岡本正、病上手の死下手、2部 私と結核 発病まで | オカポンのブログ

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岡本 誠 OKAMOTO Makoto

私と結核
――発病から社会復帰まで――

発病まで

私の生いたち

江戸っ子四代目

自分の生いたちについて語るなどということは、よほど偉い人のすることで、私の生いたちなど、どうでもいいことなのだけど、まあ、ここはすこし辛抱して聞いてもらうことにする。それは、私自身の六十年にみたない人生にとって、あるいは、この本の第一部を読んでいただいた方にとって、けっして無縁とはいえないからだ。
私は大正十年二月二十日、浅草・猿屋町で、父・徳太郎、母・幾んの長男として生まれた。男四人、女三人の七人兄弟で、私を除く六人はすべて病気らしい病気もせず、それぞれ一家をなしている。
岡本家の初代は、父に聞いた話に関するかぎり、浅草で菓子屋を営んでいた船橋屋徳兵衛である。わが家の檀那寺である、牛込原町の蓮紹山瑞光寺へ行って、過去帳を調べれば、もっと古いことがわかるのかもしれないが、その必要もあるまい。
徳兵衛はおそらく地方から、当時の江戸に奉公に出、のち独立して船橋屋を開いたのだろう。わが家の墓は、この徳兵衛が建てたものらしく、墓石には「岡本家」の文字がなく、ただ「船橋屋」とのみ記されている。
徳兵衛には実子がなく、夫婦養子で、祖父。吉五郎は、東京の東端、江戸川べりの葛飾郡東葛西領二之江村の農家、小川家の出である。祖母。つるは、父の話によれば、それでも旗本の娘だったというが、その旧姓もいまでは明らかでない。
父徳太郎は吉五郎。つる夫妻の長男だが、祖母は父の生誕直後に死亡し、祖父も、父が十五歳のころには死んでいる。
父には、吉五郎とその後添いの妻との間に次男・孝太郎が生まれたが、この義母とはまもなく生別している。理由は、この義母と父との間がうまくいかなかったためだそうだ。もっとも、これも父の話だから、その真疑のほどはたしかでない。
叔父・孝太郎は、小川家に実子がなく、その本家をついで、すこしばかりの田圃をもち、かたわら、ひび粗朶による海苔の生産をやっていた。屋号を「本屋ほんや」と呼び、半農半漁のほか、当時としては珍しい「貸本屋」もやっていたらしい。このあたりでは比較的裕福な家だったと考えられる。
孝太郎には、文子、安次、輝善の二男一女があり、この三人は、私とは戸籍上の又従兄弟であるとともに、事実上の従兄弟にあたる。父かたの従兄弟はこの三人だけであり、とくに長男・安次は私より二歳の年長で、私はこの従兄弟を兄のように慕い、戦後まで、昔のままの藁葺きの家(現・江戸川区江戸川六―三― 一)に住んでいたので、幼いころはよく遊びに行ったものだ。
母幾んは、市原五郎兵衛・ふじの長女として、小石川原町に生まれた。市原家はこの地で長く質商を営んでいたが、五郎兵衛の時代にはすでに家業が衰退し、祖父は当時、鉄道省に勤める下級鉄道員であった。しかし、屋号が上総屋で、姓が市原であるところをみると、千葉県の出身であることが想像される。
母には、兄に栄太郎、妹にりんがあり、りんは秋田喜三郎と結婚した。市原家には、房江、清年、延子の一男二女、秋田家には、美穂子、悦子、馨子、文夫、秀子の一男四女があるが、二人の従弟が私よりだいぶ年少であり、最近ではあまり深い交際はない。
ただ、市原の伯母、秋田の叔母はともに八十歳をこえて、現在も健在であり、私の父母の法要には必ず出席してくれている。
これはあとの話になるのだが、父は昭和三十四年五月七日、享年七十六歳で喉頭ガンのために死亡した。戒名は宝乗院善行日徳居士。母はその十二年後の昭和四十六年四月二十五日、脳軟化症で亡くなった。享年七十八歳、戒名は宝琴院妙薫日幾大姉。ともに牛込原町の瑞光寺に眠っている。
父はその生前、新しい墓を建立することを念願しながら、すでに自分たち夫妻が老齢であるため、「墓を建立すると誰かが死ぬ」という俗信を信じ、その死後、新しい墓を建てることを、それとなく私に頼んでいた。
しかし、私も世事にかまけ、新しい墓を建てたのは、昭和五十年の夏になってのことであった。それまでの墓は江戸時代建立のものだから、唐櫃はない。父や母の骨壷はそのまま地中に埋められていたわけである。
瑞光寺の住職、星野励温師の好意もあって、墓地も比較的広くとり、唐櫃をつくり、石の柵を設け、その中央にはじめて「岡本家之墓」と書かれた石塔を置いた。古い「船橋屋」の石塔も、私が五十年のあいだに何度か詣でた、懐かしいものだったので捨てるに忍びず、この塔を新しい塔の左側におき、バランスをとるため、右側には黒御影の墓碑をおき、それに父と母の戒名をきざんだ。
地中に埋められていた父母の骨壺は納骨のときそのままの姿をとどめていたが、祖父母のものは素焼きの壼であったため、壷に水がしみこみ、骨はその姿をとどめていなかった。五十年七月十二日、私たち兄弟七人が全員そろい、父母の骨壺を新しい墓にあらためて納め、墓前での法要をいとなんだ。墓前での読経を聞きながら、私はなんとはなしに肩の荷がおりたような気持であった。

