第7歩 日光街道 栗橋宿ー中田宿 栗橋宿(雷伝神社)から中田宿へ | 街道歩きや街めぐりなど歴史探索と社交ダンスを楽しむ日記

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 今回は日光道中の7番目の宿場町、栗橋と8番目の宿、中田宿を通ります。とりあえずまず栗橋と中田の絵図でルートを示します。

 

 

 ルートは前回たどりついた雷電神社の裏手に回り込む、住宅地と田園の道を、国道4号の堤防道路に寄りそう形で北上していきます。しばらくいくと小右衛門の一里塚の跡にたどり着きます。

  途中から土手下の旧道がちょっと窮屈だったので、1本西側の見晴らしの気持ちの良い道を通ることにしました。小右衛門の一里塚を右手に見ながら進みます。お寺の墓地の隣にある弁財天の祠のあるところが昔の一里塚跡。街道を歩く人々に歩んだ距離を知らせ、夏の暑い日差しや冬の寒い北風を防いでくれるエノキの木が道の両側の盛り土に植えられていました。日光道中の江戸から数えて13番目の一里塚だそうです。細かいところを気にしないもの街道歩きを続ける技のひとつです。

ちなみに一里塚のイメージですが、中山道の都内にある保存状態の良い志村の一里塚(道の両側に残していますね)の写真ではこんな感じです。いい感じですね。この1里塚を数えていけば目的地にゴールできます。

ちなみに、日光道中は日本橋をスタートして鉢石(日光市内の東照宮近く)まで36里3町2間なので、中間地点は18番目の一里塚。13番目ということはまだ半分まできてませんね。もう少しがんばって半分だぞ、てな感じで1里塚を使うと旅の進行度合いがばっちりわかります。ふーむ。たかが1里塚されど1里塚。江戸時代に街道を整備した人たちは知恵者ですね、ほんと。当時の旅は現代の駅伝感覚の旅だともいえます。

 そのまま進み、東北新幹線の橋桁をくぐり、右手にラウンド1の目立つビルを右手に見たら、ふたつめの右に延びる登り坂を通り、国道4号の堤防の上に出ます。パッと視界が開け、ン?と思います。

 

 そこにある目立つ建物(シアター)を右手にみながら、左手の方へ下る緩いカーブの道を進んでいけば自然に、「会津見送り稲荷」の社や焙烙(ほうろく)地蔵にたどり着きます。案内板もあるのでわかりやすいです。

 道ぞいになにやらゆかし、お稲荷様の社があります。これが会津見送り稲荷様です。民家の庭の一部というかんじのたたずまいでした。

 「稲荷会津見送り稲荷」の由来は、江戸時代の会津藩の武士が国元から江戸にいこうとこの地に来ると、おりからの雨続きで道が水びしになって道さえわからなくなって困っていたところ、白髪の老人が突然現れ、道案内をしてくれたおかげで無事大事な務めができたとのこと。この白髪の老人がキツネの化身とわかってお稲荷様として祭られたとの伝説です。

 この土地は関東地方の真ん中で、低地なため雨が降ると土地がぬかるみ、旅人を苦しめたことがわかります。

 けれど、 江戸時代は物資を河川を利用した舟運が中心なので、多くの川の集まるここはいわば現代の高速道路のインターチェンジのような重要な場所なんですね。陸と船の交通の要衝。栗橋中田のこの場所に関所を置けばとても効果的だと幕府は判断したんですね。

 さて狭い道をぬけて、やがて道幅の広い、道路沿いに栗橋宿の街中に入っていきます。途中、ほうろく地蔵をお祭りしている社もありました。関所破りをした人が処刑された場所だということです。刑はひあぶりで見せしめのため残酷な刑罰が行われていました。こわいです。

