岡本正、病上手の死下手、2部 第一次結核療養 | オカポンのブログ

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岡本 誠 OKAMOTO Makoto

第一次結核療養

無知だった初期療養

栄養づけの毎日

それまで姉と妹の部屋だったところが、私の病室ときめられた。四畳半の部屋の中央に布団を敷き、西側の出窓の棚に、数冊の本をおき、枕もとの小机の上に、体温計や置時計をおいた。
いくら「病気だ」といわれても、私にはまったく自覚症状がなかった。セキも出なければ、タンも出ない。「肺病」という言葉を頭のなかで、何度も反芻してみるのだが、そこにはなんの実感もない。それでも私は、一日中寝床のなかで横になっていなければいけない。それは私にとって理不尽きわまる話だった。三度の食事を家族といっしょではなく、母がお盆の上にのせて私の部屋まで運んでくれた。一日寝ているのに、食欲もきわめて旺盛だった。
ビタミンCの補給だといって、毎朝、ごく上等の玉露をほどよくいれたものを、大きな湯呑み茶碗に一杯いれて、母がもってくる。帰りのおそい父が、毎日のように八つ目うなぎを買って帰り、それが朝食にそえられていた。夕食はたぶん家族のものと同じなのであろうが、おそらく一品ぐらいは、私のための栄養食が加えられていたにちがいない。
烏骨鶏という、羽毛は白いが膚の黒い鶏の血が結核によく効くといって、父が四羽ほどもらってきてくれた。飼っておけば情がわいてくる。母はこの鳥骨鶏を前に住んでいた家の前の鳥屋にあずけ、一羽ずつ料理してもらうことにした。一羽をしめるとき、朝早く弟が自転車でその血をもらってくる。それを私は目をつぶって飲む。午後、こんどは母がその鳥肉をもらってくる。私はそれを貴重な薬のように食べさせられる。一羽の鳥肉や臓物を全部食べ終わると、つぎの一羽が同じように処理され、私はその血を飲む。
近隣の人や父の友人が、「結核によく効く」という食品や薬まがいの品をつぎつぎと届けてくれた。
診療は、小学校の校医であり、私の級友の矢部清一君のお父さんでもある、矢部清吉先生が、週に二、三回ずつ往診してくれた。来るたびに、ていねいに打診や聴診をし、「うん、ぐあいはいいようだな」といい、なにか知らないが注射をうってくれた。そして、家族がそのあと、水薬と散薬をもらいに行き、私はその薬を食前、食後に忠実に飲んだ。
矢部君は府立六中から水戸高校に進学していた。矢部先生は診察が終わったあと、必ず、この息子の近況を話題にしながら、私にも「早くよくなって、岡本君も高等学校に入ることだ。高校の寮生活は楽しいらしいよ」などと、はげましの言葉をかけてくれた。私はそんな話を、うらやましいとも、くやしいとも思わないで聞いていたように思う。しかし、矢部先生の「ぐあいはいい」という言葉だけが私を勇気づけてくれた。