私の祖父母のうち三人はいずれも東京生まれの東京育ちで、比較的早く、私の生前に亡くなっているが、母かたの祖母ふじだけは、越後国小千谷の在、時水村の出身である。新潟平野の南端にあり、小千谷縮の産地として知られている。そして、この祖母だけは長命で、終戦の年に八十九歳の高齢で亡くなるまで、外孫の私のことを蒻愛してくれた。
市原家の隠居なのに、二人の娘の婚家先である、岡本、秋田の家が近いせいもあって、毎日のようにわが家を訪れていた。
後年、私が房州に転地療養をしたときは、八十歳をとっくにこえているのに、私と二人だけで漁師の家の離れを借りうけ、自炊生活をしていたものだ。そのときの祖母は、いっさいの家事をしきり、私の世話をすべてこなしてくれた。
この祖母はたしか安政四年の生まれで、娘時代になるまで越後に育ったから、幕末の戊辰戦争をその目で実際にみていた。そして、その頃の官軍攻撃にまつわる話を、いくつも聞かせてくれた。
官軍の兵に姦されることをおそれて、小さな娘まで、眉をおとし、おはぐろをつけ、すでに人妻であることを装ったこと。越後の藩士が処刑されるのを目撃し、その首を落とされたあと、血のにじむさまが思い出されて、食バンに赤い苺のジャムをつけたものが、どうしても口にできなかった話。それを書きつらねていては際限がないだろう。
そんなとき、土地の農民たちが官軍に迎合してつくったという戯歌を祖母ははっきり覚えていて、私に教えてくれた。
 越後女子衆は五千石船よ
  長州・薩摩を上に乗す
 会津殿様枕はいらぬ
  なぜというのに首がない

父は尋常小学校四年を卒業しただけで、浅草蔵前の「青柳」という菓子屋に奉公に出ている。その当時、祖父吉五郎の商売がどんな状態になっていたかはよくわからないが、しだいに零落していったことだけはまちがいない。父が頼りにするのは二之江の小川家だけだったわけだが、父の話に、「藪入りをする家のない小僧の苦労など、おまえらにはわからないだろうな」という台詞があったことを思えば、父の苦労が並たいていのものでなかったことはまちがいない。
あれは戦争中のことだったと思う。浅草あたりが空襲をうける前だったか、後だったか、それはよく覚えていないが、父が私を連れて、蔵前の「青柳」に挨拶に行ったことがある。父が奉公していたころのお嬢さんが、養子をもらって店をつぎ、その子が当主になっていた。父が音のままのしきたりどおりに、いまはご隠居になっている昔のお嬢さんに深いお辞儀をして、ていねいな挨拶をのべていたのを思い出す。
その帰途、父は、私の挨拶のしかたがぞんざいであったことを咎めた。私はその叱言を聞きながら、父の姿に「江戸の町人」をみ、胸がつまる思いをした。
父が菓子屋をあきらめたのは、大正初期の恐慌で、年期奉公中の預金が反故になったからだというが、事実は、菓子屋のような忙しい商売より、サラリーマンの道を選びたかったというのが、父の本音だったと思う。
父は兵隊検査が不合格になると、やはり同じ浅草に住んでいた、叔母(吉五郎の妹)の紹介で、当時「活動写真」と呼んでいた映画の世界に身を投じた。
日本の映画会社のはしりである横田商会に入社した父は、はじめ、その直営の映画館で事務員でもやっていたのだろう。
私が生まれてすぐ、新潟県の長岡や静岡県の浜松に、短期間ずつ転任し、まもなく東京に帰って、当時の北豊島郡西巣鴨町に居をかまえた。
だから、私の幼年時代の思い出は、この西巣鴨からはじまる。

