東求女塚古墳3(神戸市東灘区)2024年6月7日
先程帰ってきました。今日も激アツの中、近江の古墳を廻りましたが、最後の皇子山は地獄の急登。苦行そのものでした。
さて、阪神本線住吉駅から五分も東へ歩くと東求女塚古墳です。
元は前方後円墳だったが、明治時代に明治時代に阪神電車敷設の土取りで取り壊され、現在は碑が残っているのみです。後円部だけが公園として残るものの、古墳の面影はほとんどない。
墳頂部は削平され、埋葬部も消え去り、巨石を積み重ねた構造物に建てられた石碑が埋葬施設の名残なのか。あとは少数の出土品が伝わるだけです。
東求女塚古墳は、御影塚町の処女塚古墳、灘区都通の西求女塚古墳とともに、「葦屋の菟名負処女(うなひおとめ)」をめぐる悲恋伝説ゆかりの塚として古くから有名です。伝説では、菟名負処女をめぐって争った信太壮士(しのだおとこ)の墓だといわれていますが実際はこのあたりを支配した豪族の墓であろうと考えられます。
現在、墳丘の一部は公園の中に残っていますが、墳丘のほとんどは、土取りによってなくなってしまいました。昭和57年、遊喜幼稚園の園舎改装工事に伴って行われた発掘調査では、前方部の墳丘の裾部と周濠が発見されました。また、公園整備に伴う調査で後円部の裾部も残っていることがわかりました。
これらの調査結果から、前方部を北西に向けた全長約80mの前方後円墳で、墳丘の斜面には石が葺かれていたとわかりました。
東求女塚古墳から出土した遺物は、銅鏡、車輪石、剣、玉などで、明治時代の壁土取りの際発見されました。これらの遺物は現在、東京国立博物館に保管されています。
この古墳の造られた年代は出土した遺物から、4世紀後半と考えられます。前方部には幼稚園がある。幼い子らの歓声を聞きながら、墓の主は苦笑いしているかもしれません。