古墳巡礼・近畿編 77 百舌鳥古墳群7 | ロック古典主義

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 百舌鳥古墳群7(大阪府堺市)2024年1月19日 

 

 ビジターセンター裏の歩道が沿っているのは三重目の周濠らしく 

遥拝所の奥に見えるは二重目の周濠であり、その奥に巨大なお濠が 

巡らされているようです。 

 古墳最大長840mともなると遥拝所前からどれだけのものも見え 

ません。現在墳丘は三重の周濠で囲まれているようだが、江戸時代の元禄年間に当時の堺奉行所の指示で最外部の濠は一部を除いては畑地に開墾され、ほぼ二重濠のような見かけになっていたらしい。  古今東西、古墳改変は日常茶飯なれど「仁徳よお前もか」です。 

江戸時代の絵図『舳松領絵図 上』に三重目の濠の南西角周辺が残存 

した姿が描かれており、また残存部以外でも農地の地割に濠の痕跡 

が認められるため、濠は元々三重であったと考えられている。

 明治御維新までは古墳についての認識が乏しく、これほどの遺跡 

が後円部墳頂などを除き、自由に出入りすることが可能であったと 

いうから大らかですな。また、古墳所在地である大鳥郡舳松村と隣宝暦10年8月和泉国大鳥郡中筋村連署起請文を読む 大仙陵分水一件 - 日本中近世史史料講読で可をとろうの中筋村では大仙陵池から耕地へ灌漑用水を引いていたからには、お濠を埋めて田畑に改変するのもありなのか。ちなみに秀吉は古墳で狩をしていたと伝えられます。  現在の三重目の濠は埋没部分を1896年(明治29年)に掘り直し復元されたものですが、明治政府により行われた再掘削工事で濠が築造時通りに復元されたかは疑問が呈されています。 

 明治政府が史実よりも国体重視したのは自明としても、現代知見でも解明されないのも如何なものでしょうか。 円筒埴輪列、石敷きを確認 仁徳天皇陵、宮内庁・堺市が初の共同調査 - 読んで見フォト - 産経フォト

 周濠は内側から第1堤、第2堤と呼ばれており、2021年には第1堤

の幅約2mの上端両側に直径30~35㎝の円筒埴輪を繋げて並べた列が発見され、この2列が第1堤を1周していたと推定されたという。C0081454 笠 - 東京国立博物館 画像検索

 また、貴人のかぶる笠を模した木製品を立てた跡らしきものも発見されたことから、5世紀前半から中頃の築造と見られています。