弱虫だった幼年時代

私の誕生祝いにとった写真は、まるまると太った、健康優良児そのものである。それが四歳ごろの写真では、やせた、いかにもひ弱そうな子になっている。母の話では、母乳で育っているうちは太っていたのに、乳離れをするとまもなく、やせてきたそうだ。
その、ひ弱い、貧相なからだの私は、といって大病をするでもなく、朝から晩まで外に出て遊び歩いていたという。
西巣鴨で最初に住んだ家は、三家という字にあり、当時「改正道路」と呼ばれた、池袋から王子に通じる広い道路(現在の明治通り)から、西に入ったところにあった。改正道路からの道は両側に商店が並び、その道からちょっと横町に入ると、狭い広場の真ん中に共同井戸があり、そのまわりに長屋が並んでいた。しかし私の家だけはふしぎに長屋ではなく、格子戸が玄関にひっつくように作られ、猫のひたいのような庭もある一軒屋だった。
この路地の入口の四つ角は、湯屋(当時は銭湯とか風呂屋と呼ばなかった)、洗濯屋、髪床(これも当時は理髪店などとはいわなかった)、薬屋で、洗濯屋のとしちゃんが私たちの餓鬼大将だった。
メンコやベイゴマにうつつをぬかし、駄菓子屋で水飴細工の買い喰いをし、流しの商人から、新聞紙でつくった三角折りの袋に塩豆一杯で一銭というのを買ったことが記憶にのこっている。「玄米。パンのホヤホヤー」という売り声も懐かしいし、当時の紙芝居は一枚絵ではなく、木の枠の舞台の上で、ボール紙製の人形がハデな立ちまわりをやってみせてくれた。
原っばではトンボがつれた。当時は長い竹竿の先にモチ(餅)をつけ、それでトンボをひっかけたので、「トンボをつる」といったのである。サンゴの原という広い原っばや、大きなガスタンクのある原っばが記憶にあるが、それが現在のどのあたりになるのかは、皆目けんとうがつかない。
現在、保証牛乳の本社があるあたりは、そのころ牧場で、その近くの原っばは私たちのトンボつりの主戦場であり、そこへ行くには小さな川(おそらくは妙正寺川だろう)の一本橋を渡らなければならなかった。それがいつも「こわかった」ことを覚えている。
昭和二年四月、私は第一巣鴨尋常小学校に入学した。その当時の通信箋をみると、身長一〇五・五センチ、体重一五キロ、胸囲五二センチ、概評「丙」、栄養「丙」、脊柱「後屈」とあり、入学前の身体検査で校医は「この子は二月生まれだし、からだも弱そうだから、入学を一年おくらせたら……」と忠告してくれたそうだ。
しかし、この一年間、私は、欠席、遅刻、早引が一度もなく、修業式には「皆勤賞」をもらっている。
成績は、修身、読方、算術、体操が甲で、書方、唱歌、操行が乙である。お行儀の良い子ではなかったらしい。
小学校へ入ってまもなく、私たちは同じ西巣鴨町の宮仲というところに引越している。これは三家とは、改正道路をへだてて、ちょうど対称点といえるところにあたり、三家が下町風なら、ここはやや山の手風の雰囲気をもっていた。現在のガン研病院に近く、家も改正道路に平行して走る、やや広めの道路に面し、門まで三、四段の石段がついていた。
もともとは、原さんという大きな屋敷の庭の一部を仕切って建てられた、「原さの貸家」であり、庭はそう広くなかったが、低い桓根でへだてられた原家の庭が、まるで我が家の庭のようで、えらく立派な家に移ったような気がしたものだ。
そのころ、父や母に連れられて遊びに行ったところとしては、名主の滝、飛鳥山の花見、刺抜地蔵の縁日、浮間が原の摘み草などが記憶にのこっている。そういえば、近くに「金正亭」という寄席があり、ときに子ども向けの演目を並べる日があった。そこで、どんな芸をみたかの記憶はないが、小鳥がおみくじを引いてくる芸が、そのまま福引きになっていて、大当りの柱時計をもらったことだけは、いまでもはっきり覚えている。

