(再録)網膜剥離 | 野球少年のひとりごと

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本のことを中心に、関西学生野球や高校野球のことをつぶやいています。
また、父・洋画家「仲村一男」の作品を毎日紹介しています。

(再録・2006.9.4既出)

会社を休み、網膜剥離の術後2ヵ年検診で市民病院へゆく。ちょうど2年前のダンジリ試験曳きで走った翌日に右眼の具合が悪くなり、町内の眼医者に掛かったら顔色を変えてすぐに市民病院の眼科部長に電話をしてくれ、入院と緊急手術の手配をしてくれる。帰宅後すぐに入院の仕度をし、タクシーで女房と市民病院までゆくと、すぐに検査をしてくれてそれから後は院内の歩行も駄目とのことで車椅子に乗せられて病室まで移動の羽目に。とにかく体の上下運動がいけないらしく、昨日祭で散々走った話をしたらそのことで網膜の破れが激しくなって、いまは辛うじて繋がっているような状態とのこと。ただ部長先生(おそらく40台前半だと思うが、若侍のようなきりりとした先生で手術そして入院中も感心させられることばかりだった)が、大丈夫手術は成功させるから安心してくださいと告げられる。とりあえず同様に網膜剥離がみられた左目をレーザーでパッキング(と言ったように思うのだが)してくれる。それと右目の手術をするわけであるが、網膜剥離の手術をすると遅かれ早かれ必ず白内障になるので眼内レンズを入れることになる。度数をどのようにも出来るとのことで、いちばんよく見える1.5にしますかとの質問に、仮に片方が1.5になったとして手術をしない左目はどうなるのかと聞いたら、コンタクトレンズを入れることになりますとのことで。いまさらコンタクトレンズもなあ、と言うのが正直なところで、右目はいまの近視の度数にとどめておいて貰うことにした。退院後、娘に1.5にしといたらよかったのに、と言われてそうだったかなあと、少しだけ後悔することになるが。

 

で、手術。眼を開いてたままでする手術だからすべてが一応見える。もっとも抽象模様が眼の中に広がるだけだが。そして術中に「血が沢山出るなあ」とか、レーザー・メスの調子がよくなくて急遽新しいものを持ってこさせたりのアクシデントがあり、その一部始終が耳に入ってくる。とても楽しい経験であった。3週間の入院中に、毎日ほどその眼科部長の検診があったが、とにかく手早くそしてたった一言「大変、順調です」。それと、看護師さんの時代なんだろうけれど、やっぱり男には看護婦さんがいいのだなあ)の笑顔にはずいぶん救われる。毎朝の検温時に、「異常はありませんか?」と聞かれて毎日「眼以外は全く異常ありません」と答えて、そして毎回微笑んでくれる。手術翌日から目薬をさすときに眼帯を外すので、病室の見える範囲を確かめるが、最初は病室の端に置かれた台上のテレビのしかも上部しか見えなかったものが、毎日少しずつ見える範囲が広くなってきて、1週間目くらいには50%くらいが、そして2週間目には70%ほどが見えるようになり、退院直前にはほぼすべてが見えるようになるという素敵な経験もできた。(見えない部分はちょうど暗幕が掛かっているようだ)そして、入院患者がいちばん嫌がる(それだけしんどいのでしょう)うつ伏せ療法もそうは苦痛にならなかった(これは看護婦さんが驚いていた)。病院食もきっちり食べて、時々は女房差し入れのカツサンドや果物を内緒で食したり、とにかく独身のときから新入社員で研修中に1ヶ月新所沢の独身寮に入った以外は一人暮らしをしたことがなく、最高に充実した3週間余りであった。

 

それにしてもどの看護婦さんも素晴らしく、たえず息子の女房に(自身のと思わないところが歳をとった証拠)どうかなあと考えながら見ていたところがある。わが国もまだまだ捨てたものじゃないと考えたくらいに、岸和田市民病院の看護婦さん(もちろん男性も含めた看護師さん全員が、そして看護師長さんのてきぱきとした応対も)素晴らしかった。岸和田市民病院の建物は病院建築の何とか言う大きな賞を受賞しているようだが、多分それ以上にスタッフ(勿論、医師も)が最高によかったのである。退院後聞けば、大阪南部では特に眼科は有名らしく和歌山あたりからも来院するようである。

そして、今日の2ヵ年検診。大変に世話になった(右目を救ってくれた恩人です)眼科部長は、春に独立して岸和田市内で開業したので、別の医師による検診であるが「全く、順調ですよ」とのこと。ただ、無罪放免にはならず6ヵ月後にもう一度とのこと。眼のことであるから慎重に慎重を期しているようだ。

午後から、気持ちよく自転車で二色浜海浜公園まででかけて夏の終わりの海を見ながら感慨に耽る。お蔭で、その年の12月にあった娘の結婚式に出席して、悲しくはあったけれど花嫁姿も見ることができた。

 

 

写真は、貝塚港で撮影する。