上賀茂神社さんが鎮座する北区には、貴舩神社が三社鎮座しています。貴船神社が明治まで上賀茂神社さんの摂社扱いで、色々揉めていたそうですが、そういった関係からか、上賀茂神社さんには新宮神社が勧請されており、その他、上賀茂さんの神領に勧請されています。その三社をお詣りさせていただきました。
二社は、昨年にお詣り済ですが、これからご紹介する貴舩神社さんは、お初です(•‿•)
深泥池貴舩神社
みそろがいけ、と読むそうです。
ところで貴船の「船」なんですが、御本宮が「貴船」、そこから勧請した場合は「貴舩」と書くのが正しいそうですよ(・∀・)
この場所は、鞍馬街道沿いにありますが、この時期(雪が降る季節)に、貴船神社御本宮への参詣が辛くなるので、寛文年間(1660〜1670)に御分霊を深泥池の農民らが勧請し鎮座する事になりました。
ご本殿は小さな祠ですが、とてもきれいに整備されていましたよ。
龍神祝詞〜大祓詞〜祝詞を奏上させていただきましたが、とても気持ちの良い風🍃🍃🍃がビュービュー吹いてくれました(◠‿◕)
ご本殿の真裏には弁財天社が祀られていました。右側の切り株は、数年前に倒れてしまった御神木の跡。弁財天社の祠を圧し潰してしまいました。
今は新しくなっています。さて、次は珍しくですよ(☆▽☆)
役行者さんが祀られていますが、よく見ていてくださいね◉‿◉
ダブル役行者
役行者像が2体並んで祀られているのは初めて見ました(ʘᴗʘ✿)
たぶん、他の場所で祀られていたのをここに集めたのでしょうね。
忠魂碑と秋葉神社なんですが、この地が、京漬物のすぐき漬け発祥の地なんですよ(゚∀゚)
火伏の神である秋葉社(なんで愛宕さんやないんでしょ?)が1200年前から祀られていたそうですが「秋葉大権現」として神仏混交の社であった為、明治の廃仏毀釈により、賀茂社の社家が社を打ち壊したんだそう。
翌年の春、社の修復を怠った村に大火が起こり、村人らは家財、農具の一切を焼失してしまいました。失意のドン底にあった村人が焼け跡を整理していますと、どの家の跡にも漬物桶だけが焼け残っていました。疲労と空腹に耐えかねた村人が漬物桶を開けますと、中の漬物は火が通り、良い匂いがしていました。村の長が漬物の茎を一本試食したところ、「酸い茎や」といったそうです。
酸い茎→すいくき→すぐき(^O^;)チャンチャン(;´∀`)
これがすぐき発祥の歴史なんだそうですよ。
池 大雅という、江戸期に活躍した文人画家、書家。その生誕地なんだそうですよ。
私も全て知っているわけではないので、こういった記念碑を気に掛けておいて、後に調べる様にしていますが、本当に勉強になりますし、新しい知見に繋がりますね( ╹▽╹ )
次もそうですよ。
こちらが深泥池になります。実は凄いんです。
周囲1.5km、面積9haの小さな池ですが、この池には西日本の平坦地では珍しい浮島があり、氷河期以来の動植物が今も生き続け、多くの水生植物、昆虫、魚類、野鳥等が生息するそう。
そして、深泥池の水生植物群落を保護する目的で、池が昭和2年に国の天然記念物に指定、昭和63年には生物群集全体が対象になったそうです。
映像に浮島内にある穴?が出てきましたが、面白い話がありまして、なんと!この地は、京都における豆まき発祥の地なんだそうですʘ‿ʘ
貴船神社御本宮と深泥池が繋がっている穴が開いていたそうで、そこから鬼が出現し、村人を襲ったそう。そこで村人は豆を投げて鬼を追い払ったそうで、その穴をふさぎ、塚を築いたそうです。
今では塚の代わりに神社に豆を納める習慣へと変化したそうですよ<( ̄︶ ̄)>
深泥池地蔵堂。
昔は、京都七道の入口に、七体の地蔵尊を安置していたそうで、内訳は①東海道の四宮河原、②木幡の里の奈良街道、③造道(作り道)の鳥羽街道、④西七条の山陰街道、⑤蓮台野の周山街道、⑥西坂本の大原街道、そして⑦深泥池の鞍馬街道で、人々は行路の安全を祈願していたのでしょうね。
しかし、ここから前出の秋葉神社さんと同じ様な話になります。
明治の廃仏棄釈の折、深泥池地蔵さんも、賀茂社の社家によって神領外に追放、地蔵尊は上善寺(上京区)に遷されてしまいました。そして、この村は大火に二度遭ってしまいました。
だって、このお地蔵さんは、小野篁作、とされていましたからね。それを見かねた、五条にある十念寺の西光組により、同じ小野篁作と伝わるお地蔵さんが遷されたそうです。
小野篁、後でちょこっと繋がります(^O^;)
ちょっと覚えていてくださいね(◠‿◕)
天斑駒は素戔嗚尊が忌服屋に皮をはいで投げ込んだお馬さんのお名前。
上賀茂神社さんには、神馬は重要な役割を果たしますから、神馬の守護神として祀られていたのかな、とも思います。
こじんまりとしたお宮さんですが、心地良いお宮さんですよ。
またお詣りさせていただきたいと思います。
続きます。