第二の故郷「西荻村」

関東大震災は私の生後二年半のことだから、私にその記憶はまったくない。
しかし、この震災のあと、いまでいう都心から西の郊外へ引越す人がふえ、親戚の市原、秋田両家は、昭和に入るとすぐ、当時、東京府豊多摩郡井荻町上荻窪と呼ばれていた、中央線西荻窪駅の近くに土地を買い、家を建てた。
井荻町は大正十五年、上井草村、下井草村、上荻窪村、下荻窪村の四村が合併してできたばかりの町であり、大字もこの四つの村の名をつけて呼ばれていた。
市原家は駅から歩いてわずか三分という便利なところに、そう広くない家を建て、秋田家は駅から歩いて十分くらいの、畑の真ん中に敷地二百坪、家の建坪が四十坪近い、大きな家を建てた。ところが、秋田の叔父が急に九州の門司に転任することになり、叔父のすすめもあって、我が家がこの広い家に住むことになったのである。
中央線に西荻窪駅ができたのは大正十一年、商店街といっては、駅から西へ女子大通り、南と北へ、それぞれ南銀座通り、北銀座通りがあるだけで、それも駅からわずか一〇〇メートルも行けば、商店はなく、あとは農家と新しい住宅が散在するだけ、一面の畑に、ところどころ雑木林がのこされている、まったくの田舎であった。
新しい家は、それまでの西巣鴨の家にくらべれば、これはもう「お屋敷」と呼んでもいい家で、庭には芝生が敷かれ、北側は大きな孟宗竹が植えられ、門を入ったすぐ右側、庭の東北にあたるところには、大きな砂場があって、二台のブランコが設けられていた。松を植えた小さな築山の裏は畑で、私たちはここに苺を植え、春には毎朝、籠いっばいの苺がとれた。筍は食べきれないはどとれたし、夏には近隣の農家が、大きな西瓜を四つも五つもとどけてくれた。
家の前の道は自動車など通れないような細い道で、この道を北に行くと、だらだら坂があり、坂を下りた辺りは、一面の水田で、その中央を善福寺川が流れ、橋を渡って、青梅街道につきあたった正面に、当時の井荻町役場があった。
善福寺川の水はきれいで、タナゴやフナなどがいくらでも釣れたし、土地の子はこの川でよく泳いでいた。イナゴをとり、カエルをつかまえていたずらをした。小さな沼に枯れた荻を浮かべ、それに火をつけるといった危険な遊びをみつかって、ひどく怒られたことも、いまとなっては懐かしい思い出である。
しかし、ここには駄菓子屋はなく、ベイゴマやメソコもなかった。遊びといえば、ドッジボール、水雷艦長、兵隊ごっこであり、家ではブランコに興じ、少年クラブを夢中になって読むようになっていた。
父は相変わらず映画会社に勤めていたが、この世界は小さな会社の栄枯盛衰がはげしく、父もそれに従って、いくつかの会社を変わりながら、営業関係の仕事を担当し、大都映画という小さな映画会社の営業部長を最後に、昭和八年ごろには独立して、いくつかの映画館を経営するようになっていた。
そのころは、かなり家計も裕福で、北銀座の商店街のはずれにある、西荻館という映画館が特別興行をするときなど、「西荻館さんへ・岡本徳太郎」と大きく書かれた幟がたち、学校友達にひやかされたりした。
私が西荻窪に移ったのは昭和三年の暮で、小学校二年の三学期から、桃井第三尋常小学校に転入した。
桃井第三尋常小学校は、昭和三年の四月に開校されたばかりで、最上級生が四年生、それもたった一クラス、男女組があるだけだった。一年から三年までは男女それぞれ一クラス、全部あわせて七クラスしかなかった。これはこの地の人口増にあわせて、町役場の隣にあった桃井第一尋常高等小学校から、その地域の生徒を分離し、荻窪駅の近くに桃井第二、西荻窪駅の近くに桃井第三が新設されたためで、五年生以上はそのまま桃井第一にのこったためである。
小さな小学校だった。広い校庭の一隅に校長の公舎があった。校庭の東側に建てられた校舎の北端に昇降口があり、その隣の用務員室に大きな湯わかし釜があり、太った小使さんが、お昼の弁当の時間に、その大きな釜の湯を柄杓でくんで、やかんに入れていたのを思い出す。用務員室の前には、手押しポンプの井戸があり、体操の時間のあと、ここで足を洗ったり、掃除の水を汲むために、みんなが交替でポンプを押したのも懐かしい。
校庭からみえるところに、中央線が走っていて、私たちはよく、その線路ぎわに並んで、お召列車をお迎えした。先帝の御陵が浅川にあったので、天皇陛下がここに行幸されることがよくあったのだろう。
桃井第三には、着物を着た土地の子と、しゃれた洋服を着た移住者の子が半々にいたと思う。それが上級にすすむにつれ、転校生がふえ、私たち第三回卒業生の男子組は、卒業時六三名だった。担任の篠原伊佐先生が、この六三名を逆にして、同級会に「山麓会」と命名してくれたので、私はいまでもこの数字を覚えているのだ。
小学校時代の思い出を綴っていたら、これも際限がないだろう。私は相変わらず、ひ弱で泣き虫のいじめられっ子であった。
六年生のときの通信箋だけが行方不明なので、小学校五年生のときのそれをみると、満十歳をすこしこえたときの私は、身長一二六・七センチ、体重二三キロ、胸囲五九・五センチとなっている。これを昭和五十二年度の「学校保健統計調査」の値にくらべてみると、身長で一〇センチ、体重で八・六キロ、胸囲で六・七センチ低いことがわかる“
最近の児童の体位が著しく向上したといっても、この体格はいかにも貧弱で、そのため私には「シナビ」というあだながついていた。一説には、私がなにかのはずみで男子の象徴をみられ、それに囚んでつけられたあだなとも聞いた。いずれにしても、私はからだの貧弱な子で、校医の矢部清吉先生によれば、概評「丙」、栄養「乙」、その他の異常「扁桃腺肥大・鳩胸」となっている。
転校生のなかには、それまでの学校で首席だったという子などが多く、学業成績の質は比較的高かった。だから私は、図画を除くすべての学科が甲だったのに、優等生にはなれなかった。
姉の奈々子が六年生、次弟の光司が一年生のとき、二人とも優等生で、弟などは、「以上総代・岡本光司」と呼ばれて、修業証書を校長の前まで受取りに行く役目をおおせつかっているのに、四年生の私だけは優等生の賞状をもらえなかったことがあった。そういうとき、私は比較的のんきで、それほど口惜しがりもしなかったが、母が「正だけが優等生でないのは、先生がおまえのいいところに気がつかれなかったにちがいないよ。だから、先生のかわりに、母さんがご褒美をあげよう」といって、かねてから欲しがっていた自転車を買ってくれたことがあった。
外へ出ることがきらいで、授業参観日や修業式にも、ほとんど顔を出すことがなく、私たちに「勉強をしろ」などといったことのない「非教育ママ」の母であったが、こんなところに、やさしい思いやりと厳しいしつけをみせる母でもあった。
「よわい、よわい」といわれながら、それでも私は、これといった大病をするでもなく、学校の欠席日数もほとんどなく、昭和八年二月、すこし水増しされた「優等生」の一人として、小学校を卒業した。
最近になって、当時の恩師でいまも健在の中田重三郎、篠原伊佐の両先生を招き、同級会を開くことが多い。そんな席で話題になったのだが、桃井第三の第三回卒業生は、その進路はさまざまだったが、結局、最終学歴が東京大学というものが十名もいるそうだ。よほど成績のいい子の多い小学校だったということになる。
その席で私は篠原先生から「岡本君は、答えにくい質問をよくする生徒だったね」といわれた。あまり可愛い気のない子だったことは、 この先生の一言がよく物語っている。いじめられっ子だったのも自業自得だったのだろう。
小学校時代の友人について語っている時間の余裕はない。おとなになってから交友の復活した友人には、読売新聞の大沼正君がいる。やはり同業のよしみといったものがあったからだ。この七、八年、大沼がいろいろの成人病に悩まされるようになってから、彼はずいぶん私を頼りにしてくれた。その大沼もつい最近、三月二十八日に死んだ。
卒業後の交友はとだえたが、谷井賢一君とは、通学の方向が同じだったせいもあって、いつもいっしょに帰ったし、彼の家にもよく遊びに行った。彼はいつもクラスの首席を占めていた秀才だった。
幼かった時代の思い出だけがつよいためか、彼と遊んだ日の思い出には、裁判官だというお父さんと、背が高く、美しかったお母さんの姿がいつもダブってくる。

