百舌鳥古墳群21(大阪府堺市)2024年1月19日
仁徳天皇の崩御を受けて即位されたのは履中天皇です。
しかし、履中天皇は治世6年で崩御されてしまいます。
履中天皇紀には無事績年(事績や出来事の記されない年)がない
ので、原日本紀年表でも6年の治世を経て、456年に崩御されたことになります。
次いで同母弟の反正天皇(はんぜいてんのう)が即位されます。
しかし、反正天皇も治世5年で崩御されます。反正天皇紀でも事績
の記されるのは元年と5年のみなので、紀年表では457年に即位
され翌年の458年に崩御されたことになります。
この二人の天皇の御陵について、日本書紀は履中天皇を「百舌鳥
耳原陵(もずみみのはらのみささぎ)」に葬り、反正天皇も「耳原
陵(みみのはらのみささぎ)」に葬ったと記しています。
古墳の被葬者については、宮内庁が治定している主な古墳32基
のうち、被葬者が確実だと考えられているのは、7基のみだという
ことです。なるほど宮内庁の陵墓参考地が多いわけです。
ところで、古墳は9割以上が盗掘にあっていると言われます。
しかし、そのおかげで古墳内部の様子が知ることができたり、
盗みだした品々から様々な情報が得られた。それで被葬者が確定
した古墳もあるのです。
明治13年のこと、京都高山寺から『阿不幾乃山陵記(おうぎの
さんりょうき)』という古文書の写本が発見されて解読されます。
これは文暦2年(1235)の「野口の王墓盗掘事件」にて当時
の警視庁である検非違使が盗掘犯を捕らえて、取調べした供述調書であり、現場検証の記録です。
それまでかなり混乱していて野口の王墓は文武(もんむ)天皇陵だとされていましたが、この発見によって間違いなく(天武持統)合葬陵だということが判明したのです。
やはり明治政府の陵墓治定はかなり粗製濫造であったといわざるを得ない。短日で体裁を取り繕うのは無理がありますね。