岡本正、病上手の死下手、2部 保健同人社との結縁 | オカポンのブログ

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岡本 誠 OKAMOTO Makoto

保健同人社との結縁

浪人五年後の学生生活

限部英雄先生との出会い

昭和十七年の夏、大挙して房州に来ていた一族郎党が帰京するとき、私もいつしょに東京に帰り、それからしばらくの間、私は東京と房州を行ったり来たりする生活をしていた。
当然のこととして、私の将来をどうするかが、父母と私との間で問題になってきた。私は上級学校へは進学する気持をなくしていた。「では、どうするつもりか」という問いに、私は父のもっている映画館の経営をつぎたいといった。「活動屋にはなるな」。父は強くこれに反対した。
父はそのころ、自分のもっている映画館を他人に貸すことを考えていた。戦争の進展が映画館経営の興味を失わさせていたのであろう。父はつねに自分自身のことを「活動屋」と呼んでいた。その呼称はすでに過去のものであったはずだが、父はその言葉に、いくらかの卑下と、多少の誇りをこめて、あえて使っていたと思う。自分の考えを子どもに強制することなどほとんどなく、子どもの教育についても、そのいっさいを母にまかせていた父が、珍しく、きびしい判断をくだしたことに、私は一言も口をかえすことができなかった。
母は進学をすすめた。私は、どうしてもというなら、仏教でも勉強し、いずれは得度してもいいとさえ思った。母はこれにも反対し、「どこでもいいから、ふつうの学校に入り、入ったうえで、やはりそれが納得できないというなら、そのときはやめてもいい。身体検査にやかましくない学校をともかく探してみることにしましょうよ」としきりにすすめてくれた。
級友、竹中の小母さんが、具体的な提案をしてくれたのは、ちょうど、そんな議論がくりかえされているころだった。
竹中はすでに東京大学工学部に進学していた。竹中の小母さんが浦和高校の江見節男教授のところに私を連れていったのである。江見先生は浦高創立以来の化学の教授であり、竹中の小母さんとは古い知己ということだった。竹中の小母さんは、私のこれまでの事情を報告し、「むかし結核をやったというだけで、すっかり健康になった、これだけの秀才を、いまの高等学校はどうしても受け入れてくれないのですか」と、傍にいる私が赤面するようなことをずけずけと言った。江見先生は「私の教え子に限部という男がいる。中野の療養所にいるから、そこへ行って、いちどくわしい検査をしてもらいなさい」と、もの静かな口調で答えてくれた。
入院した人はみんな死んで帰ってくる。そう聞かされていた東京市立の中野療養所に、私は一人で行った。レントゲン写真をとり、検査のための喀タンをとり、後日、結果を聞きにくるように指示された。その療養所は広い敷地に古ぼけた病舎が並び、診療棟もくらく、雑然としていた。
結果を聞きにいった私に、限部先生は「まあ、ともかく受けてみなさい。学科でよほど良い成績をとらなければいけないな」とだけいい、私の病状については、直接なんの説明もしてくれなかった。
あとで知った話だが、浦高の第二回理科乙類の卒業生に、隈部英雄、鈴木邦夫、高橋智広という三人の結核医がおり、当時すでに、日本の結核医学の泰斗といわれていた岡治道先生門下の三羽鳥といわれて、その研究業績が学会の注目の的になっていたのだ。
そして浦和高校は、校医とは別に、学生の結核の管理をすべて隈部先生にまかせ、隈部先生の弟子の須田朱八郎先生が、浦高の結核管理を直接担当されていたのである。
これも奇遇といえば奇遇なのだが、須田先生は府立三中の生徒の間で、伝説のように話しつがれてきた秀才の一人であった。私たちより八年はど先輩になる須田先生は、静岡高校における左翼運動で検挙され、退学させられた。そのため、その後しばらくは、府立二中からの静高受験は禁忌とされていたというのだ。須田先生はその後、東京医専を出、戦後は民医連の初代会長として、はなばなしい活動をされる。
話を戻そう。私は隈部先生の話を江見先生のところに報告に行き、のこされた、わずかの時間を受験勉強にうちこんだのである。
そうして私は、五年間の浪人生活のあと、弟より一年おくれて、白線の入った帽子を頭にのせることができたのである。入学して最初の西洋史の時間に、当時、行元豊円教授とならんで、学生の自治活動にことごとく文句をつけるので有名だった吉岡力教授が、私の名前を点呼したあと、「君は合格できたのか」とつぶやいたのを覚えている。
おそらくは、浪人五年の結核回復者に冷たい目をもつ教授も多かったことだろうと思う。そして、それを救ってくれたのが限部先生の「完全治癒」という判定であったことも、まちがいあるまい。私は竹中の小母さんと母に連れられて、あらためて江見先生のところにお礼の挨拶に行き、「こんごとも、からだをくれぐれも大切に」と説諭された。

