私は話がつまらない。

話のつまらない原因を考えてみた。

私の思う「話がつまらない」というのは、話すという行為にかかっているけれど、一般に言うのは話す内容にかかっているだろう。

つまるところは、「話しててつまらない」という意味で使っている。

どんな話題であれ、オチであれ、その内容はともあれ、「好きな人と話す」という行為自体に純粋の喜びを感じるべき、と思っているからだ。


小学生は、外へ出るという行為自体に喜びを感じ、場所は問わず、母親と買い物へ行くことを楽しむ。


私は、宝探しをただ楽しむ子供を目指して、宝の使い道を講ずる大人にならないよう、そのロマンをあなたを通じてロマンスにするものを、そういう恋愛に近づこうとしている。


そんな高尚なことは半端な大人の私にできないから、そうなれるよう努む道が、恋愛となっている。


会話というものも、話の内容に目を取られて、好きな人と話すという、それのみを大事にすべき、絶対的な価値を忘れないようにする試みだろう。


「会話をする、それ自体を楽しむ」という甲子園に

行くためのバッティングである。




私は、好きな人とお花見したい。


バラ園とか、花の園に行きたい。


お花をみて、自然を感じたいけど、ただ視覚を使い、自分の瞳にそれをうつすだけしかできない。


本当の意味でしたい「自然を感じる」をできないかもしれない。


じゃあどうすればいいのか、を考えた先に、記憶に松尾芭蕉があった。


五七五の俳句で、自然を自分の中に入れて、それと自分の思考で濾過したら、男だから子の産めずにうんこを生む私は、浄水できないままの汚い句を作れるかもしれない。


それで、自然を読解して詠む俳句に、好きな人へ思うことを混ぜたら、五七五七七の短歌になる。


俳句を詠める、短歌を綴れる、好きな人に伝えられる、一石三鳥。


「好きな人に句を詠もう」


と言う人は珍しいだろう。


映画館に行く、カフェに行く、そういうネットにでてくるデートコース以外をできれば、刺激になると思える。

もっとも、私はただ句が好きだからでもあるけど。


明石家さんまさんの言う「お笑いは緊張と緩和」に思いを馳せて、余る恋愛関係の刺激に、一石を投じられるかもしれない、と好きなことをやりたい欲も自負できる。


※「緊張と緩和」……

たとえば、葬式という「緊張」する場面だったら、すこしの違和感が「緩和」になって、笑いになるというもの



私は、お花をみるとなっても、本当の意味の「花をみる」ではなく、好きな人をみてしまうのだろう。


それは先述した「小学生の純粋な動機」に反しているけれど、「会話を行うこと自体への純粋な動機」の、その動機と源泉は、好きな人に対する心と思えば、そして、それを純粋な恋慕の情と形容して、肯定できるなら、好きな人を通して自らも愛せるがゆえの、ゆるせる自己矛盾ってやつかもしれない。




私はそう、最近句にハマってる。

短歌と俳句。


最初の理由に順序をつけるならば、一、好きな人とお花見するときにピクニックして詠みたい、というものである。


なにより強い理由は、二、婉曲的に思いを書けるからである。


私は惚気ツイートしまくっていたけど、私の性格の悪いところを知る友達は、きしょいと思うかもしれない。

昔から私は恋に熱しやすく、病みやすいけど。


けど、短歌・俳句の形を使えば、そのきしょさを丸めて、ある意味わかりづらくできる。


好きな人の純粋さを「山葵沢(わさびさわ)」に喩えれば、清い水のある場所にしか生きないワサビのようである、君はそうだから、周りも純化・浄化するよ、と言える。


自分の悲しい気持ちを、いずれ沈む月を使えば、それはなにか、自分には月がいる、仲間がいる、大きい影響力のある存在がバックにいる、とも思える。


「俺には芸能人の友だちがいるんだ」と言う人の感覚で、「月がいるぞ」と詠めば、美しい月の光に反射された自分も、美しいような、悩むときに一人宇宙にいる半月に孤独をハーフハーフにしてもらってるような。