古墳巡礼・近畿編 139 摂津巡礼30 | ロック古典主義

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 西求女塚古墳4(神戸市灘区)2024年6月7日 

 前方部と思われる明るい広場の傍らに立つ灘区役所による案内板には万葉集からの「菟原処女の伝説」を引用しています。 

 この悲恋伝説のあらすじは、当時の難波の先の湾の湿地帯に茂る葦を部材として屋根を葺いた家々のあったことに由来する「葦屋(あしのや)」の地に菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、多くの若者から思いを寄せられていた。 
神戸伝説の地巡り 菟原処女の伝説(処女塚古墳) | こべふり
 中でも同じ里の菟原壮士(うないおとこ)と、和泉国から来た

茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の立派な男性が彼女を深く愛し妻に迎えたいと激しく争うようになった。娘はこれを嘆き悲しみ「卑しい私のために立派な男たちが争うのを見ると、生きていてもとても結婚などできましょうか、黄泉で待ちます。」と母に語ると自ら命を絶ってしまった。茅渟壮士はその夜、彼女を夢に見て彼女が愛していたのは自分だと知り、後を追った。 
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 菟原壮士も負けるものかと小太刀をとって後を追った。親族たちは集まって、このことを長く語り継ごうと娘の墓を中央に男の墓を両側に作ったという。  
詮索する人10の特徴を含めて詳細解説! | ピゴシャチ
 この悲恋話から「せいさくのせんさく」すると、娘の墓が処女塚古墳とみられ、西求女塚古墳は同郷の菟原壮士の墓と思われます。 
邪馬台国はどこか? 畿内説と九州説の検証「発見のカギは伊都国と出雲」
 もっとも、古墳の築盛時期は古墳時代初頭の3世紀後半といわれ、邪馬台国時代にあたり、被葬者は地域政権の有力者とみられます。