浦和高等学校

高等学校の真骨頂が教室より寄宿寮、またはその所属班にあることはいうまでもない。
多くの学生には柳田謙十郎先生の「哲学」が評判がよかったが、私には自分の所属班である文芸班の指導教官、栗屋豊先生の「心理学」のほうがおもしろかった。もっとも興味をひかれたのは、エロ徳こと藤田徳太郎先生の「国文学」であった。この日本歌謡研究の第一人者であり、日本浪漫派の歌人であった藤田先生の講義は、漫談、わいせつのようでいて、じつに蘊蓄の深いすぐれた講義であったように思う。もう一人秦慧玉先生の「漢文」、これは先生自身が、論語や孟子の説を解くというより、先生そのものの存在感が私を圧倒したものである。秦先生は現在、永平寺貫主である。
戦争中のこととて、運動部は剣道、柔道、弓道ぐらいしかのこさず、野球部は戦技班、卓球部は勤労奉仕班、陸上競技部は戦場運動班といったように名前をかえられ、そのほか機甲班などという意味のわからない班もあった。
文芸班はあったのだが、その所属班員は、すべて体操班に含まれ、表向きには文芸班はないことになっていた。
一年生は全寮制度である。そしてその部屋割は班ごとになされていた。最初私と同室だった者には、夜中の十二時になるとベランダから首を出して、星の観測日誌を英文で書いていた男がいた。もう一人は、ひまさえあれば、人けのない講堂でピアノを弾いていた。前者の名前は忘れたが、後者はその後、寮歌をたくさん作曲した栗原英也である。もう一人の理科生は二中の後輩の片桐道夫で、彼の兄貴の哲夫が、小学校、中学校を通じて私と同級生だったものだから、ほかの二中の後輩がそうしていたのに、彼だけは私を呼びすてにすることにたいへんな抵抗を感じていたようである。
文科の仲間は佐藤達夫、若いくせにその生活にはやくも幽幻の趣をたたえるものがあった。のちの東京大学考古学教授(故人)である。もう一人は、松本繁雄、現在タイ味の素社長、早くから語学の達人であった。しかし私は、病弱を理由に、一学期そこそこで、この寮を出てしまった。
下宿を紹介してくれたのは、文芸班の一年先輩の鈴木由次さんで、鈴木さんと私の下宿していた上野家は、文芸班の大勢の仲間がたむろし、梁山泊さながらであった。文学に関するかぎり、私はこの鈴木さんの影響をもっとも強く受けた。私は鈴木さんに連れられて、そのころはすでに東京に戻っておられた、鈴木さんの掛川中学時代の恩師である福田恒存先生のところへお話を伺いによく出かけたものである。そのとき私がどんな話をし、どんなことを教えていただいたのかはっきり覚えていないのが、せめてもの慰めである。覚えていたら、私は現在でも毎日のように赤面しなければ、暮らしていけなかったろう。ただそのときのいまは忘れてしまった記憶が、私の文学を育てていったことはまちがいのない事実である。
当時は、前にも述べたように西田哲学全盛の時代である。『善の研究』を読まざるものは人ではないかのようであった。柳田先生に私(ひそ)かに教えを受けるものが多かった。しかし私は、「あいつは靴屋だ」というところを「彼は皮革加工的履物生産並販売業者である」といったものの言いかたをするのが気に入らず、といってヴァレリーのような流行の哲学にもついてゆくこともできず、もっばら日本の古典を読みふけった。図書館から有朋堂の「国文学全集」全五十巻を次つぎと借り出し読んだものだった。
それともうひとつ私を夢中にさせたものに歌舞伎があった。これは二年生になってからのことだったと思うが、勤労動員で理研工業王子圧延工場に狩りだされ、その報酬で懐があたたかいせいもあって、当時「無人芝居」といって、大名題一人の独立興業があったのをよく観てまわった。菊五郎、吉右衛門、羽左衛門、猿之助などなど、いずれも故人であり、先代である。浄瑠璃や院本物の場合は、原作をノートにとり、それを暗記するほど熱中した。

