『血の探求』
(2012/辻早苗訳、東京創元社、2014.1.10)

東京創元社、46判ソフトカバー
読破シリーズは続く(苦笑)

今回は1冊本ですが
開いてびっくり、2段組みでした。

2段組み、嫌いじゃないんですけどね。

2段組みで約380ページ。
計算してみたら
400字詰め換算で約1100枚でした。

これって2冊本に相当しません?(汗


それはともかく
本書は今年の1月に出た本ですが
ずーっと気になってました。

だって挟み込みのフライヤーにあたる
「新刊案内」での紹介文は
以下のようなものでしたから。

「アイデンティティを追い求める“患者”と
 “精神分析医”の話を盗み聞きする、
 大学教授の“私”。
 本文の大部分が盗み聞きで構成された、
 予測不可能かつ異様な傑作ミステリー」


読む前のイメージは
江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」とか
「人間椅子」みたいな
日常を背景とした
“隠れ蓑願望”系のミステリ
だとばかり思ってたのですが
読んでみてびっくり
歴史上の大事件が絡むお話でした。

以下、ストーリーに
ちょっとだけふれますが
ネタ割りだと思う方もいるかと思います。

まっさらな状態で読みたい方は
ご注意ください。




たとえば、先に紹介した
『ハリー・クバート事件』なんかは
作者がエンターテインメントを、
ひたすら面白い話を目ざして
書いたもののようですが
本書『血の探求』は
面白い話を目ざした
エンターテインメントというより
一般文芸、いわゆる純文学に近いです。

作品の設定年代は
第四次中東戦争後にして
ベトナム戦争末期の
1974~75年。

ベースとなる舞台は
サンフランシスコですが
“患者”が産みの母親に会うために
イスラエルのテルアヴィヴに向かいます。

“患者”は自分が養子であることを知り
実の両親が誰かということに
悩んでいるわけですが
それを盗み聞きしていた大学教授は
自ら調査を重ねて
(本書の第2部でそれが描かれます。
 ここは調査小説としてのミステリっぽい)
“患者”を実の母親へと導いていき
“患者”の出自が明らかになっていくわけです。


先に、歴史上の大事件と書きましたが
それはユダヤ人に対するホロコースト、
ヘブライ語でいうところのショアーでして
アイデンティティを追い求める“患者”の探求は
ナチスによるホロコーストにまで
遡っていくことになります。

もっとも、読み手には
何となく想像がつくというか
“患者”の出自をめぐって
大どんでん返しがある
という体の物語ではありません。

ただ、100章以上にも及ぶ
短章を積み重ねた物語を読み進めるうちに
“患者”の産みの母親の物語がはらむ
様々な問題に向き合わざるを得なくなる。

それに向き合い、
想像力を駆使できるかどうかで
作品の印象は変わってくるでしょう。


今でも、ガザ地区で
紛争が続いていますけど
それを視野に入れると
“患者”の産みの母親の選択について
いろいろと考えさせられると思います。

個人的には、産みの母親の選択は
納得できるものでしたが
“患者”はあくまでも母親に捨てられた
拒絶されたと考えて
産みの母親に詰め寄ります。

これは
アイデンティティに対する感覚や
家族とのつながりに対する感覚が
アメリカ人と日本人とで
異なるからなんでしょうか。

それとも自分の感覚が
ズレているからなのか……


ある意味では、この作品は
8月15日に読み終えたかった
と思ったりもしました。

2012年になっても
ナチスのユダヤ人に対する戦争犯罪が
小説の題材になることは
まあ、ありうることですが
本作品を読んでて自分は
内田樹の以下の言葉を思い出しました。

「国民国家の政策判断ミスがもたらす損害は
 無限責任であり、
 どこにも外部化することが許されない」
「戦争責任が本質的に無限責任」であり
「相手国民が『もういい、忘れよう』と
 言い出すまで終わらない」
(『憲法の「空語」を充たすために』pp.58-59)

『憲法の「空語」を充たすために』
(かもがわ出版、2014.8.15)

戦争の悲劇を語り継ぐというのは
上に引いた「無限責任」ということとも
関連してくるように思います。


ドイツ国民の中には
内田樹のいう「無限責任」の負債を
引き受けている人たちもいることは
たとえば、
フォルディナント・フォン・シーラッハの
某作品などを読むと
実感されます。

ネタバレになるので
あえて作品名は伏せておきますが
シーラッハのその作品は
個人的には、
ミステリとして出来がいいとは
思いませんでしたが
新世代が負債を意識していることを
よく示しているように
思われました。


『血の探求』は
アメリカ人(たぶん)の作者が
書いたものですが
だからでしょうか
ナチスを、ヒットラーだけを
一方的に指弾する話には
なっていない。

特定の誰かが悪くて
それに責任を押しつけてお終い
という話に
なっていないわけです。

だからといって
これまで悪とされてきたものが
免罪されるわけではありません、
もちろん。

そういう宙ぶらりんさに
付いていけるかどうかが
本作品を鑑賞できるかどうかの
分かれ目でもあると思います。


そして、これは
読みようによっては
日本人の歴史認識や
戦争責任問題についても
改めて考えさせる契機をはらんだ
作品になっていると思います。

その根拠は
上に引いた内田樹の言葉に
尽きています。


『ハリー・クバート事件』のような
エンターテインメントではありませんので
プロットは単純ですけど
決して読みやすくは書かれていません。

視点人物である大学教授が
何やら精神的な疾患を抱えていて
問題を起こして大学を休職中
(問題自体は最後まではっきりしません)
という設定なので
妙な幻覚にとらわれたり
サンフランシスコの街を彷徨して
ゲイ・コミュニティに
迷いこんだりする章もあり
それがストーリーの単線的な進行を妨げ
読みにくさを
助長しているようなところもあります。

ラストも
読み手を突き放すような
終わり方をします。

ですから
これから読もうという方は
心してお読みください。


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