(再録・2013.8.2既出)
昨日で読了の、安岡章太郎「文士の友情 吉行淳之介の事など」(新潮社・1900円+税)、単行本未収録のものを選び集成したものであるが、大変懐かしく感じられた。そこに登場する、吉行淳之介や遠藤周作そして阿川弘之や島尾敏雄、近藤啓太郎、庄野潤三などのいわゆる第三の新人として称された文学者たちも、阿川弘之を除き亡くなってしまったが、その肉声ともいうべきものが伝わってきて嬉しい。特に、座談会では仮に名前を伏せて行っても誰かが分かるほどそれぞれが特徴的で、おそらくそういうことが起こり得た最後の世代かも知れない。文士という呼び方のピッタリくる意味でも。それと阿川弘之のエッセイで書かれていたと思うが、作家一本で家が建った最後の小説家たちでもあるらしい。(尤も、彼らに先行する作家では家屋敷ともいうほどのものが可能であったようだ。)後続の作家を見ても、後藤明生は大学の先生を兼ね、あれ程に貴重な仕事を成したのに拘わらず阿部昭は海外旅行もままならずその住まいも質素そのものであったようだし、団地住まいを余儀なくされた作家も多かったらしい。そのようなことも含め久し振りに文学の雰囲気に親しんだ安岡の「文士の友情」であった。続けて、「天上大風」(世界文化社・2000円+税)を読み始めている。こちらも単行本未収録のエッセイを集めたものである。志賀直哉や佐藤春夫について書いたものなど、文学評論家のものとの違いを示してさすがである。それと登場する文士のいずれもが大変個性的で、文学が歴然としてある気がする。続けて、自身の来し方を語った「戦後文学放浪記」(岩波新書・660円+税)、晩年の傑作である「鏡川」(新潮文庫・460円+税)と読み進めるつもりである。読了後にあらためて
「天上大風」 虚飾を剥いでなお気高い生き方とは? 「立派な貧乏人がいなくなった」を口癖に、友は逝った。心の宝石をいっぱい残して…。 人生の価値はどこに?背筋をシャンと生きゆく“姿勢”を問うた「人間学」の名文30篇。
<主な登場人物>
・口をついてふと出た言葉を「詩」にした=佐藤春夫。
・作品には、作者も時代もいらぬ、と言った=志賀直哉。
・口許に酒が運ばれた瞬間、松籟の音が聞こえたひと=井伏鱒二。
・どんな仕事でも骨惜しみせず、手抜きしなかった=河盛好蔵。
・プロ意識を貫いた=坂口安吾。
・無垢な「田舎者」=五味康祐。
・一人で暮らしているというのに、愚痴をこぼさず、決して人を羨まなかった友人=近藤啓太郎。
・短い一言に作品の“眼目”をおいた作家=吉行淳之介。
・自前で生きなければ、本当の絵を描けないと気づいた=佐伯祐三。
・晩年は“祈り”のひと=小林秀雄。
・他民族への偏見は個人の好き嫌いとは別のものか?=S上等兵。
・優しさゆえに不幸な運命を背負わされた=ダイアナ妃。
・“こだわり”びと=内田百閒。
・真直ぐな姿勢そのものが「感動」を呼ぶ=幸田文。
「戦後文学放浪記」 瀟洒で繊細で強靭なタマシイの果てもない旅-。 「学校嫌い」だった少年時代。日ごと濃くなる戦争の影。敗戦を迎え、病床で書かれた初期の作品。芥川賞受賞前後、吉行淳之介ら「第三の新人」時代の文学者との交流。60年安保の嵐とアメリカ。そして父の死と、自らの出自をたどる旅路…。おりおりの代表作の回想をまじえながら「敗戦」をうけとめ、魂の在処を求めてきた文学的放浪を綴る。
この「断層」はわたし自身がつねに感じていたことであり、日本の社会というより自分自身の内部にも、同じような断層や空洞があって、このアナをどうやって埋めて行くかは、私にとってかなり長い間の課題になっていたものだ。自分たちが、社会のなかで断層をつくり、自身のなかには空洞をかかえているという想いは、同世代の者が一様に抱えていたものといえるだろう。(本文より)
「鏡川」 「第三の新人」の巨星 大佛次郎賞受賞 自身の母方のルーツを遡行する抒情溢れる傑作長編
私の胸中にはいくつかの川が流れている。幼き日に見た真間川、蕪村の愛した淀川、そして母の実家の前を流れる鏡川だ-。明治維新から大正、昭和初期まで逞しくも慎ましく生きた、自らの祖先。故郷・高知に息づいた人々の暮らしを追憶の筆致で描く。脱藩した母方血族、親族間の確執と恋慕、母が語ったある漢詩人の漂泊…。近代という奔流を、幼き日の情景に重ね合わせた抒情溢れる物語。
「洋画家 仲村一男」のホームページ
http://www.nakamura-kazuo.jp