中学生時代

中学の試験には、公立として、立川にある府立第二中学校(現・立川高校)を、私立として開成中学と立教中学の三校を選んだ。開成と立教の試験日が同じ日で、三中に合格したら開成を、不合格だったら立教を、ときめていたのである。
私は運よく、府立三中と開成中学の両方に合格し、どちらに進学するかに悩んだ。上級の学校への合格率では、当時も、開成中学のはうが上位だったのだ。しかし、この問題に結論を出してくれたのは、やはり篠原先生のつぎの一言だった。「岡本、きみはからだが丈夫なほうではないんだから、なにもわざわざ都心のゴミゴミしたところへ通うことはないよ。二中にしたまえ」。
二中での私も、なんと平々凡々たる生徒であったことか。これも最近になって頻々と開かれるようになった同期会で、私のことをどうしても思い出せない、という仲間さえいるほどなのだ。成績は上の下か中の上くらい、運動部は剣道部を選んだが、これも、とうとう初段にはなれなかった。
ただ、陸上競技部にこそ入れてもらえなかったけど、不思議なことに、マラソンだけはよく一等になった。体力も脚力もなく、肺活量も人並み以下だというに、妙にがまん強いところがあって、苦しいのをがまんして走っていると、いつのまにか一等になっていたということである。
ガリ勉でもなく、文学少年でもなく、スポーツマンでもない、一人の少年が送った中学生生活とは、いったい何であったのだろう。私は万事につけ、可もなく不可もない少年だった。
小学生時代、私たち一家は、夏休みになると、海べりの小さな家を借り、父だけを留守番にのこして、海水浴に明け暮れしたものだった。しかし、中学に入ると、私はもう、家族づれの避暑などがいとわしいものになっていた。そして、仲のよい仲間で、天幕をもって、山へ遊びに行った。それも当世風のしゃれたテントなどではない。学校にある正方形の布一枚に支柱二本という軍隊用の天幕だから、これを張るのには、どうしても四人で仲間を組む必要があった。そのつどメンバーに多少の変更があったが、私は在学中の五年間、欠かさず、一週間前後の野営生活を送った。中学生時代のもっとも大きな思い出といえば、この夏休みの天幕生活だったのではないだろうか。
一年のときは、中学のすぐ裏の多摩川べりであった。今では考えもつかないことだが、当時、甲州街道が多摩川をこえる日野橋の近くには、松の林や草原がたくさんあり、私たちはここに天幕を張り、毎日、多摩川で泳いだり、魚を釣って遊んだものだ。
二年のときは、すこし遠征して、奥多摩に行った。毎日のように天幕を移動させ、御嶽から日原まで歩いたのだ。
三年のときは、赤城山に登り、大沼湖畔に天幕を張った。四年のときは、富士山に挑んだ。天幕や自炊道具をつめこんだリュックは三〇キロをこえていたろう。これを背負って、河口湖から頂上をきわめ、山頂に一泊し、翌日には須走口をいっきに下って山中湖畔に着いたものだった。
五年になっても、受験勉強などそっちのけで、こんどは奥日光に挑戦した。尾瀬も現在のように開発されてはいなかった。上越線の沼田から片品まではバスがあったが、あとは片品から戸倉、三平峠をへて、尾瀬まで歩き、尾瀬から黒岩山の裾をまわって丸沼に着き、さらに金精峠を越えて、日光湯元に下ったのである。湯元から日光までももちろん歩いた。荒涼とした戦場ケ原から、中禅寺湖がみえたときの感激を、私はいまでも忘れない。一週間余の山歩きと天幕生活。雨に降られて、炊飯の焚き木になかなか火がつかなかったときの苦労、そんな私たちを近くの藪の中から、じっとみていた狸。目をつぶると、四十年も昔のことが、いまでもありありとよみがえってくる。それはまちがいなく私の青春であった。
同じ小学校から、竹中重夫、近藤俊夫、名取寛、片桐哲夫の諸君がいっしょに二中に進学した。そのなかでも、竹中君の家へはよく遊びに行った。小母様がたいへん世話好きな方で、たくさんの友人が訪問し、家のなかでどんなに騒ぎまわっても、すこしもいやな顔をされなかった。後年、私が結核を療養し、あらためて上級の学校を受験しようとしたとき、この小母様にはひとかたならぬお世話になったものである。
竹中の家で、竹中の従兄弟になる渡辺誠毅、渡辺正雄の兄弟にお目にかかったことも強い印象としてのこっている。正雄氏は私たちが一年のとき、二中の最上級生だった。私の記憶にのこるお二人は、いつも長髪によれよれの白線帽をかぶり、マントをはおり、高い朴歯の下駄を音高く鳴らしていた。それは私たち中学生のあこがれの象徴でもあった。二人の先輩が口を開くとき、私たちはいつも、いっとき神妙な顔をして、その一言をも聞きもらさないようにかしこまっていたものだ。渡辺誠毅さんは現在の朝日新聞社長である。