 お地蔵様とほうろく(素焼きのやきもの)は小さな祠の中にありちょっと写真を直接とるのははばかられましたので、案内板だけ写真をとりました。

 栗橋の関所の跡地を右手にみて、着き当たりにあるのが八坂神社です。盛大な夏祭りが毎年行われる栗橋の守り神です。

さて栗橋の関所ですが、正式名称は「房川中田御関所」というお堅い名前です。栗橋なのに名前は対岸の中田になっていてややっこしいです。房川(ぼうせん)とは利根川のことで、江戸から日光・奥州にでていくもの。江戸に向かう者。みな改められる。現代なら入国出国の検査場です。

 関所では旅人の人相改めや道中手形(現代のパスポート)のチェックをしたといいますが、松尾芭蕉と一緒に奥の細道を旅した、河合曽良の記録ではこの関所の話があって「手形も断りも要らず」とあるので、江戸から出ていく旅人で男の場合はほとんどフリーパスだったのかもしれません。もっとも女性の場合は「出女」で厳しいのはどこの関所も同様だったようですね。女性の地位が低く、人質である大名の奥方などを逃がさないためなのか?封建社会は男性中心の社会だったのですが、今でもその影響が残っているかんじがします。

八坂神社の「狛犬」はなんと魚の「鯉」です。さすが栗橋。水にゆかりのある神様の使いです。運をひいてコイ!で縁起いいですね。

神社の由緒書きだと、この神社の神様はその昔慶長年間(約420年ほど前)に利根川が洪水の時に水波の中、亀と鯉が運んできてきたという伝説があるとのこと。神社にお参りしたとき人々はきっと「洪水」から身を守る大切さを思い出したりしたのでしょうね。

 神社を参拝して土手の上に出て、2本ある長い利根川大橋の手前の橋(古河市方面に走る下りの国道4号)を歩くと橋の途中で「茨城県」の表示が見えます。橋を渡る前休憩所で一休み!この辺は道路工事の真っ最中でしたが、疲れたので利根川をみながらのお昼に。カツサンドとおにぎり、飲み残しのホットレモン。ビーフジャーキー。チョコレートなどなど。

 食後さていよいよ橋を渡ります。長い橋です。茨城県側の橋の下は広くて砂場やアシやヨシの生い茂る河川敷になっていて、ここが昔の中田宿のあった場所!といわれてよく橋の上からみても、イメージできません。

 春草や 宿場の賑わい 夢の跡 (芭蕉の夏草や兵どもが夢の跡のパロディです。すいません)

 橋を渡り終えてすぐ左に土手沿いに緩い右へのカーブを描きながら下っていく道が日光道中で、下り終わったところに中田宿の案内板があります。この道が小山市の粟宮(あわのみや)のY字路までずっと日光道中として道なりにずんずんと歩いていけます。

※古河市内一部城下町のクランクのため真っ直すぐ道なりでない箇所もあります。城下町が宿場町が兼ねている場合はルートの確認が要注意です。

 

  特に迷うことポイントがないですが、クルマも適度に通行しながらの道。でも歩道がしっかりあるので、安心です。「歩く」ことを大事にして道沿いに松を植え、広ーい歩道をつくっていただいた古河市と地域の方々に感謝!こんな道がずっと続いて、クルマが少なかったら歩き旅もっとブームになるだろうなとしみじみ思いました。松の木が生長していくのが楽しみですね。

 中田宿を歩いて行くと、左手に鶴峯八幡宮の社殿があります。源頼朝が平家を倒してから武の神として鎌倉の鶴岡八幡宮から神霊を写したという、いわば「勝ち」の神様。境内に安全な旅を見守ってくれる神様の社もあります。日光街道の旅の神様とあります。旅の神様の前で足踏みをすると健脚になれるとあるのでやってみました。エッチらこっちらです。これで完ぺきですね!

 パート2はJR宇都宮線を越える高い使うのかな陸橋の上り階段まで。こんな高い歩道橋。地元の人もふだん使うのかな?トレーニング用のジム施設としても価値がありますね。

さあ古河まではあと一息だよ。歩道橋を過ぎて気持ちの良い松の広い歩道を元気で行こう。雷電神社から歩道橋まで昼休みを含めて

約2時間30分でした。