佐紀古墳群15 (奈良市山陵町)2023年11月9日
佐紀石塚山古墳は成務天皇陵に比定されていますが、五社神古墳
(神功陵)が成務陵とされていた時期もあったようです。
幕末まで神功皇后陵とされていたが、明治初めに垂仁天皇の皇后
日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)陵に治定替えされ現在に至って
いるが、実際の被葬者は明らかではない 。
大正初期の1916年この古墳の盗掘事件が起きた。数人が現行犯
で逮捕されたことをきっかけに、各地方の古墳を荒らし回っていた盗掘団の存在が明るみとなり、大量の盗掘品が警察に押収された。
当時の宮内省はただちに乱掘によって荒らされた古墳の復旧工事を実施している。その際、回収された副葬品等は写真や拓本などの記録をとり、寒天で型取りして石こうを流し込んだ模造品作成した上で、石室に戻されたらしい。
この時の復旧工事記録は大部分が関東大震災で焼失してしまったが、幸いにも梅原末治博士の手元にその写しが保管されていた。
この資料は、宮内庁によって陵墓に治定され、内部をうかがい知ることのできない巨大古墳の実態を知る上で、きわめて貴重なものとなっているそうです。
当時の工事記録によりますと、後円部墳頂には円筒埴輪列を巡らせた方形の壇があり、その内部に竪穴式石室がある。竪穴式石室は内法のさ8.55m、1.09mの大規模なものだとされる。
石室の両側壁は板石を小口積みにする特有のものだが、両小口の壁は大きな一枚の板石を立てている。板石は高さ、幅ともに2m、厚さは30㎝ほどに切りそろえて、中央部やや上に四角い孔を上下に2個並べてあけているらしい。
天井石は5枚からなり、これらもきれいに切りそろえた切石で、石室の天井面となる下面には一枚ごとに深さ5㎝ほどの内刳(ぐ)りを施し、両側面には縄掛突起をつくり出しているそうです。
さらに、これらの構造全体が、大きな切石の底石の上に構築されているとのことです。
このほか、石室には他の前期古墳にはみられない様々な付属施設があり、全体としてきわめて複雑な構造になっている。
前期末葉の巨大古墳にはこうした類例のない内部構造が事実存在するのでしょうか。