あせりと諦念

自覚症状はまったくなかったが、一日四回の検温では、午後、七度一、二分の熱が出ていた。それを体温表に記入するのだが、私はこの熱の一分の差がひどく気になり、何度も熱をはかりなおしたりした。
やはり受験のことが気になって、ときには英語や数学の参考書を読みなおすこともあった。旺文社の英語の単語カードは、寝ながらでも手軽に読めるので、これをくりかえし勉強した。完全に覚えたものはブリキ製の箱にしまいこみ、のこったものが片手で持てるくらいに少なくなった。午後の熱がすこしずつ高くなってきたのは、ちょうどそのころだったように覚えている。
東京商大に入った沢田二郎、東京高等工芸に入った寺本倭文男、浦和高校に入った石原敬一の諸君らが、ときおり見舞いにきてくれた。上級の学校が、中学校にくらべ、いかに自由であり、どんなに学生生活が楽しいか、私は友人の話に興奮し、そんな日は必ず午後の熱がいつもより高くなっていた。
転地療養をすすめる人も多かった。「私の実家の戸隠山には、そういう人が何人もいますよ」といってくれたのは、秋田家の隣の津田さんの奥さんだった。
「富士見の高原療養所に入ったら」とすすめてくれる人もいた。それは正木不如丘の名前とともに、私も話に聞いたことのある有名な療養所であった。小説に「結核患者」が登場するときは、必ず、この高原療養所が舞台になっていた。
中野にある市立の療養所へ入ることをすすめる人もいた。しかし「あそこへ入って、元気になって帰る人はいないそうですよ」と反対する人もいた。
父は、私のこうした病状をときおり瀬木先生に報告していたようだった。
八月に入って、私は急に八度をこす高熱を出すようになった。矢部先生が「肋膜炎を起こしたようだな」とつぶやいていた。安静といっても、私の安静は、ただ病室を出ないというだけのことで、ずいぶん気ままな生活だった。何度も体温をはかりなおし、そのつど私は、体温計を強くふって、水銀柱をおろしたりした。
心配した母が、そのころ近くにできたい太田病院の医師の往診を依頼したりした。その日から、私の病室は、わが家でいちばん広い八畳の客室に移された。食事の内容がいっそう豪華になった。母の顔に憂愁の色がこくなるのが、私にもよくわかった。
これはずっと後になって聞いた話だが、大田病院の医師は、私の病状がきわめて悪く、予後はいくばくもない、といった趣旨の話を母に告げたそうだ。
私は、瀬木先生の自宅に付属した、五室ばかりの小さな病院に入院することになった。それがおくれたのは、昭和十三年九月一日に関東を襲った台風で、鶴見川が氾濫し、東京と交通がとだえたためだった。私はいまでも、その台風のすさまじかったことを覚えている。父や母が、その台風のおかげで、私の入院がおくれることに、やきもきしていたことも記憶にのこっている。そのころ、私の午後の発熱は八度五、六分を上下していた。

絶対安静の八か月

はじめての入院

私が瀬木医院に入院したのは九月の中旬だったと思う。
瀬木先生は神田今川橋に診療所をもち、そこに毎日通っていたが、鶴見の駅に近い自宅にも、五室ほどの病室をもつ、「瀬木医院」の看板をかけていた。
そのころも、東海道線の西側は密集した工業地域であったが、東側は比較的閑静な住宅地であった。私は三畳の副室がついた六畳の畳敷きの病室に入れられた。「安静・栄養・大気」が、当時、結核の療養三原則であることは、どんなに無知な私でも、いつのまにか知っていた。しかし瀬木先生は、私の病室の南と西にあるガラス戸をいつも密閉しておくように指示した。
副室には、派出の看護婦が泊まりこみ、いっさいの面倒をみてくれた。島崎さんという、まだ若い、頬の赤い、小太りの看護婦が派出看護婦会から派遣され、この副室は、他の病室にいる軽症の患者や、三度の食事を運んでくる瀬木家のお手伝いさんたちの、恰好の溜り場になった。しかし、瀬木先生の私への指示はきわめてきびしいものだった。
大便の場合以外、いっさい起床することが禁じられた。小水は尿器でとり、三度の食事は仰臥したまま、島崎さんに食べさせてもらう。新聞をふくめ、いっさいの活字を目にすることも禁じられた。島崎さんが新聞を見出しだけを読んでくれた。口を開くことも最小限にとどめられ、先生は私の鼻先に真綿をもってきて、それが動かないような呼吸をするように命じた。
「死んだつもりになって絶対安静を守れ、日に入れた食物は七十回かむまで呑みこんではいけない。タンはどんなに小さなものでも呑んではいけない。島崎さんにチリ紙でとってもらえ。そうしなければ、きみは死ぬぞ」。
それは死刑の宣告のようなものだった。しかし、私はそれを固く守ろうと決心した。まだ、死にたくはない。私はそう自分に強くいいきかせた。
しばらくは高熱がつづいた。タンのなかに絹糸のような血線がまじるようになった。病院中にひびきわたるような、大きなセキが出て、そのセキの止まることを必死になって念じていた。
食事はかゆ食であり、副食にも、家庭にいたときのようなご馳走は出ず、魚は白身のものにかぎられ、肉といえばそれはすべて鶏肉だった。排便は、下痢をするかと思えば、コロコロとした小さな固い便をようやく排出するということのくりかえしだった。
瀬木先生は朝の出勤の前、必ず病室を訪れ、私をはげましてくれた。先生の留守のときは、「代診の先生」と呼ばれている人が、一日に数回、病室を訪れ、毎日、大きなビストンに入った大量の注射を静脈に入れてくれた。それは「葡萄糖カルシウム」という、大事な栄養補給剤だと教えてくれた。この注射をすると、全身があたたかくなった。私は、そのあたたかさが病気を治してくれると信じていた。
「代診の先生」は病室の一つを居室にし、一日まじめに勉強しているという話だった。当時、医大や医専を出ない人にも、国家試験による医師資格の道がのこされていたのだろうか。私の病室の副室である溜り場では、この「代診の先生」が薬剤師の免状をもち、いま、医師の資格をとる勉強をしているという話が、半分好意的に、そして半分は椰楡的に語られていた。
そのころ、私の、手術をしなかった左側の耳から少量の排膿をみるようになった。「代診の先生」は、この耳の治療もしてくれた。綿棒に薬をつけて、耳のなかをきれいにしてくれるのである。それが、いつのまにか左の耳の強い難聴をもたらしたことはすでに書いた。強いセキが、私の左の耳の中耳炎を再発させていたのだろう。
私は、溜り場での看護婦、病院のお手伝いさん、女性の患者たちのおしゃべりを、たった一つの社会へのつながりとして聞きながら、ひたすら安静を守った。
それは文字どおり、身動きひとつしない生活であった。南の窓の上段の一つだけがすいてみえる窓ガラスから、総持寺の森の梢だけがみえる。その梢にときおり鳥がとんできていた。それが私の視界に入る、たった一つの他の世界であった。夕刻になると、病室のすぐ下の道路で、中学生らしい若い男がよくキャッチボールに打ち興じている声が聞こえた。そして、そのなかに、若い少女の声のまじることがときおりあった。私はその少女の姿がみたくて、島崎さんに鏡をもってもらい、窓をあけ、その姿を鏡に写しだしてもらおうとしたことがある。島崎さんは、「一度だけよ」といって、この私の願いをきいてくれた。しかし、その少女の姿は、どう工夫しても、私の視界に入ってこなかった。