逆トツと逆2

当時の高等学校の成績は、学課点と修練点の二本立てで、半々に評価されたから、いくら学課の成績がよくても修練点(修身、教練)がとれなければ必ず成績は悪かった。荒木博之は私が二年になったとき落第してきた級友だが、私と荒木はいっさいの教練、体操を見学し、ときにはその見学さえ抜け出してしまうのだから、二人が逆トツを争うのは当然のことであった。
そのぶん二人は、しょっちゅう駄弁っていた。これも勤労動員をサボってのことと思うが、北浦和駅から乗った電車が南ではなく北に向いてしまい、久喜から古河へ出、渡良瀬川と利根川の合流点で、日が暮れるまで話しこみ、その夜は古河に一泊、そのまま足利、桐生、伊勢崎と友人の留守宅を泊り歩いたことさえあった。
そんなとき私たちの会話には「精神の高貴性」とか「僕自身の神話」などという言葉がやたらにふくまれていた。荒木はその後、田舎大学の英語教師を転々として歩いたが、最近、広島大学に「比較民俗学」の講座をもった。四十年近くたつのに二人がたまに会うと、いまでもむかしの議論をむしかえすようになるのはどういうわけだろう。
十九年八月十五日、私は横須賀の武山海兵団に召集された。陸軍で不合格の烙印をおされた丙種合格者が、敵の本土上陸に備え、沿岸防備のために集められたというわけだ。だから、このときは召集兵の三分の一以上が、即日帰郷を命ぜられることになった。
私は王子圧延工場の全工員と、全勤労学生に見送られて出征した。じつはこの話を中野療養所の須田先生にしたところ、先生は、一枚のレントゲン写真に診断書を書きそえ、「これをなんとしてでも、徴兵官の軍医にみせることだ」といった。
私は海兵団に二週間いて、正式の入団式の前日、帰郷を命ぜられた。
同年十月の学徒出陣、弟の光司もこのとき出征していった。
二十年三月十日、東京大空襲、私はその凄じいばかりの炎を浦和の下宿の三階から望み見た。

東京大学文学部支那哲学支那文学科

東大の入学には試験がなく、すべてが高等学校からの内申書によってきめられた。私が支那哲学支那文学科を選んだのは、この学科がいつの年でも定員にみたないことを知っていたからである。それに冗談ではなしに、鈴木さんから「君の顔は支那文学をやる以外にないような顔をしている」といわれたことも原因のひとつであった。「唐の詩でも読みながら田舎の女学校の先生で一生を送りたい」とまじめに考えていたのである。
ところが、この思惑はまったくくるってしまった。倉石武四郎教授の演習「春秋左氏伝」と魚返善雄講師の「支那語伝記」が同時に開講された。「ハナ、ハト、マメ、マス」と古事記の演習が同時に行なわれているようなものである。それも「子日……」が「シ、ノタマワク」ならまだしも、「ツ、イェ」とくるのだ。わかるほうがおかしい。私は句読点や折返し点のない、難解な漢字を前に途方にくれるだけであった。その点、竹田復助教授の漢詩のほうがまだすこしはわかつた。
哲学のほうは高田真治教授と服部武助教授の講義をきいたが、これもチンプンカンプンであつた。記憶にのこっている講義は、国文の池田亀鑑教授の「文学影響論―白氏文集の源氏物語にあたえた影響」。それに中野好夫助教授の英語演習。テキストはウィリアム・ジェームスで、私ははじめてプラグマティズムという考えかたを体系的に知った。
(中 略)