入学試験でわかった結核

中耳炎の手術

中学四年を終了するとき、私は東京商科大学予科(現。一橋大学)を受験することにきめた。そのころの私は蓄膿症に悩まされ、昭和十一年の秋から、すすめる人があって、高円寺の伊藤医院まで鼻の洗浄に通っていた。蓄膿症(正しくは副鼻腔炎)でも、私の場合は、それがすでに慢性のものになっていたので、副鼻腔と鼻腔をへだてる軟骨に穴をあけ、副鼻腔内を直接洗浄し、薬液を注入するもので、すこし通院をサボると、せっかくあけた穴がふさがってしまう。私は忠実に一日おきの通院を怠らなかった。
ところで、この治療を行なっているときには、鼻をかむとき、よほど慎重に、しかも片方の鼻腔別にすることが必要だった。中耳炎を併発するおそれがあるからだ。しかし私は、みごとに中耳炎を併発してしまった。はげしい痛みと発熱。現在なら抗生物質の服用で簡単に治ってしまう病気だが、当時はそうはいかず、鼓膜に穴をあけた治療で左側は軽快したのに、右側は乳様突起炎になり、即刻入院、そして手術ということになった。
手術は局部麻酔で行なわれたので、耳のうしろにメスが入り、重い鉗子がその傷口にぶらさげられ、鉄鎚でのみの頭を打ちながら、骨のけずられていく経過が手にとるようにわかり、私は、手術台に結わえつけられた手足をバタバタさせて、はかない抵抗を試みたものだった。
手術後は、患側を上にして、左向きに横に寝る以外にない。痛みが遠ざかるころ、伊藤先生は私の枕もとに数冊の推理小説をもってき、「これでも読んで、退屈をまぎらせなさい」とすすめるのだった。私は左側を下にした横臥の姿勢で、毎日、この推理小説を読みふけって暮らした。
これは後の話になるのだが、この不自然な読書のため、それまで左右とも一・五あった視力が、左の眼だけ、視力が〇・二まで落ちてしまった。いま考えれば、これはいわゆる仮性近視と呼ばれるものだったのだろう。しかし、当時はそんなことを知らないから、さっそく眼鏡を買った。だから老視のすすんだ現在でも、私は眼鏡なしに、遠方を右の眼、近くのものを左の眼で見ることによって、なんとか不自由しないで生活することができる。しかし、眼鏡は、結核療養中の一時期をのぞいて、つねにかけているようになった。
だから、現在使用中の、私の遠近両用の眼鏡は、右の上部と左の下部がほとんど素通しになっている。
中耳炎の手術のため、私は四年修了時の入学試験を受けることができなかった。試験の終わったあと、親しいクラスメートの沢田二郎君や寺本倭文男君たちが、その試験問題をもって見舞いにきてくれた。私はその試験問題を病床で解き、数学は全間正解を得ることができた。中学の五年生になって、私がそれまでより、受験勉強にすこし身を入れるようになったのは、このときの試みが私に多少の励みをあたえてくれたからだろう。
手術をしたほうの右耳は完全に回復したが、手術をしなかった左の耳は、結核療養中に再発し、少量の膿が出るようになった。そのときの手当が姑息なものであったため、その後、私の左の耳はその聴力をほとんど失ってしまった。左の眼の近視、左の耳の難聴、この二つが、私の中耳炎手術の後遺症になったわけである。
私はいまでも、人と並んで歩くとき、必ずその左側に立つ。軍隊経験のある友人は、それを「礼儀正しい」とよくほめてくれた。軍隊では、上官が必ず右側に並んで歩くことになっていると知ったのは、そのときのことである。
伊藤先生は慶応出身、東北弁のなまりのつよい、明るい性格の気さくな先生だった。私の手術中、術後の看護のために来ていた派出の看護婦さんに「おたくの会長さんは、いつもご飯を横にして呑みこむんだろうな。だから、あんなに背が低いんだよ」などといって、手術室の看護婦さんたちを笑わせていた。私は「こちらがこんな痛いめにあっているのに、なんという失礼な先生なんだろう」と、腹をたてたりしていた。
そういえばヽ術後の看護をお願いした派出看護婦の方が、たいそう美しく、礼儀正しかった人であることを懐かしく思い出す。数日のことだったが、この看護婦さんは深夜もきちんと和服をつけ、そのうえに白い割烹着のようなものを着ていた。私がすこしからだを動かすと、いつのまにか私のベッドの横に立っていた。この人は一晩じゅう寝ていないのではないかと、ふしぎに思ったものだった。