人型にうすくなったシーツ

病状はいっこうに好転しなかった。午後になると、三八度以上の熱が毎日のように出た。私はひたすら瀬木先生の指示どおり安静を守った。冬がきて、春を迎えたつ父は月一回、病院への支払いにやってきた。いつも、たくさんのお土産を両手にかかえていた。まだ幼い末の妹をふくめ、六人の子どもをかかえた母が、週一回くらいの割合で見舞いにきてくれた。見舞いの品は花であり、カステラであり、季節のくだものだった。その見舞いの品を、私はほとんど口にせず、その大半は溜り場の女性たちの夜の団らんの楽しみに供されていた。
母の見舞いの大輪の赤いバラを、島崎さんが、寝ている私からいちばんよくみえる壁に花瓶をつるし、きれいに飾ってくれたことがあった。私は、その赤いバラの美しさがこのうえなく疎ましいものに思われ、それを視界から遠のけてもらつた。花の美しさがあまりに強い生の息吹きを発散させていることに、私はどうしても耐えることができなかったのである。
春が過ぎるころ、ようやく私の症状は落ち着いてきた。セキが出なくなり、午後の高い熱もしだいに微熱になってきた。正確な数字を計測したわけではないが、体重もすこしずつ増えてきた。絶対安静八か月。この古典的な治療法が、無知のまま、医師の教えを固く守った私の生命を救ってくれたのである。
シーツを交換するとき、島崎さんが「岡本さんほど、きちんと安静を守った人も珍しいわ。夜なか寝ているときでも、ほとんど身動きしないんだものね。ホラ、ごらんなさいよ。シーツが人の形にうすくなっている」といって、古いシーツを手にかかげてみせてくれた。シーツには、私の足のかかとのあたる部分がはっきり二つ並んで、すけているのがみえた。そして、腰のあたるところ、背なかのあたるところも、そのかげをとどめていた。シーツの他の部分は新品のままだった。
私は勝った。いいしれぬ興奮が、このシーツをみせられたとき、はじめて私の心によみがえっていた。
退院したのは六月も終わりに近づくころだったと思う。迎えにきた両親と、島崎さんもいっしょに、私は家に帰った。島崎さんは二日ほど、わが家の賓客となり、故郷へ帰っていった。

