原間古墳5(東かがわ市川東) 2024年4月17日
原間遺跡には弥生時代後期からさまざまな遺跡が営まれています
が、今回お邪魔した原間1号墳が出現するのは一番最後です。
古墳時代後期に入ると原間には古墳、集落ともに見られなくなり
再び古墳が造られるのは古墳時代後期の後半です。それが原間1号2号墳です。
集落は原間遺跡で奈良時代の前半まで見られますが、後半になるとなくなり、原間遺跡で集落が見られなくなるころに出現するのが南海道沿いにある坪井遺跡です。このような現象について、古代の幹線道路が樋端−原間ルートから南海道の方に移ったという意見が
あります。
つまり、南海道は淡路から撫養に渡り、大坂峠から讃岐に抜ける経路から吉野川を溯り伊予に至るルートに移ったという見方です。
険しい峠越えよりは大河を遡る方が楽だということか。
これからの季節は女の子が付いてるこの一台が嬉しい。
そんな原間地区の歴史は近年の発掘調査によって少しずつ明らかになっています。まず弥生時代のお墓がたくさん見つかったこと。
次に朝鮮半島との関係が想像される古墳が発見されたこと。そして
古墳に眠る人物の本拠と思われる集落が見つかったことです。
また、古墳時代後期前半は今のところ遺跡は見つかっておらず、
奈良時代後半以降は遺跡が消えてしまいます。
実は近くに発見されていない遺跡があるのではないのか。あるいは人の動きに変化があるのではないのか。などあれこれと勘ぐりを巡らせてしまいます。
しかしながら、こうした原間遺跡もほとんどが四国横断自動車道
や砕土開発によって消滅しており、ただ一つ残されているのが原間
1号墳だけになったようです。2号さん以下は切り捨てたのか。
今となっては1号墳ではなく原間古墳そのものであり、後世へのレガシーとして受継いでいってほしいと願うばかりです。