摂津巡礼17(伊丹市御願塚)2024年4月25日
御願塚の墳頂は径10mあまりの平坦地で、柏木古墳よりも標高は高く後円部の墳頂を削って南之神社が建立されています。
本殿は木造の履屋の中にあり、須佐男神社本殿と同じ隅木を入れない一間社の春日造り。開祖は行基とされ、伊丹の昆陽池(こやいけ)の造営を指導した際、当地で開耕の完遂を祈願したとされる。
御願塚村では長らく孝徳天皇の御陵墓であると信じられていた。
延宝9年(1681年)創建とされる南之神社では孝徳天皇を祭神としていて、1875年(明治8)に村民が政府の許可を得て古墳を発掘した際、石組を発見した。が、作業の中断を命じられたため被葬者に関する詳細は判明しなかった。
後年の調査で陵墓とする説はほぼ否定されており、現在では地域の豪族を被葬者とする説が有力になっていて、猪名部(いなべ)と呼ばれる渡来人の首長の墓ではないかと考えられています。
猪名部とは新羅の木工技術集団で職業部(品部)として、猪名川下流域に居従した。『日本書紀』巻第十に、応神天皇の時の官船に「枯野」のエピソードがあり、始祖にまつわる話を載せている。
後世の猪名部百世(いなべの ももよ、生没年不詳)は造東大寺司の工人で東大寺大仏造立に従事する。767年(神護景雲元年)称徳天皇の東大寺行幸に際して、同寺造営の功労者として国中連公麻呂らとともに昇叙され、造寺工(てらつくりのたくみ)正六位上猪名部百世(ゐなべ の ももよ)に外従五位下とあります。
猪名部は物部氏とも繋がるとする見解もあり、これだけの墳墓を残す氏族ならばヤマト政権の中枢を担っていたと詮索します。