転地療養の時代

蓼科高原・滝の湯

家にいたのはほんの一か月とすこしだった。私は瀬木医院に入院していたときと同じように、安静を守った。小用にトイレに行き、三度の食事を部屋ですわって食べることをのぞいては、じつと仰臥したまま、本を読むこともしなかった。「肺病」の烙印が私にいっさいの外出をためらわせた。
瀬木先生の退院時における指示「朝の涼しい時間にすこしずつ散歩をはじめること」が守れなかった。だれがいいだしたのかは覚えていないが、父がだれかに聞き、自分で直接現地をたしかめ、私は蓼科高原の滝の湯という温泉宿に転地療養することになった。
最近の蓼科高原についてはまったく知らないが、当時の蓼科は、中央線の茅野駅から出るパスの終点に、二、三軒の旅館があり、その周囲に売店ゃテニスコートがあって、高原のいわば中心になっていた。ここからすぐ下の渓流に面して滝の湯、この渓流のはるか上流に親湯、そして中心地よりやや低くなっている森の中に小斉の湯といった宿が点在していた。
滝の湯はかなり大きな旅館で、私が母と末妹と二人でこの宿に着いた頃は、家族連れの避暑客が多く、たいへん賑やかだった。しかし、母と妹が三日ほど滞在して帰京し、八月も半ばを過ぎたころには、本館からすこし離れた別館にほんの五、六組の長期滞在客しか残らなくなった。秋の紅葉のシーズンまで、蓼科高原はしばらく静寂の季節を迎えるわけである。
滞在客には、私よりすこし年長の青年がいたし、ご主人が満州に行っているという軍人の奥さんが、からだの弱い子どもといっしょに静養したりしていた。慢性の頭痛の治療のために、滝の湯独得の「温泉の滝を頭に浴びる」ために来ている中年の女性とそのお嬢さんとは、なにがきっかけか忘れたが、ときおり口をきくようになった。その話のなかに、府立六中から四年修了で水戸高校に入った弟さんの自慢話があった。因縁とは不思議なもので、戦後私が結核予防会の保生園に入院中、この自慢の弟さんと同室になるのである。
菅野正美。水戸の高校でポリオになり、病癒えて九州大学の医学部にすすんだ菅野君は、九大在学中、結核になり、手術を受けるため保生園に入園してきたのだ。私は彼との雑談のなかで、すでに十年近くたったむかしのことを思い出し、菅野君がまぎれもなく、蓼科で知った美しいお嬢さんの弟さんであることを確認した。菅野君とは今日まで相変わらず交友関係がつづいている。深大寺近くで開業している菅野君も、昭和五十一年の夏、九大で結ばれた最愛の奥さんを肺ガンで亡くし、いまだに意気消沈している。
蓼科高原で私はどんな療養生活を送っていたのだろうか。それが奇妙に漠然としていて、はっきりとは思い出せない。私はいつも飛白の着物を着ていたように思う。しかし、朝と夕方、私はきまって宿の周辺を散歩して歩いた。そして、道路をすこし分け入った茂みのなかで、アケビや野イチゴ、地梨などをみつけ、それを洗いもせずに食べたものだ。そんなときも私はやはり着物姿のままだったのだろうか。
温泉宿だから、みんなは毎日必ず、掘立小屋のようにつくられた温泉につかりに行った。しかし私には、温泉に入った記憶もない。八か月におよぶ絶対安静の習慣がのこっていたのだろう。私は終日、部屋の前におかれた寝椅子に横になっていた。その椅子は東京の自宅からわざわざ鉄道便で送られたものであった。
客の少なくなった宿では、毎日のように鯉料理を食膳に供した。それは鯉濃であったり、洗いであったが、私はそれをいつもおいしく食べた。東京からはよくお菓子や佃煮などが送られてきた。
私の散歩の足もしだいにのび、親湯や小斉の湯まで遠征することもあった。自然のなかに浸りきったような毎日がつづいた。毎日の検温も正常だったし、セキやタンもほとんど出なかった。
私はこの宿に、一冊も本を持っていかなかったように思う。仲間の滞在客から本を借りたり、宿に備えつけの通俗雑誌などを読んでいたのかもしれない。
十月に入ってまもなく、父が迎えにきて、私は東京に帰った。山の気温が急に下がり、夏の‘転地療養が終わったのだ。

