百舌鳥古墳群14(大阪府堺市)2024年1月19日
上石津ミサンザイ古墳の名前は「カミイシヅのミササギ(陵)」が訛って変化したようです。
ミサンザイ古墳のほかにもニサンザイ古墳と呼ばれるのは、一部
の古墳に用いられる名称で、「ミサンザイ」は貴人の墓を意味する
「みささぎ(陵)」の転訛といわれている。
近くには土師ニサンザイ古墳 宮内庁治定「東百舌鳥陵墓参考地」
古市には岡ミサンザイ古墳 宮内庁治定「仲哀天皇 恵我長野西陵」
などがあります。
上石津ミサンザイは古宮内庁により、履中天皇の陵墓に比定され
墳丘、濠、堤は宮内庁が管理している。墳丘は3段筑成で、墳丘長は
365m、後円部直径205m、高さ27.6m、前方部幅 235m、高さは
25.3mで、墳丘長が大仙陵古墳、誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳
・大阪府羽曳野市)に次ぐ全国第3位の規模を誇る巨大古墳です。
一方、宮内庁による大山陵古墳の正式名称は「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵(みみはらのなかのみささぎ)」。「延喜式」に記された陵墓一覧に基づきます。
明治以降、政府は天皇家の「万世一系」を体現すべく陵墓を整え
聖域化を進めた。どの古墳に誰が眠るのか根拠としたのが、延喜式や古事記、日本書紀などだった。
誰が被葬者なのか議論は当時もあったようです。天武・持統天皇陵の場合、一旦は別の古墳に定めていたが盗掘時の石室内の状況を記録した古文書が見つかり、奈良県明日香村にある野口王墓古墳へと修正されました。
反対に根拠がない例もあります。応神天皇の皇后、仲姫命(なかつひめのみこと)は古代の文献に墓所の記録がない。名前と地名が一致するなどの理由で仲姫命陵とされたのが、古市古墳群の仲津山古墳とされたようです。
戦前は歴史の真正性より神話や物語が優先され、歴史学や考古学の戦後改革の焦点は史実と神話を腑分けすることだったとされる。
墳形や円筒埴輪などの分析で築造年代が推定されるようになると
各地で陵墓の被葬者への疑義が相次いだ。
百舌鳥古墳群では、仁徳天皇の陵とされる大仙陵古墳から新しい技法による円筒埴輪が出土。だが、跡を継いだ履中天皇が葬られたはずの上石津ミサンザイ古墳では古い型式の円筒埴輪が見つかり、築造順と親子関係が矛盾する事態となった。
なので被葬者を学術的に論じる際には、特定の被葬者名を付けず
遺跡名で呼ぶことが定着し、教科書などでも陵墓名と遺跡名を併記
するスタイルが一般的になっています。