私はがものすごく好きです。


私は歌詞を二の次にして、メロディ性で曲を好きになります。


その中で、voilàはMVがエモい、なによりイケメン。

また、メロディ性はもちろんとして、リリックがとてもいいのです。


このブログでは、「imaginary friends」と「potion」の歌詞で、独自の解釈をします。



一、「imaginary friends」です。


まず、タイトルからして大文字が少ないところで、


1. 日本語における柔らかい表現のひらがな

2. Z世代の小文字、あるいはスラングの多用


これらを連想させ、「軽い関係」「Z世代のデカダンス的な恋愛」を想像させます。


自分は恋する相手に、独り重くなることがあるけれど、しかし、「なにもかも軽い」と言われるZ世代として、いや軽くなければな、という理性との葛藤を伺わせます。


歌詞


ちなみに、ここから英語の歌詞を、機能を借りて翻訳できます。


この曲は、男性パート(voilà)と女性パート、またコーラスパートに分かれています。


最初に、男性と女性のコーラスで

「Na na eh oh nana」

を歌い、超解釈すれば、それは軽いノリは合うような情景が浮かびます。


全体的に、過去の恋愛の失敗、

そこから恋する相手が本気なのか、遊びなのか判断できなくなってしまったこと、

そのために恋をしても相手に告白するという行為に億劫になってしまってる、

と思わせます。


特に、ヨーロッパ圏は「告白をせずに、流れで付き合ってることになる」という文化があり、なおかつ「付き合う前にお互い体の相性などを試して、またその期間はお互いにキープなどがいる」というのが浸透しています。


そのため、私たちの住む日本より、付き合うこと、告白することのハードルが高いのだろうと思います。





言わずもがなですが。


相手には他のキープ・セフレがいる、かもしれない。

けど、自分は、別れてもお互いを知る者としての「元恋人」が去ってしまって。

あるいは、本気で恋する相手のために、自分から縁切って。


自分をよく知る「元恋人」に恋愛の相談などをしたり、慰めてもっていたけれど、それがいなくなり、独り自力で「頑張る」必要がある。


それもあってか、そして軽いノリ至上主義の中で「告白するのが難し」くて。


自分が「死」んでもいいという覚悟のもとに、告白したくなる。

あるいは、告白して振られることで、自分のメンタルに死神の顔がチラつく。


いや、死んでもいい。

だから、相手が本気なのかどうか、せめてものそれを、知れたらいい、と理性を振り絞って自分に言い聞かせる。


思わせぶりしたり、ただセックスをしたり、そういう「偽の友達」でもいいと我慢できるかもしれないけれど、本音はそんなのいらない。


ヨーロッパ圏の中でも、特にアメリカは「男性らしさ」が求められる。


例を挙げる。


アメリカの学校の昼食時間といえば、私たちは「サンドイッチ、バナナ」を思い浮かべるけれど。


アメリカにおける、バナナを食べる、ということはゲイを連想させる。


ゲイが男のディックを咥えることに近しいために、バナナを食べる人は、級友に「ゲイ」とイジられる可能性を孕んでいる。


そのため、歌詞にある「あるいは泣いてるふりをする」は、本当に泣きたいけれど、しかし男性らしくない行為であるため、泣けない。


それは本当の意味で泣けない。


泣くという行為は感情の曝露であり、そこに「男性だから」という理性のストッパーが介在すれば、泣けなくなってしまう。


無事に泣けたとしても、それは「男性らしさが求められてるのに、なく自分は情けない」という、

Toxic masculinity(Wikipedia)に対する涙である。


理由が全てであり、理由がそれであれば、泣く行為もそれを意味する。







「ボン・ボヤージュ(Bon Voyage)」。

これは、旅立つ人に言う「よい旅を!」という英製フランス語。


主に、船乗りの間で使われた言葉で、「よい船旅を!」という含意がある。


船旅というのはもちろん、荒波に飲まれたり、ビタミン不足になったり、また、衛生的に水質の悪かった時代、ワインを常用飲水としていたために。


これは、相手が距離感的に遠くにおり、心も遠くにあり、自分の気持ちが届くかわからないし、船旅に行く夫に対して、見知らぬ地で浮気しないか、また生を維持できているか、その不安をもつ妻の言葉でもあるし。