房州・船形の海

東京へ帰るとすぐ、私は再び冬を過ごすために、房州へ行くことになった。すでに父が、そのための準備をしておいてくれたのだ。
館山市船形は、私が行った昭和十四年に館山北条町、那古町と合併して、市制がしかれたばかりの純漁村であった。最近でこそ、船形地区の就労人口に占める漁師の数は一割前後だそうだが、当時の船形では、漁師が全就労人口の七五パーセントを占めていた。
船形は、北に小高い山を背負い、南が館山湾に面しているので、冬は、房州のなかでもとくにあたたかく、雪が降ることはめったにないし、たとえ降っても、それはすぐ消えて、雪がつもるということがない。北に背負った山の中腹には「崖の観音」と呼ばれる観音堂が、山肌に密着して建てられていた。山と海を区切る国道の山側には、東京市立の養護学校があった。国道と海の間には漁師の家が密集していた。
私はその船形の北の端、富浦村に近い海辺に建てられた古い旅館「富田屋」の一室を借り、寝具その他を東京からもちこみ、蓼科にいたときと同じような生活をはじめた。散歩の道が山道から海浜に変わり、アケビや地梨をとるかわりに、潮のひいた磯でウニをとり、それを鉄鎚でわり、その卵を海の水で洗って、生のまま食べた。
富田屋は、老婆とその養女だという娘さんの二人だけですべてがまかなわれている、小さな旅館だった。夏には、それでもかなりの客が海水浴にくるということだが、私の行った季節には、十近くある客室の一室だけに客がいた。私よりすこし年輩の、これも私と同じ結核回復期にある青年だった。この青年も一日ほとんど室内にこもり、いつも本を読んでいた。
宿の娘は、すでに婚期をすぎている年輩だったが、やさしい親切な人だった。宿で出される三度の食事は、蓼科とちがって、毎日のようにちがった魚が出された。私が名前を知らない魚がいろいろとあった。それらは磯でとれるもので、東京の市場にはほとんど出荷されない種類のものということだった。名前を知っている魚は、よく「さしみ」で出された。いまではなかなか口に入れることのできないサザエやアワビが、しょっちゅぅ食膳を賑わせた。味噌汁のワカメも、東京で食べるものより、ずっとおいしかった。
富田屋のすこし南に「明神鼻」という小さな岬があり、その岬の南側に丸山と呼ばれる集落があった。国道と海辺のあいだの、猫のひたいのような狭い土地に、漁獅の家がびっしりと建てられていた。どの家にも庭というものはなく、庭がそのまま路地になっていた。
私はよく明神鼻の岩の上から海を眺めて、ときを過ごした。ここで私は、肋膜炎で漁を休んでいるという青年に会い、いつか親しく口をきくようになった。松崎兼吉君といった。
富田屋の私の部屋の窓からみえる、すこし大きい家で、朝早くから団扇をつくっている青年がいた。私はこの青年とも口をきくようになった。丸山の漁師の息子だが、幼時にわずらったポリオのため足が不自由になり、漁師をあきらめ、この団扇屋で働いているということだった。この青年が今津茂一君である。
兼さん、茂一ちゃんと呼ぶ、この二人の青年をとおして、私はすこしずつ漁師の生活を知り、そのなかにうちとけていった。この二人から、ある漁師の家の離れを紹介してもらい、私はそこで祖母と自炊生活をしてみたくなった。