保健同人社入社

一枚のはがきが結ぶ縁

戦争中の空襲で、父のもつ映画館は焼けていた。家族は、義兄・天野の縁で、信州赤穂町に疎開しており、東京の家は当時、日本銀行に勤めている人に家具つきで貸してあった。私は、それまで子供部屋に使われていた二部屋を使い、一人で自炊生活をしていた。次弟の光司は学徒出陣で出たまま、まだ中国から帰国しないでいた。
そんな状況のなかではあったが、私は再開された大学の講義に夢中であった。母屋からの家賃収入が百円あり、生活はなんとかなっていた。しかし、家族の帰京に備えて、今後の生活のありようを考えておく必要もあった。
それまでの、終戦をはさんでの約二か月間は、伊香保の奨健寮で過ごしていた。東京大学の法文系学生は、勤労動員を工場ではなく、新潟県の農村における、一家一名の割合での農作業の援助を行なうことになっていたからである。しかし、私のように農作業さえ満足にできない身体虚弱者は、薬草採取を名目に、奨健寮で転地療養に近い生活を送ることになってしまった。勤労動員も奨健寮生活も、それに参加することが、卒業のための単位に計算されていたのである。奨健寮にははじめ、指導教官としての学生課の主事と、健康管理のための医学部研修生が加わっていたが、終戦を間近にして、これらの人も多くの学生とともに、それぞれの家庭に引き揚げていた。あとには、家に帰るよりも奨健寮にいるほうがよいと考える学生三十名ほどが残った。私は最年長の故をもって、一年生ではあったが残留グループのハウプトに任ぜられ、学生課の主事から多額の金を預かり、その管理を一任された。困ったことが起こったときは大学に連絡するなり、同じ伊香保に疎開している医学部の塩田不二雄名誉教授の指示を受けるよう、いいわたされていた。
終戦時の混乱をなんとか無事に処理し、九月はじめには残留グループも伊香保を引き揚げた。このことが縁になって、九月の授業再開後も私は加藤学生課主事の部屋によく出入りしていた。
たぶん、年がかわった昭和二十一年の一月早々のことであったと思う。私は加藤学生課主事の机の上に一枚のはがきがあるのをめざとくみつけた。それは、ある結核療養書出版社からのもので、「アルバイトを求む。医学部または文学部の学生に限る」と書かれていた。私は即座に「これをぼくにください」と申し出た。先生は「それはきみ、困るよ。アルバイトを求める学生は多く、求人の募集はまだまだ少ないんだから……」という。私は委細かまわず、「ともかく、いただきます」といって、このはがきを盗むようにもちかえったのである。
その出版社は、結核予防会内の一室に事務所をかまえていた。私はそこではじめて大渡順二に出会うことになった。これが縁で、その後の一生を保健同人社とともに過ごすことになるのだが、そのときのことを私は、昭和三十七年十一月発行の『医者のかかり方実用篇』(大渡順二・岡本正) の「あとがき」につぎのように記している。

昭和十三年、満で十七歳になったばかりのときに結核になった。完全な社会復帰ができたのは昭和二十七年だから、まる十四年間、私はいつも結核といっしょに暮してきたわけである。ベッドにしばりつけられていた期間だけでも、前後十年になる。
人より五年もおくれて旧制の高校に入り、大学に入ってまもなく終戦を迎えた。終戦のおかげで親父から学資がもらえなくなったとき、たまたま、大学の学生課にきていた保健同人社の学生アルバイトの求人案内をみた。「医学部又は文学部の学生」とあった。結核の回復者で文学部の学生なのだから、最適任ですよと、押売りのように、学生課の主事を口説き保健同人社を訪ねた。
それから十六年間、私は保健同人社の禄をはんでいる。入ったときは、たしかにアルバイトのつもりだった。それが、週三日勤務の二か月めに、「よし、この仕事を俺の一生の仕事にしよう」と思い定めた。出版とか、編集とかいう仕事の内容に惚れこんだわけではない。そんなことがわかるほど重要な仕事をあたえられたわけはなく、ポット出の学生アルバイトには右も左もわからないことばかりだった。
正直にいって、私は大渡順二という男に惚れたのである。その情熱にうたれたのである。さんざん苦労した結核という病気。その結核に新しい予防と治療の体系が、学問的には完全に確立されているのに、それが一般大衆にはすこしも啓蒙されていないという事実。ただそれだけのことに、大渡は、己の後半生をうちこむべき仕事を決意していた。同じ結核のために五年間の人生を棒にふり、「結核回復者」の故に半人前の生活を余儀なくされ、そんな生活に甘えてさえいた自分がはずかしかった。
仕事を離れての大渡にも、私は新しい一つの理想的な人間像をみる思いだった。学校と病院と家庭と、狭い世界しか知らずに過してきた私にとって、それはなんと魅力ある人間だったことか。
それ以来、大渡は私の親父である。職を奉じ、月給をもらっている会社などとはなかなか思えない。十六年間、私は大渡の教えにしたがって、ものを見る日、問題を考える角度、文章に表現する技術を、すこしずつ勉強してきた。いつまでたっても不肖の息子であるが、私はこれからも同じ勉強をつづけたいと思っている。

