Q2大自然を見ると人はなぜ感動するの? | nishiyanのブログ

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 子どもでもわかる世界論 Q&A

 

Q2大自然を見ると人はなぜ感動するの?


 A2
 大自然の雄大な光景を目にすると、ああすごいな、すばらしいなと人は一般に感動します。しかし、わたしたちの身近なところにある、何万年も経っているかもしれない小石や川などの自然に対しては普通はたいして感動することはありません。

 これと同じような構造として、わたしたちの知り合いがスポーツや芸術で表現してもそんなに熱烈に感動することはありませんが、自分がその分野に興味関心がある場合は特に、芸能人やプロのミュージシャンやプロのスポーツ選手を熱狂的に応援し、熱狂的に感動することがあるように思います。わたしの場合は、いいなという俳優さんはいても、その人の芸としての表現以外の個人的なことには熱中するということはありません。もちろん、それって何だろうとふしぎな気持ちは持ちますが熱中する人を非難する気持ちもありません。個々それぞれの有り様でいいんではないでしょうか。

 しかし、現在のそのような特別の人への感動や熱中にはとても深い背景があります。この特別な自然や特別な力を持ったプロのミュージシャンなどへの感動の根っこにあるのはは、人類の初期からのものだと思われます。繰り返された大いなる自然の猛威と慈愛、そのことの圧倒性に人が感じ考えたことは、代々受け継がれながらまた大いなる自然の猛威と慈愛に出会ってきました。そういうことを繰り返した中で、大いなる自然は、わたしたち人間がとてもちっぽけに見えるほどの圧倒性を持った特別の存在となっていったと思われます。育ててくれる母の前では全くの無力な存在である赤ちゃんが、母とのやりとりの中で、ひとつの物語をそれぞれ刻んでいくように、人間もまた、大いなる自然との関わり合いの中でひとつの物語(神話)を作り出していきました。その物語(神話)の中身は世界の各地の地域的な諸条件でいろんなバリエーションがあったとしても、人間に猛威をもたらすと同時に慈愛を持った大いなる自然という絶対的な特別の存在との交渉という根幹のモチーフは同一だと思われます。この列島のアイヌにも遺っていましたが、岩や木や川などありとあらゆる自然物が、神と見なされていました。

 このような人間と大いなる自然との交渉の物語(神話)を生み出した人間の感じ考えることは、人間世界が発展して膨張して行くに従って、今度は人間界で特別な力を持っていると見なされた人々への意識に横滑りしていきます。まずは、神と交信して神の言葉を伝えたり神に願い事を伝えたりできるというシャーマンや巫女と呼ばれている人々、次に、集落の規模が大きくなり、小さくても国家と呼べるようなものが成立すると、首長や武将なども特別の存在と見なされるようになってきます。

 こうして、とても長い時間の中で、人間と大いなる自然との交渉の物語(神話)は、人間界の拡大にしたがってその物語(神話)は後景に退き、次第に人間界内での人と人との交渉の物語(神話)に変貌していきます。『古事記』などに描かれた神々は、実在の誰々家の祖先であるとかいう説明が書き記している場合があります。ということはその神々はウルトラマンみたいな人間を超えた存在ではなく人間的な規模の存在ということでしょう。古事記を読むと、今でいう超能力を発揮しますが、人間的なイメージも込めてあるように見えます。それらはアイヌの神々を含めて、その神々たちは後の時代から振り返り捉えられたような人間を超越した巨大な抽象化された神々ではなく割と人間くさい規模の神々だったように見えます。

 それが、次の段階になると、もはや神ではなく、特別の勝れた武将などを従来の神に対するようなイメージで捉えていくということになります。ここから、現在の芸能人やミュージシャンやプロスポーツなどをやっている特別の存在へのわたしたちの眼差しやイメージへとつながってきています。

 ひと言で言えば、怒れると同時に慈愛に満ちた母と同じような大いなる自然は、わたしたち人間を生み出した故郷であり、と同時にちっぽけな人間を超えた大いなる存在だから、目の前に大きく立ち現れたら圧倒され感動するのでしょう。