第8歩 日光街道 中田宿ー古河宿・野木宿 古河公方の夢の跡 | 街道歩きや街めぐりなど歴史探索と社交ダンスを楽しむ日記

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街探索や歴史の街道を歩いたり、社交ダンスなど趣味を満喫しながら一度きりの人生を自然体で楽しみたいです

日光道中の旅から帰ってきてはや10日ほど。

天気は相変わらす晴れたり雨が降ったりで。

でも春が少しずつ深まってきています。

 

 日光道中の3回目の旅は幸手から野木まで無事いけましたが、

1日目の歩数はなんと約46000歩です!びっくり

 

1キロ1600歩くらい.。約1キロという不確かなデータを基にすると、

距離は29キロほど。

 

 歩き始める前はいつも本当に大丈夫かなと思ったりしますが

歩き出すと近所の散歩と違って、

いままで知らない街並みや自然に触れている間に、

どんどん進んでいるという感じです。

 

 さて日光道中の幸手から野木までですが、

今回はパート3です。

中田宿を過ぎて、古河宿から野木宿まで。

 

JR宇都宮線陸橋と日光道中の交差する高い陸橋をりたのが午後1時30分。

このままいけば間々田宿(江戸と日光のちょうど中間地点)まで楽勝?ですが、

今回ぜひ行ってみたいのが古河の総合公園です。

古河公方公園ともいいます。

 

 ん?古河公方って何?という方もいるかと思いますが、

それもそのはず、

そもそも関東地方の戦国動乱の歴史は

あまり学校の教科書でも取り上げられていないのです。

なので大河ドラマにもなりにくく、

上杉謙信や豊臣秀吉の小田原攻めで少しふれられる程度です。

 

 

戦国時代の関東地方とは。

 

 そこでは小田原北条氏関東管領の上杉氏(特に山内家と扇谷家の両家も対立していました)

さらに武田信玄と三つ巴の領地ぶんどり合戦が繰り広げられていたんですね。

関東三国志です。

 

その中にあって権威の象徴だったのが

足利将軍の関東支店長だった鎌倉公方様。

 

初代は室町幕府を開いた足利尊氏の息子さんで、

二代目将軍の義詮(よしあきら)の弟だった足利基氏さんです。

 

お母さん(つまり父の尊氏の妻)はなんと

鎌倉幕府で執権になった北条守時の妹、登子さん。なので、

体の半分に鎌倉幕府を支えた北条一族の血が流れています。

これなら室町幕府の関東支店、

つまり鎌倉府の長官(鎌倉公方)にぴったりです!

あらくれの鎌倉武士も従ってくれるはず。

 

 ところが幕府の4代目将軍、足利義持が死に、

幼い息子(義量)もなくなってしまい、次の将軍がいなくなってしまいました。

 

そこで、義持の弟たちの中からなんと

くじ引きで将軍になったのが6代目の将軍、足利義教様。

 

 これに納得がいかなかった4代目の鎌倉公方様になった足利持氏さん。

自分が将軍になりたい野望を持ち、新しい将軍、足利義教と戦ったのですが。

結果ついに敗れて切腹に追い込まれ、

さらに不幸は続き、

息子の春王と安王の兄弟を助けようとした北関東の結城氏朝も敗れるにいたって

鎌倉公方様は事実上滅亡してしましました。

 

しかし、起死回生!

なんと足利義教はその強引な性格が災して、

けらいの赤松満祐にだまされて暗殺されてしまうんですね。(嘉吉の乱)

 

そうした中で奇跡的に生き残った足利持氏の息子が

公方様として足利成氏(しげうじ)となりました。

成氏の成の文字は、8代将軍になった足利義政の最初の名前 

義成(よししげ)の一字を頂いたありがたい名前です。

 

彼は古河に拠点を置いて「古河公方」となります。

成氏から5代目の義氏まで続き、最期は血筋を受け継ぐのは、

義氏の男子の跡継ぎが早世してしまいます。

 

そこで家臣が選んだのは女性の氏姫(徳源院)!。

女性が跡継ぎです。

彼女が住んでいた場所で

初代成氏が最初に館を構えていたところ(鴻巣地区)が現在の

古河総合(公方)公園です。

 

前置きが長すぎてすいません。では旅を続けましょう!

 

さて陸橋を降りて気持ちの良い広い歩道!

道のど真ん中を通ります。いいですね!

