読みにくいのを覚悟の書き方にしましたが、ちょっとキモいかもしれないです




私は暑いが苦手。



春は3月に始まり、5月の海宇の開きとともに終わる。


そう、いつか母に聞いた言葉を思い出して、しかし、その記憶と行く春を追うに追いつけずいる。


自分の記憶はそこと、3月にあって、今が4月の去り際であることに驚いている。


今はたしかに春である、けれど、優しさの反面に、半面をこえて厳しさを持つ母のような、似合うようで似合わない暑さに耐えきれない。



春といえば桜。


Twitterのオススメ、インスタの投稿、友達の日常で桜を見たことを知らせてくれる。


私は桜をみよう、と思っていた。


母とそう言い合っていた。

「去年の今は、都会の中の森を探して、隣町の公園の東屋でケバブを食べたね。

今年は、桜をみたい。」


母は、代々木公園のような人に混む場所じゃなく、近所の公園に夜、死を肥えに育つとも見えよう、桜をみたい、と言った。


しかし、それは叶わわず過ぎた。


桜は近くにずっとそこにいるのに、私は、それに対して時間はおろか、怠惰の日々を重ねて、嘘を積み上げて、逃げていたのかもしれない。


それは自分に嘘つく行為でもあり、桜というアイデンティティを失うようで、病を敵に忍び大正にいた、梶井基次郎に耐え難きを強い、病に苦しむ大正天皇を慕う昭和天皇をもとに、日本人としての誇りを捨てたかのような思いがした。


その私にしては、桜は写真越しにみて、また、無形の暴力に囲まれたSNSのツイートの付録として、浮気のようにみて、昭和の大戦を、NHKドキュメント越しに「大変だな」程度の感想で、流動的な思考を持つ脳に、挟めたはずの理性を留守番させるものであった。



そう、桜はずっとそこにいたはずである。


桜は人に喜びを知らせてくれる。


桜は、咲くと同時に恋の実りを後押ししてくれ、舞い散ると、その別れの悲しみのそばにいてくれる。


そして、悲運の別れに遭った二人を、「また、20年後、ぼくは桜の木の下にいるから、君も忘れてなければ、そこで逢えるのかもしれない」と、植えてるだけの木が、二人の約束を果たしてくれる気がするのだ。


そういう考え方に浸らせてくれる、アニメ『ReLIFE』の挿入歌が好きである。

失恋したときに、それを涙の肴にしていた。



そうこうして、堕落の春を越えては迎えた夏は、さらに私に、悪魔の誘いを熱風に乗せる。


夏は嫌いである。


私は8月8日に生まれ、そして情熱のしし座と考えれば、ネイティブ・サマーであるけれど。


そもそも、気温と風の暑さが苦手なのもあるけれど。


その暑さは、憧れる街ゆくカップルの情熱を象徴しているようで、そう思えば、夏の暑さに溶けて消えることを希う。

---夏の玉音放送で使われた、「願う」の強いかたちの、昔の言葉。



夏になれば、因習村の奇祭のように、人々は裸に近くなる。

人々は、その非日常と重ね、「溶けてなくなりそう」という死が覗く生への実感と、映画の世界のような気分にさせてくれる。



夏祭りが特にそうである。


花火大会ひとつとっても、一箇所に同じ志をもつ、同志が多くくる。


人が多いけれど、自分は目の前の恋人に集中している、という暑さに負けず、オーバーヒートせずに脳の処理を行う快感に、人々は酔いしれる。


神と同じく、「愛」というものもこの世に存在するのかどうかわからない、けど信じるべきという存在であり、

その近くにある「花火」というものも、「花火は綺麗」という幻想を疑いつつも、同志もその共感を持つという、兄弟的でも共同体的でもある多幸感があるし、そうして信じると、同時に「愛」を疑う気持ちをカモフラージュできる。


いつしか、花火は恋とともにあるようになったのだろうから。しかし、起源は哀しむかもしれないだろうから。



縁日もそうである。


大体の人は、やはり恋人と行く。


まずは、恋人とともに、縁日という小規模の経済体系をみて、いずれ世帯・家庭という経済の形式を妄想する。

いずれ結婚で形式にハマる前に、ここで余暇を遊ぼう、と皮肉に夏の定型にハマる。


縁日の屋台を営む人は、サーカス団のように、日本各地を転々として稼ぐ。


次に、恋人はそれを見ては、不倫をスナップされた芸能人に「クズ、嫌だね」と抱くのと、同じことを思い、男は「自分は、寅さんのようなヤクザな生き方はしないから」と、小さく遠回しなプロポーズをする。