永住の家

話はさかのぼるが、たしか私が中学に入ってまもなく、秋田の一家が東京に帰ってきた。それでも私たちの一家はひきつづき秋田の家に居すわっていた。秋田家のほうで、私たちの、というより自分自身の家のすぐ近くに、家を借りた。その間の事情はよく知らないが、まもなく、秋田家は自分自身の家にもどり、私たちは、やはり西荻窪駅とそう遠くない、上高井戸に借家住いをし、ついで、東京女子大学の近くに小さな家を買った。それは商家を改築したものであった。
家の前が鳥肉屋をかねた小料理屋で、上の男の子二人、つまり私と光司の部屋にあてられた二階から、夜になると、この小料理屋での宴席がよくみえた。思春期にあった私たち二人は、「勉強のじゃまだな」などといいながら、この淫靡な世界を結構楽しんでいたものだった。
新しい家を建てることを、もっとも強く主張したのは、おそらく婚期も近くなった、姉の奈々子であったのだろう。
元の私の家、秋田の家と道路一本へだてたところに、百坪の土地を借り、約四十坪の家を新築したのは、私が中耳炎の手術をし、中学五年生になった、昭和十二年の夏のはじめであったと思う。当時としては、もっとも典型的な住宅で、西に面した玄関から、南と北に二本の廊下があり、この廊下に囲まれて、八畳と六畳の二間があった。玄関の左側には、ここだけが洋風の応接室、右側には、男の子二人、女の子二人のための二つの子供部屋。南面した廊下のつきあたりの茶の間と、北側の廊下のつきあたりの台所が、一つのセットになっていた。北側の廊下はいわゆる中廊下で、その北側に戸棚や浴室、洗面所などがあった。
この家で、私は結局その後の全人生を送ったといってもいい。十年はど前、老母の幸福を願って、私は家の前半分をとりこわし、ここに末妹の京子の夫、丸橋雅好に家を建てさせた。老母の面倒をみるのは末の娘がもっとも適している。私はそのころ、自分の編集する雑誌『これから』に、「末娘相続論」などという小論を書き、嫁と姑の問題に一つの提案をしたことがあった。
私はこの考えを母にも伝え、家を末妹に譲って、私たちがどこかの公団へ移ってもよいといったことがある。しかし、この意見は、母の「私はやっばり、岡本の家で葬儀をしてもらいたいね」という意見と、これもすぐ近くに家を構えていた姉、天野奈々子の「おばあちゃんは、なんとかかんとか言いながら、最後はやはり、あなたを一番の頼りにしているのよ」という反対にあって、実現しなかった。
家の敷地を二分して、末妹に家を建ててもらったのは、いわば私の意見と、母や姉の意見を折衷したものだったのである。私は雅好君に「おばあちゃんの部屋を東南に面したところに、そして水屋をつけて、ときには自分で勝手な炊事もできるように」という条件だけをつけた。
妹の家があまり立派にできあがったので、こんどは私の妻や子どもが、「わたしたちも……」「ぼくたちも……」といいだしたのは、それからまもなくだった。
半分とりこわしたとはいえ、三十五年も住みついた家には、どうしても愛着がのこる。雪見障子や四尺幅のよく日のあたる廊下、そして床の間と違棚、高い天丼、京壁を仕切る長押。こんど家を建てなおすとしたら、私の経済力では、とてもこんな家は建てられないだろう。
しかし、結局のところ、私は負けた。妻ははりきってプレハブ住宅の展示場をみてまわり、昭和四十八年八月、現在の家ができた。いま私は、その家の二階の、たった一つだけある畳敷きの部屋で、この原稿を書いている。

