人物が現われ、
生活や人間は描かれているが、
別に驚くほどの文学味にも非ず。
平々凡々のみ」
(光文社文庫版全集第30巻、pp.768-769)
と初読時のメモを引用しています。
ただ、今日の
『殺す風』(1957)や
『まるで天使のような』(1962)に触れた
読者にとっては
必ずしも乱歩の評価に
同意できないのではないでしょうか。
乱歩のいう「成り行き探偵」というのは
いってみればハードボイルド
ないしは私立探偵小説
あるいは一部の警察小説に
あてはまるスタイルの作品
というふうに考えられます。
手がかりに基づく論理的な推理によって
物語が進行していくような
いわゆる本格探偵小説ではない
といっているだけのことでして。
ミラーの場合
普通小説のような展開の背後に
巧妙なプロットが構築されており
そこから意外な結末に至るのが
読みどころ、読ませどころに
なっている場合が多いので
そのつもりで読まないと
面白さを味わうことができません。
本書『雪の墓標』もまた
起きていることは分かるのですけど
何がどういうふうに謎なのか
そもそも解かれるべき謎があるのかどうか
読んでいてはっきりしないまま
物語が進行して
ある人物とある人物が同定されたとき
驚かされるという話なのでした。
乱歩によれば原書のカバーには
Novel of Murder and Suspense
と惹句が刷られていたそうですが
単に「殺人とサスペンスの小説」であるなら
最後のドンデン返しは必要ないはずで
明らかに最後のツイストに向けて
小説が構成されている以上
これはやっぱり
ミステリと考えてもいいでしょう。
地元の建築業者がコテージで殺され
現場近くで
愛人と目される人妻が
血まみれの服を着て
酔って彷徨っているところを
見つかります。
不倫の果ての激情に基づく殺人だと
誰もが思っていたのですが
人妻は犯行を否認。
そのうちに、ある男性が
自分が殺したのだと
自首して出るのですが……。
以上はストーリーのほんのさわり
最初の100ページまでの展開です。
このあと
主人公で視点人物にあたる
弁護士のミーチャムは
最初に逮捕された人妻の
弁護人に選ばれてから
いろいろな人物に出会い
いろいろな感想を持つのですが
腑に落ちない謎があって
その謎を解こうという感じでもない。
事件はいちおう決着しているわけですからね。
ミーチャムは、ただただ
関係者たちに対する興味だけで
動いている感じです。
乱歩はそこが気に入らなかったようですが
自分はそこが面白かった。
明確な謎が提示されているわけでもないのに
ミーチャムが出会う人物たちに対する
興味や関心に惹き寄せられて
先へ先へと読み進めてしまう。
比較するのもあれですけど
分かりやすい謎とストーリーを持つ
『アンブローズ蒐集家』より
むしろリーダビリティーは
高かったくらいです。
これはちょっとびっくりでした。
最初に逮捕された人妻の母親が
実にイヤな奴で
それが結末で
どういうひどい目に遭うのか
何を思い知らされるのか
という興味もあったりして
読んでしまうようなところもありました。
もう少しミステリ読み的な視点でいうと
人妻は真犯人ではないだろうけど
自首した男が犯人だとしたら単純すぎるから
男もまた犯人ではあるまい
だったらやっぱり人妻が犯人なのだろうか
と考えながら読むことになります。
そういう漠然とした疑いを
読み手の意識に潜ませるようにし
一種の宙ぶらりんな状態に置いて
話が進んでいくわけで
それがリーダビリティーの高さに
つながっているのではないか
とも思ってみたり。
原題の Vanish in an Instant というのは
イェーツの詩の一節から取られたというか
その言い回しを借りたものです。
解説に書いてありましたが
イェーツの詩では
on the instant となっているらしい。
前置詞や冠詞が変わると
ニュアンスが変わるのかどうか
よく分かりません。
ある登場人物が
イェーツの詩を引用する場面(p.136)を読むと
憂き世から瞬く間に消えること
いいかえれば
苦しまずに死ぬこと
それを望む
というようなニュアンスも
感じられました。
何度も繰り返すようで恐縮ですが
ミステリとしての
謎やプロットやストーリーを
前面に押し出した書き方ではないので
分かりやすいスタイルを好む方には
おススメできません。
どんでん返しのある普通小説は
嫌いではないという方になら
断然、おススメできる一冊です。