それを何組かの恋人の集団で連続して思い、その小さな考えを、共に正当化する。


最後に、TikTokで踊る会社員のブラック、フロント企業。その洗脳に近い形で、集団の圧力に飲まれる安心感でハイになる。


一人で来た者は、それら恋人の前戯を見て、そして美味しいご飯を左手に、右手でAVの代わりになるものに昇華させては、夏の蒸す空気で腟の温まりを夢想する。



私は、小学一年生の後半、イジメられた。

それは自分のせいだった。


授業が始まってまもなく、一人の女の子が、私の手を引いて、瞳にうつした好意を、顔を近く向け、昼休みによく遊んでくれた。


幼稚園生の頃、「誰が誰々を好き」というゴシップを、情報の大群から一匹の魚を捕まえて、快感の肴にしていた。

その私は、その女の子が言った「結婚しようね」という言葉を、男友達にイキリ気にはなした。


それからその女の子にイジメられ、しかし学年が変わると止まり、6年生になると、その少女を含めたヤンチャなグループでよく遊んだ。



6年の夏、その少女と男友達が同数、地元の夏祭りに行った。


とても暑かったことを覚えている。

暑い、けれど滴る汗が、死を想わせる乾いた皮で頬をなぞる冷たい老人の手のように、心もひやりと遇う。


白い湯気、じゃがバターと焼きそばの混ざった匂い、店主の客寄せをさえぎる酔った大人の大きな声。


最初、私たちはみんなでぐるり3週した。

それはお店の種類を知るのと、カップルで来ている同級生がいないのか、巡回したのとで曖昧だった。


その後、ヤンチャグループのリーダーが、ビックエコーの入口の階段に座った。


それは小学生の頃、なけなしの金で買ったブタメンを、コンビニの駐車場でヤンキー座りで食べるような、ヤンキー仕草をする憧憬の念の実行だった。


そのリーダーが学校のマドンナの手を引き、二人は沈黙の中に「どうしよう」と表す足踏みをしては、結局それに応じ、二人は、暗闇で物を探すように、恥ずかしげに消えていった。


残された私たちも、そういう雰囲気をすべきだな、この終わりの夏は、という空気を、唾とともに飲み込む。


私はイジメてきた女の子に、有無を言わせずに手を引かれた。

私はなにも言えなかった。

それは、小学生ながらレイプに近い事をされた過去に、今は女性恐怖症だったからだ。




私は高校二年生の夏、久しぶりに自由が丘の夏祭りに行ったとき、それを思い出してしまった。

今もそうである。


あんまり小学生の男女をみないけれど、大人のカップルに、その思い出の純粋さを奪われたような感覚を覚えてしまう。



もう、夏がこようとしている。


私の中の、過去の夏もこようとしている。


過ぎ去り、地中に眠った記憶が、終わった春を忘れて這い出でる桜のように。


その夏は忘れたい。

地中に眠ったままでいてほしい。


私は恋人不在で行く夏祭りに、小学生の純粋さを、自らの大人の矛盾に巻き込みたくないからだ。


だれか、それを忘れさせてくれる人を、

上書きしてくれる人を。


私は、提灯しか頼りにならぬ屋台の暗闇に出ては、探している気がするのだ。


---この夏は、忘れさせてくれる。

そのはずである。


そう、期待をにじませて。


帰りに偶然、昔と同じ駅で縁日がやっていれば、私はビールを迷わず買う。


そして、あの日と同じく、屋台の後ろまで3周する。


そうしたら、私の頭の中でも、記憶が回って、一周まわって消える、ぐらいでいいから、なくなるのかも、と。




しかし、心の中では、あの時の皆の背中を探し、影を追ってる気がする。


それはなにか、まるで、その夏を繰り返すごとに、私が、美容整形手術の失敗で通行人の「美しい」を求める、口裂け女になるようでもあり、しかし、口裂け女が流行った1970年代が幕を閉じたように、私も時に押しつぶされるように感じる。


私の時をまた止めてくれる人を、

そして、私のことを過去のものとして、あるいはレガシーとして、とにかく海馬の中で留めてくれる人を。


ロミオとジュリエットなんて高望みはしないから、せめて神よ喜びを感じたい、それで、ぼくがアダムできみがイブなんて、冗談の喜びに浸れる人を。


ムーンライト(2016)、あるいは25時のバカンスのように。

二人、夏に溶け、底がどうなっているのか、それが涙なのか、悲しみか嬉し涙なのか、そうわからずに、きみなら、と飛び込める海に、恋に沈むように。

砂浜で大の字になって、汚れる、なんて理性を捨てられるように。


九十九里浜の端から端までなぞるように歩く。

帰るかどうか、また道にも、伸ばす手にも迷う。

舌の入る前に、愛の届かぬ海を感じる唇を、手でたどり、たゆたう心に波のゆりゆられる恋の火遊びを健やかにして、


そういうふうにエロがりたい。