四ツ手山古墳2(四国中央市下柏町)2023年6月16日
四ツ手山の丘陵尾根からは、古墳を認知できるような手掛かりは残念ながら何も見つけることはできません。
ただ漠然とあの辺に墳丘があったのではないのかと想像するだけで、埋文調査の報告書から推察するしかありません。
本古墳は経ヶ岡古墳から北東にのびる稜線の中間部分に位置しており、発掘時には畑に開墾されていた。本古墳は耕作により、北側と西側を削りとられて、東側にも農道があるなど古墳築造時の姿が不明瞭となっていたもので、視覚的には段畑によって方形となっていたとされる。
古墳主体の規模形態には特筆されるものはないものの、出土物には他には見られない珍宝が副葬されていたとされています。
旦那さんが奥さんにやって欲しいのはなーんだ?
石室内からは、鉄器の他に鈴鏡の破片、小札甲(こざねよろい)片馬具、鉄製武器などが、また墳丘内からも鹿や鶏をかたどった県内でも数少ない形象埴輪(けいしょうはにわ)が出土している。
これらの出土遺物には明確に築造時期が判断できる資料が少なく、
これまで6世紀代という幅広い年代が想定されていました。
当時の中央政権を介して、当地域の首長が手に入れたものであると考えられ、水晶を主体とした玉類の副葬は珍しい事例とされる。
また、周辺にある東宮山古墳などと比較すると、石室の形態が古く、6世紀前半にさかのぼることが明らかになった。
小札甲や形象埴輪の年代比定とも一致しており、この地域でいち早く造営された首長墓である可能性が浮かび上がってきています。
四ツ手山の丘陵尾根からは古墳の痕跡はみえないものの、松山道関連遺跡の中でも出土物の豪華さは秀逸です。
その珍宝の中でも水晶製の玉類に刮目される。玉類研究の結果に
より、これらの水晶製の玉類は、日本海側の出雲で製作されたものとされている。
瀬戸内のど真ん中、燧灘の沿岸地域で玉王国出雲と交接していた四ツ手山の主は相当なヤリ手だったはずです。