つまるところ、相手が遠くにおり、その相手が他に相手がいて、物理的距離の離れた場所で、他の相手といい感じになっていても、自分はその妻のように、「たのしんでね!」と言うしかない。



また、自分は「正直に言えば」無事(ボン・ボヤージュ)だよ、と言うしかないし、そう自身に言い聞かせるしかない。


相手を「ビッチ」と罵りたいけれど、言ってしまえば、相手はさらに遠ざかるかもしれないし、だから、独りで心の中で言うしかない。


そして、「私は一人で大丈夫」と言い聞かせるしかなく、それに「はい」と、自らにうなづくことでしか、安心をつくれない。


そうして、相手はそもそも悩むことすらなくて、精神的にダメなのは自分だけだから。



自分さえ大丈夫であれば、「仲直りできる」。


実際に仲直りしなくとも、自分の心を落ち着かせれば、自分の心の中で「仲直り」できる気がする。



「ファサード(Wikipedia)」は、

建築物の正面部分、つまり英語で顔を表す、フランス語。


信じてほしい、だって、私たちだけの間では、その目立つ部分は順調であり、表面的な部分では、お互いに軽く慕ってるのである。


自分が独り悩む心は、表面では相手の知らぬ内面であり、それは裏面であり、いい「顔」をしているはずである。



「私たちだけだとこのファサードが本物に見える」。

つまり、相手の他で愛育む姿ではなく、私たちだけの関係を見れば、それは「居場所(建物)」でもあり、また、自分の家に来るときの相手が、本物でもある。


また、ファサードというのは、カトリック教会を語用として使う言葉でもある。


カトリックは婚前交渉を禁止していれば、嘘の恋を否定している。


カトリックとあえてしたのは、プロテスタントの中では、そこまで厳しくないからかもしれないし。

カトリック教会、つまりそれで連想する神父は、プロテスタントの牧師より、そもそも結婚自体を禁止されている。


カトリックの信徒は、神父を模範とする。


それはやはり、信徒と対等の立場とするプロテスタントより強いものである。



voilàは総じて、フランス語を使うことが多い。


そもそも「voilà」という名前自体、フランス語の要素がある。

MVでも、フランスのオートクチュール、ファッションショー、フランス映画をモンタージュしている。


フランスは自由を標榜するけれど、「フレンチスタイル」と呼ばれよう、自由な恋愛が強く、また、意外にもカトリック信徒の数が多い。


その矛盾と言えようものが、voilàの喚起・隠喩したいものでもあるのかもしれない。





空想の友達、それは本当の意味の「友達」でもあり、または、恋する相手でもある。

自分の中で恋する相手の幻想を抱き、空想の中の相手は、自分に本気で恋してるな、と。だから、寂しくない。


その妄想は、頭の中お花畑、パーティー状態でもある。


また、パーティーは、参加者と軽い世間話(スモールトーク)をする場であり、そこは、ある意味恋人を忘れてはしゃぐ場所でもある。

だから、恋を、その悩みを忘れて騒がなければならない。


特にアメリカは、イギリスの上流階級の社交マナーを、過去の植民地としてのコンプレックスのように感じ、

また、イギリスのように「貴族」などの固定的な階級に縛られず、お金持ちになった人が、上流階級にもなれるのだから。


だから、そういう社交上のマナーをより気にしなければならない。



「そして最悪の日でも私は」



これはメンタルが最悪という意味でもあるけれど、パーティーでお酒を飲みまくって潰れる、けれど、恋の悩みでよりお酒に呑まれる自分を、同志たる男友達が、「正気に保ってくれる」とも思える。


空想上のあなたはそうじゃない、

本当のあなたは「人を好きになれない」なんて、過去の恋愛のコンプレックスに囚われたり、今は遊び呆けてるかもしれないけれど。


そしてそれを思う自分は、あなたが遊んでいるのは、空想上の善き友である、私に嫉妬させないような関係であると、そう信じたい、空想したい。