祖母との自炊生活

「園七」という屋号の、その漁師の家は、那古船形駅の前で蕎麦屋をやっている中老の小母さんが、一日に一回、看病にやってくる老父がほとんど寝たきりの生活をしているだけで、ほとんど人の気配もない。その母屋の南に建てられた四畳半一間の離れは、海に面して南に大きな窓があり、まがりなりにも廊下がつき、台所も便所も付属していた。私はこの離れ屋がすっかり気に入り、見舞いに訪れた父に、ここへ移ることを頼んだ。
市原の祖母はそのとき、すでに八十歳をこえていたが、まだ矍鑠(かくしゃく)としており、私一人の面倒をみるくらい、たやすいことのように、私は思っていた。
昭和十五年に入って、あれはたぶん二月末のころのことだったろうか。母と祖母が房州にやってき、園七の離れに、私と祖母だけの小さな世帯が生まれた。それから昭和十八年の春、私が再び旧制高校に挑戦し、浦和高校に入学するまで、私はそのほとんどの時間をこの家で過ごした。私は、この土地と、この土地の人がすっかり好きになってしまったのである。
房州の思い出を綴っていたら、いくら紙数を費しても、きりがないだろう。
いつのまにか、私の部屋は若い漁師たちの夜の集会所になっていた。すでに物資が不足になり、砂糖などは配給制になっていたと思うのだが、船形の酒屋では砂糖が自由に購入できた。一杯の紅茶やコーヒーを、みんながひどく喜んでくれた。昼間は近所の小学生たちまで遊びにきてくれた。ときに、祖母が所用で東京に帰っているときがあると、この幼い少女たちが私を起こしにき、私が浜を散歩している間に、部屋を掃除し、朝食を用意してくれることさえあった。回覧板がまわってくると、私はそれを隣家にとどけるだけでなく、年老いたお婆さんが一人で留守番をしている家をまわって歩き、それを読んできかせた。
そのお礼であったのだろう。若い漁師たちは漁の帰りに、アジやサバなどを台所にほうりこんでいった。辻のところどころに小さな祠があり、年に何回も小さな祭があった。そのたびに漁師のおかみさんたちが、手づくりの寿司をとどけてくれた。
私の友だちの輪もしだいにひろがった。漁師の仲山銀治郎君、東京電力に勤める坂井義一君たちが仲間に入ってきた。
小さな阿弥陀堂の住職、五条昇運師のところへ私を連れていってくれたのは、だれだったのだろう。私は、この小柄で、底ぬけに明るく、すこしも坊主らしくない住職のところにも、よく遊びにいった。五条さんが法話を紙芝居にして、船形地域に子ども向けの説法をするのをお手伝いしたこともあった。
船形の小学校から中学に進学するのは、年に三、四人だということだったが、その安房中(現・安房高)の学生、加藤周久君、汐崎政光君とも、いつか交際がはじまった。二人とも私より三歳の年少であり、上級学校入学への意欲を燃やしていた。それに刺激されて、私も古い受験用参考書を自宅からとりよせ、すこしずつ勉強をはじめるようになった。
それでも、私のほとんどの時間は、隠居のような生活に終始した。二月になって、南の風が吹くと、浜辺にワカメがよく寄ってきた。老人や子どもはそれを竹の竿にひっかけてとり、それを浜に干し、小遣いをかせいでいたが、私はよくその仲間に入って、ワカメをひろった。明神鼻で糸をたらし、磯の魚を釣ったこともある。潮のひいた磯でウニをとって食べるのも相変わらずであった。

進学を断念する

昭和十六年の春、弟の光司が高校を受験することになった。加藤君は東京商大の専門部を、汐崎君は物理学校を受験するという。私も、思いついたように、急いで手続きをとり、静岡高校に受験の手続きをとった。そのころ東京商大予科は、浪人を敬遠するという話を聞いていたし、入るなら、気候のよい土地を選ばうと思ったのだ。
このときも、私は一次試験に合格し、二次試験で落ちた。このときは一次試験で定員の倍近い人間が合格していたので、私は、二次試験で落ちても、それは学力不足のもたらす当然の結果だと思っていた。しかし、級友、竹中の小母さんが、静岡高校に親しい教授がいるといって、わざわざ電話で調べてくださった。一次試験の成績はたいへん高位で、不合格の理由はやはり「結核」であった。
その年の暮、日本は大東亜戦争に突入した。それまで毎日のように行なわれていた、館山湾での急降下爆撃の演習が、その数か月前にばったり止んでいたことを思い出し、真珠湾攻撃成功のニュースに、私は万才を叫んでいた。
私はまた、もとの怠惰な生活に戻っていた。見舞いにくる父に「那古の海岸に土地を買って、牧場でもやらないか」と相談をもちかけ、一笑に付されたこともあった。
十七年の春、弟の光司が一年浪人して、水戸高校に入学した。加藤君も汐崎君も、その目的を達成していた。私には浪人五年めの暗い春が訪れただけだった。そのころ私は、上級学校進学への夢を完全に捨てていた。それがよかったのだろうか。私の健康はほとんど完全といつていいほど回復していた。
この年の夏には、私の弟妹や、市原、秋田両家の従弟妹たち、子どもばかり十人ほどが大挙して房州にやってきた。園七の離れのすぐ近くに、この数年、空家のまま放置されている二階建ての家があり、ここにみんなで合宿して、海水浴を楽しもうということになったのである。首謀者はおそらく光司だったのであろう。
秋田の美穂子は二十歳、悦子は十八歳になっていたし、妹の優美子も十七歳になっていた。これらの女性軍がいっさいの炊事の責任を負い、祖母には絶対に迷惑をかけないという約束であった。この十人をこす総勢がすべて祖母の血をひく孫たちだったのである。私は最年長の故をもって、この軍団の総指揮にあたらざるを得なかった。遊びの隊長は光司であり、私は美穂子たちと相談しながら、その夜の副食を何にし、どこで何を買うかに、もっぱら頭を悩ましていた。