三重発赤だったツベルクリン反応

私たちの中学には、旧制高校組、陸士・海兵組、それに東京商大組という、三つの受験グループがあった。
旧制高校を希望する者が多かったのは当然であり、陸士・海兵に進もうとする者が多かったのは時代の風潮であったろう。この二つのグループの他に、とくに東京商科大学を受験する者が多かったのは、私たちの府立二中が立川市にあり、東京商大が神田一ツ橋から立川市に近い国立に移転してきたため、とくに親近感が深かったからだろう。国立という地名は当時はなく、東京商大の学生のために立川と国分寺の駅の中間に、その名をとって国立という駅ができ、その駅名が後に地名になったのである。
当時の国立駅は、原っばと雑木林のなかにぼつんと建てられた駅で、その乗降客としては商大と国立音楽学校の学生以外には、皆無といっていいほど寂しい駅であった。
私の属していた剣道部を含め、各運動部は、それまで行なわれていた、対府立二商戦、対府立農林戦といった定期の対抗戦のほか、対東京商大予科新人戦、対東京商大専門部新人戦などの定期対抗戦を、年に一回行なっていた。私にも、この対抗戦に出場し、手痛い敗北を喫した思い出がある。
当時の商大の入学試験には、Dictationという、英語の書取りがあり、私たちの受験勉強のために、商大の先生がわざわざ出向いて、そのテストをしてくださったりした。
私たちの同期生は四クラス、約二百名の生徒数であったが、東京商大予科に四年修了で入学した者五名、現役で五名、浪人で四名と、私の記憶している者だけでも十四名もいる。実際はもっと多かったにちがいない。
私は当然のことのように、東京商大予科を受験した。理由といっても、別にこれといったものがあったわけではない。大勢受験するから、私もその仲間に入ったというだけのことだったと思う。募集人員は二〇〇名。第一次の筆記試験に合格した者二〇二名。私もそのなかに入っていた。これは合格したと同じことだった。あとは面接試験と身体検査が行なわれ、よほどのことがないかぎり、合格は保証されていたからである。
身体検査を行なったのは、陸軍の制服を身につけた、数名の軍医であった。この試験で私たちは、右腕の肘の下に皮下注射をされた。翌日みると、その注射の周囲が真っ赤に腫れていた。その発赤は大きく、二重になっており、翌々日には、注射部位のあたりが紫色にふくれていた。私は当時、その注射と、私におこった反応が、どういう意味をもっているのか、まるきり見当もつかなかった。
身体検査の翌々日に、私たちはもういちど商大に行き、その注射のあとの反応を検査された。数日後の正式の合格者発表の掲示板に私の名前はなかった。合格者の数はきちんと二〇〇名になっていた。
合格者が正式に発表された日の翌日、あれほど外に出たがらない母が、一人で東京商大に行き、不合格の理由を聞いてきた。
「試験の内容についてはいっさい公表しないことになっているのですが、あなたのご子息の場合は、健康上の問題です。病気を治してから、もういちど来てください」といったそうだ。母の質問に答えた病名は「結核」であった。
当時の私は、からだこそ貧弱であり、一年前に中耳炎の手術こそ受けていたが、まったく健康であった。剣道の素振りを五百回くりかえしてもへばらない体力をもっていた。五年生のときの運動会でも、一五〇〇メートルのトラック・レースと、一万メートルのロード・レースで優勝していた。
試験の身体検査で行なわれた、注射による皮膚反応の検査が「ツベルクリン検査」というものであることも、そのときになってさえまったく知らなかった。「結核」という名の病気は、小説で読んだことがあるだけであった。・
私の親族にも、私の級友にも、結核患者など一人もいなかった。
私は「くやしい」と思うより、ただ途方にくれるだけであった。
父の古い友人であり、そのころ神田今川橋のたもとで、「レントゲン科」を標榜して開業していた瀬木嘉一先生のところに、私はさっそく連れてゆかれた。
瀬木先生は、レントダン写真をとり、ていねいな診察をすませたあと、「落ちてよかったですよ。入学試験のおかげで病気をたいへん早く発見できたことを感謝したほうがいいくらいです。結核という病気は、早くみつけ、安静にし,栄養をとっていれば、必ず治ります。とりあえず自宅に病室をつくり、そこで絶対安静を守り、お母さんにうんとご馳走を食べさせてもらうことですね」と、やさしく私を慰めてくれた。そういわれても、私にはなんの感慨もわかなかった。そこでも私はやはり途方にくれるだけだった。
帰りに、新宿で父がご馳走してくれた、「雀の小父さん」という店の雀焼きのおいしかったことだけをはっきり覚えている。