処女塚古墳3(神戸市東灘区)2024年6月7日
処女塚の東側入口には二本の石碑が建ちて、左手に田辺福麻呂の歌碑「古の小竹田壮士の妻問ひし菟原処女の奥つ城ぞこれ」があります。
まず、田辺福麻呂(生没年不明・奈良時代)は、処女塚古墳を訪れ菟原処女と2人の男性に思いを寄せる歌を『万葉集』に残しました。
奈良時代には、すでに菟原処女(うないのおとめ)伝説が、この地域で伝承されていたことがわかります。
中世から近世の文学作品に登場する菟原処女の伝説では、菟原の処女は「津の国の生田の川」で入水自殺(『大和物語』謡曲求塚)を図るのだが、『万葉集』には海で入水自殺をしたととれる表現あり生田川は全く登場しません。
それに伝説の舞台は葦屋・あしのや(現在の東灘区から芦屋市)となっています。つまり「生田川」は、後付けの設定だったのです。
平安時代に編纂された『大和物語』では菟原処女伝説は、なぜか「生田川」というタイトルで発表されややこしい。
これには諸説があり、たとえば「葦屋」を「ふきや」と読み誤り「葺屋」地域にあった生田川を舞台にしたのでは、という説がありますが、現在の中央区東部を「葺屋荘(ふきやのしょう)」とよんだのは鎌倉時代以降なので、説としては弱いのかもしれません。
また、菟原処女の死を劇的に描くため「生きる」の文字が入った「生田川」で自殺させる設定を生み出したのでは…という説もあるが、今となっては確かめようがない「謎」です。
しかし『大和物語』以降、菟原処女伝説は能の『求塚』や森鴎外の戯曲『生田川』などで、悲恋伝説の舞台は生田川に固定化されてしまいました。