どうも「の」です。
世界遺産「平泉」の構成資産の中のひとつが国宝『中尊寺金色堂』です。
他にも特別名勝「毛越寺庭園」、特別史跡「中尊寺境内」、特別史跡「毛越寺境内附鎮守社跡」、特別史跡「無量光院跡」等に加え観自在王院跡、金鶏山などがユネスコ世界文化遺産に登録されています。
またこの『中尊寺金色堂』は国宝建造物第1号だそうです。
んが時間の関係上他の世界遺産を見学できなかった
そもそも”金色堂”とはなんぞやって話ですよね。
手っ取り早く言えば『霊廟(れいびょう)』
お墓の建物版、亡くなった方を祀った建物です。
孔雀がデザインされた中央の須弥壇の中に奥州藤原氏の初代清衡、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の御遺体と四代泰衡の首級が安置されており、親子四代の御遺体の存在は世界にもほかに例がないんだって
こんな記事を見つけました
この金色堂は創建当初の姿を今に伝える建造物で、1124年に奥州藤原氏初代清衡公により上棟されました。清衡公の切実な願いによって、極楽浄土のありさまを具体的に表現しようとした往時の工芸技術が集約された御堂です。
昔の人のイマジネーションの素晴らしさを体感できます
拝観券を購入してこの柵の中に入ります
あまりアングルは変わりませんが
石段の先に見えるのが金色堂を保護するための為の『覆堂(おおいどう)』です。
ちなみに鉄筋コンクリート造だそうです。
頑丈に造られて金色堂を守ってくれているんです
この覆堂の中に金色堂そのものが収まっているのです。建物の中に建物があるってこと
この覆堂の中は撮影禁止
国宝の金色堂は目にしっかりと焼き付けましょう。
中尊寺のHPには写真があるのでそこで見るもよし
こちらは讃衡蔵(さんこうぞう)という文化財3000点あまりを収蔵する宝物館にあったパネルです
金箔が貼ってあるし、多種多様な装飾が施してあってめっちゃ煌びやかなんだけど、厳かさも感じるような不思議な空間でした。
記念撮影用だよ
ちゃっかり撮らせてもらいました。
検索しますと‥
讃衡蔵(さんこうぞう)という宝物館には、平安期の仏像、中尊寺経の名で呼ばれる「紺紙金銀字交書一切経」をはじめとする経の数々、奥州藤原氏の副葬品など、いずれも平泉黄金文化を物語るうえで欠かせない大切なものばかり。館内に入ると、まず正面に並んだ3体の丈六仏と対峙、中央の阿弥陀如来座像はかつて本堂の本尊だった仏像。
入ってすぐに3体の仏様がドーーーーーンと座っておられて圧巻でした。
全ての罪が浄化されるんじゃないか!って思えるほどの迫力
坐像の手の部分が展示してあって触れるようになってました、ご利益をいただきたくスリスリと触らせてもらいました
その他にもお経や曼荼羅、仏像、副葬品、金色堂の装飾物などいろいろありましたが、改めて昔の人の知恵や技術力や芸術性の高さを実感する事ができました
今みたいに便利な世の中ではない中で、あれだけの物を作り上げるんだもん頭が上がらんよ。
拝観券エリアには金色堂、讃衡蔵の他にもいくつか拝観できるお堂などがありましたのでご紹介します
経蔵
当初は二階瓦葺きだったらしいけど火災で上層部を焼失したらしいです。
ご本尊の騎師文殊菩薩と三方の経棚に納められていた紺紙金字一切経(国宝)は讃衡蔵に移され、新たな騎師文殊菩薩が安置されています
関山天満宮
京都の北野天満宮から勧請されたんだそうです。
木の根っこが階段みたいに!
長い時間で凄いことになってる
松尾芭蕉像
有名な奥の細道。
奥州藤原氏が滅亡して500年後に平泉を訪れた芭蕉は、藤原三代の栄華の儚さと義経の最期を偲んで有名な句を詠みました。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
松尾さん
金色堂を参詣して詠んだ句です。
「五月雨の 降り残してや 光堂」(さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)
”光堂”とは金色堂のこと。
実際に芭蕉が参詣したときの金色堂は現在の金色堂(1962~1968年に行われた昭和の大修理)とは異なり今よりも朽ち果てた様子だっとみたいです。
また現在の覆堂は1965年に建てられたもので、芭蕉が見たであろう覆堂は鎌倉時代に北条氏によって建てられたものと思われます。
旧覆堂
室町時代中期のものらしいです
少し薄暗いこのお堂の中に金色堂があったんです
先ほどの松尾芭蕉もこちらにあった金色堂をご覧になり句を詠まれたのでしょう。
中央には藤原秀衡の卒塔婆が建てられていました。
藤原清衡が中尊寺(金色堂)を建立して900年の節目の年に参拝することができました。
本当に有難いことです
これも何かのご縁でしょうね。