ついでながら、この本を発行した経緯についても同書の「まえがき」から引用しておこう。

『医者の選び方』(大渡順二著)を書いて、世間に問うたところ、意外に反響が大きいのに驚いた。
これは、医者の世界が、いかに批判されないできたか? いかに患者である国民一般が、医者に対して言いたいことも言えないできたか? その端的な証明だと思う。
しかし、医者の選び方を考え直すということは、そのまま日本の医療を考え直すことにつながり、同時に、日本の医療制度の反省にも直結することなので、同書では、問題提起のほうに重点が移って、医者の選び方や、医者のかかり方の、具体的で、実用的な手引きを詳説する余裕が許されなくなってしまった。限りある頁で、これは残念に思ったことだった。
これに対し、読者から、実地の案内書を早く出せとの御注文がしきりにくるので、稿を改めて本書を上梓することにした。   .
だから本書では、議論めいた話はできるかぎり省いて、私たちがお互いに、読んだらそのまま役にたつような、医者の選び方、医者のかかり方の知識を、できるだけ豊富に盛りこむことにした。読者は、本書を読んで下されば、きっと、微笑をたたえて、正しい医者の門を叩くことができるだろう―― そう念願して、あくまで具体的に書いたつもりである。
私たちの独善的な表現に陥らないため、なるべく多くの人たちの言葉や、実際にあった挿話などを豊富に引用しておいた。私たち保健同人の過去の仕事のなかからも引用しておいた。考えてみると、私たちの過去十六年間の仕事を通じて、医者のかかり方をなんと執拗に、くり返しくり返し勉強してきたことかと、いまさらながら感を新たにさせられる。その決算書が本書である。
(中 略)
本書の内容は、私たち二人の共同作業(いや、本当は保健同人社全体の共同作業)だが、執筆に際しては、岡本正が責任担当してこれにあたった。

また、別の「あとがき」で大渡は私のことをつぎのようにほめあげてくれている。はずかしいほどの讃辞だが、臆面もなくこれも転載させてもらうことにする。

執筆を担当してくれた岡本正は、雑誌・保健同人の読者なら先刻御承知くださっているわが社の創立いらいのベテラン記者で、現在わが社の最高スタッフである。私のベターハーフでもあるが、私のもたない天稟をもった医学記者である。本書が、いつもの私のドグマチックな、野性的な筆でなく、手固く、信頼のおける筆致で書かれているとしたら、それは岡本の真骨頂であって、共同者として、私ならびに保健同人社一同から感謝と拍手を送りたい。今後の岡本の仕事を見守っていただきたい。

創刊号と私

昭和二十一年一月から、『保健同人』創刊号が発行された五月下旬まで、ともかく私は、週一日ないし二日、保健同人社でアルバイトをしたわけである。といっても、なにはどのこともできなかったことは前述のとおりだが、それでも私の取材した記事、依頼した記事が活字になっていないわけではない。
理化学研究所の井上兼雄氏に「いわしとほうれん草」を書いていただいたし、表紙第二頁の「六月の星座」は私が野尻抱影氏にお目にかかってお願いしたものである。
野尻さんは、私の身の上を聞きただし、「岡本君、若いときはいろいろ欲の多いものだが、他人のあまり手をつけないテーマをコツコツと一生かけてやつてごらんなさい。そして、このことだけについてはだれにも負けないというだけの勉強をすることですよ」。星の研究と英文学の素養をみごとに結びつけて「星の文学」の第一人者になっていた野尻さんならではの忠告であったと思う。
結核関係のニュースを取材に行った日本医療団では、近藤宏二結核課長が、傍にいた姉崎卓郎さんを指さしながら、「きみのような文科系の人が、姉崎君と同じように、その一生を結核撲滅のために尽してくれることが日本のためにどれはど大事なことか。アルバイトのつもりでいてはしくないなあ」といったことも、いまだに耳について忘れられない言葉である。
『保健同人』には俳句、短歌、川柳などの投稿欄が設けられていたが、その作品を近在の療養所などから集めてくるのも私の仕事であった。ところが、川柳だけはなかなか作品が集まらない。そこで社内に顔を出す人びと、大渡以下の全員が川柳を試作し、これを選者の川上三太郎先生のところにもっていった。ところが「桃井三児」の筆名で、私がつくった、つぎの三句が思いもかけず、たいへんなお賞めをいただいたのである。

寝たまんま雲と話の窓一つ
云はずともみんな知ってる母がゐて
手を合せ母の苦労をたべてゐる

川上先生の評は、「特に光ってゐたのが桃井君の数句であった。入選句もさうであるが、入選しなかった分も何れも素直で純真さが温れてゐた。″云はずとも″″手を合せ″の高い母性愛を有難く受取ってゐる態度がよい。″寝たまんま″の静かな心境も美しいものであった。今後の努力を強くお願ひする」。
努力どころか、その後の私は川柳にも俳旬にもまったく無縁の一生を送ってしまった。