途中で見つけたなにげない空き地に咲く見事な白梅。

満開です。

有名な観光地でなくてもいいんです。

美しいものは美しい。

これも旅の醍醐味の一つですね。照れ

しばらくいき、国道354との交差点を左に曲がり、

日光道中の街道から古河総合公園へ。向かいます

国道354をそのまま新三国橋方面へ進み

、ガソリンスタンドの所で左に曲がり、そのまま直進します。

突き当たりが古河総合公園の北からの入り口です。

道なりに行くと古河の誇る桃の木々が見えてきます。

なんと園内には5種類、1500本の桃の木が!

 

古河藩主(前佐倉藩主)で江戸時代初めの頃に大老にもなった

土井利勝が燃料になる薪不足を解消するため、

種を集めて植えさせたことを契機として

古河と言えば桃の花といわれるようになったとか。

 

3月下旬から4月の初めまであでやかなピンク色になるそうな。

もちろん今日はつぼみだけ。

 

さりげなくその中に「徳源院跡」の石碑があります。

さらにいくと「足利義氏」「氏姫」の墓地に。

合掌します。

ちなみに墓地の右奥が氏姫のお父さんだった

足利義氏のもの。

42才で亡くなりました。

公方とは名ばかりで、小田原北条氏の庇護を受けて

自由に政治をすることはできませんでした。

 

左手に氏姫の墓があります。

義氏亡き後家臣団は彼女を古河城の城主として擁立しました。

女城主ですね。

 

 小田原北条氏が滅ぼした豊臣秀吉は、名門足利氏の名前を残すために、

縁戚の一族と結婚させ、喜連川氏を名乗らせました。

真ん中の墓が、彼女の息子、義親(よしちか)のもの。

 

江戸時代が終わると、一族はもとの足利に家名を戻し現代へと続きます。

なんだか数奇な一族の運命ですが、

お墓の前に立つと、

「氏姫様よくぞ現代まで続く足利の血を残せましたね!

がんばりましたね!」

と思ってしまうのでした。下の写真が氏姫様のものです。

昔を偲んだ後は、休憩タイム!

園内のレストハウスでケーキセットで温かいコーヒータイムです。

桃のソフトクリームも食べようかと思いましたが、まだこの後歩くことを考えてケーキだけで止めました。

今度クルマで来たときに食べようかな。

次は古河公方の館のあったところへ。

上の地図では御所沼というUの字形に突き出た半島のような場所に館はありました。

江戸時代に建てられた古民家もいい感じです。

大河ドラマの西郷(せご)どんの撮影でも使われたそうです。

古河総合公園を後にしてまた日光道中に戻ります。

 

しばらくすると右手の古河第二高校の敷地内角に

古河の一里塚があります。

さらに進むと古河の市街地に。

街角のあちこちに古河の宿場町の案内板があります。

長谷観音参道もありますが、市内の散歩は明日へ。

この後は野木宿のあった街道を通りながら

野木駅まであと5キロ歩くことに。

 

時刻は4時前。

古河駅前に出る交差点を過ぎ、右隅に道しるべの石碑がある交差点を左に曲がり、神宮寺を過ぎた所で右に曲がります。

いわゆる鍵の手、クランクになっているのは城下町の特色の一つ。

道なりに北上すると

駅前から真っ直ぐに伸びている先ほどの道路に合流します。

古河宿の入り口を示す案内塔が昔風に立っています。

 

 そのまま北上を続けます。

古河より約2.8キロほどでかっての野木宿のはずですが、

現在は道しるべなど一部を除けばそれらしい面影はなくなっています。

宿場町としての役割を閉じて、クルマが南北に猛スピードで走り抜けています。

歩道はしっかりあるので安心です。

 途中から国道4号に合流して松原・友沼の集落を過ぎ、

野木駅前の道路の案内標識がある交差点を左折して

1キロほどで野木駅前に到着です。

 

 足が疲れて、また日暮れになり、早く駅に着かないとという気持ちになってしまったため、

野木神社など見所のある所も一見するだけで駅までいってしまいました。ショボーン

古河と野木の間は再チャレンジかな。

 

 野木駅から列車に乗り午後5時30分古河駅着。

10分ほど歩いて無事今日の宿に到着。

杉並通りに面した落ち着いて清潔なホテルです。

 

明日の市内散歩は雨模様らしい。傘さして歩くかな。

情緒あるだろうしたまにはいいかもしれないですね。