西求女塚古墳5(神戸市灘区)2024年6月7日
前方部から一段小高い北西の木立に中に芝の広場が見え、これが西求女塚古墳の後方部と思われます。
そこは平面ではなく、わずかに盛り上がりのある方形というよりもむしろ円形に近く、後方墳ならば改変されたにちがいない。
ご当地には、やや込み入った昔話が伝わっています。
「むかあしむかしのことや。このへんには、うないおとめというどえらいべっぴんの娘が住んどったそうやで。この娘を一目みようとぎょうさん男が来よって、いいよる男があとをたたへんかった。 そのなかに。うないおとことと、ちぬおとこという二人のええ男がおってのお、二人はえろう競うたがなかなか決着がつかへんのや。娘は自分のことで二人の男が争うのに悲しんで、とうとう海に身を投げて命を絶ってしもうた。
これを知った二人の男も娘の後をおって海に飛び込みよった。
残った親類縁者はえろう悲しんでのお、二人を不憫に思うて真ん中に娘の墓を作り、両側に男の墓を作ってやったんやで。」
万葉集をはじめ、大和物語や 観阿弥作の謡曲「求塚」などで語り継がれているこの悲恋伝説。その舞台のひとつとして西求女塚古墳は処女塚古墳や東求女塚古墳とともに古くから知られていました。
これら三古墳は海に近い街道沿いに位置し、往の人々のなかには古墳を前に袖を濡らす者もあったのであろうか。
西求女塚古墳は、旧海岸線から200mの西郷川によって形成された扇状地の末端に位置する前方部を東に向けた前方後方墳です。
当古墳の周辺は早くから市街化され、明治の頃には個人の所有地となって別荘が造られ池庭など豪奢な造作がなされていたらしい。
その後戦災に遇い、戦後は荒れ果てていたが、1964年に公園と
して整備され、「求女塚西公園」として市民の憩いの場として利用された。
このように、度重なる改変によってこの古墳は相当に破壊されているものと考えられてきました。