「マッカーサーの二千日」のような読み応えある書を読んだ後は、軽めの読み物で凝った脳をほぐす必要がある。
と言うことで、今回選んだのは「ふしぎな君が代」(辻田真佐憲著 幻冬舎新書)である。
本書は序章を含め7つの章で構成されている。
序章 「君が代」の何が問題なのか
第1章 なぜこの歌詞が選ばれたのか
第2章 誰が「君が代」を作曲したのか
第3章 いつ「君が代」は国歌となったのか
第4章 「君が代」はいかにして普及したのか
第5章 どのように「君が代」は戦争を生き延びたのか
第6章 なぜ「君が代」はいまだに論争の的となるのか
つい最近柔道世界選手権があり、金メダルの日本選手の表彰式で日の丸と共に君が代が流れていた。君が代も、聞く度にこそばゆいと感じるのは私だけだろうか?
しかし私達は君が代について殆ど何も知らない。作詞者は不詳でいつ頃作られたものかも分からない。
作曲者も一応、宮中雅楽の大家である林広守となっているが、実際は雇われ外国人音楽家エッケルトや奥好義の手になるものとは知らなかった。
何と言っても驚いたのは、外国からの賓客の接遇に国家(のようなもの)が必要となり、殆ど遣っ付けで「君が代」の原型が作られ、特段のセレモニーもなく、なし崩し的に国歌となっていったことだ。
しかも明治時代からあまり高い評価はされず、文部省や陸軍などは別の曲を国歌にしようとしていた。
戦時中も、メロディの緩慢さから戦意高揚に逆効果として、快活な愛国行進曲を第二国歌として取扱ったり。
戦後になったら、日教組をはじめ左翼や労働団体を中心に「君が代=軍国主義のシンボル」として排除し新しい国歌を作ろうとしたり。
これほど長年に亘り迫害されて来た国歌は他の国にはないだろう。
逆に言えばそれら逆風を跳ね返して生き延びて来た、君が代の神秘的な力は驚異的である。
皆特に好きと言う訳ではない。しかし他に相応しいものもないし、どうしても嫌でもない。何か改まって考えるのもこそばゆいが、どこか懐かしい。
まるで両親や祖父母か故郷のようなものではないか。やはり君が代は私達の国歌として根付いているようだ。
余談だが、私の所属する会社は合併会社なので、社員の融合促進のため、公募で社歌を制定した。制定当時は散々聴かされた(歌わされた)が、3年も経つと殆どの社員はその存在を忘れた。
制定者の意図が透けて見えるような人為的な歌は定着しないと言うことだろう。その点君が代には「何となく昔からある歌で、押し付け感のないところ」が定着の秘密なのかも知れない。
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