岡本正、病上手の死下手、1部 ガンの宣告を受けた夫と共に | オカポンのブログ

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岡本 誠 OKAMOTO Makoto

ガンの宣告を受けた夫と共に
岡本光恵

昭和五十四年四月十六日、主人が順天堂大病院に再度検査入院をした夜、病棟担任の宮坂先生より電話がありました。「明日三時、消化器外来にいらしてください。栗原、池延先生と一緒にご主人の病気の経過説明をしたいと思いますので」とのこと。一瞬、私は主人の病気が何であるかをさとり、受話器を置いてから、ふるえる足をなんともしがたく、そのままソファにうずくまってしまいました。
四月十七日、午後三時、外来患者もまばらになった中、先生方は、主人のぶ厚いカルテとレントゲン写真を前にして「結論から先にいわせていただければ、ご主人の肝膿瘍は、じつはガンです。五年前の結腸手術のときのミオーム(平滑筋腫)もガンだったのです。その転移と考えられます……」。
私はそのとき、日の前のすべてのものの色が消えてしまったのを覚えております。レントゲン写真をかざしながらのご説明も私の目にはもう、どうにも写ってこないのです。いまは手術の希望も、薬の適応もない、死の時期をいかにして延ばすかだけが、残された道だと知ったとき、二十三年間の結婚生活が束の間の出来事であったかのように短く感じられてなりませんでした。
神様、何故こんなに早く主人を病魔におそわせたのです、十年早すぎます。
私は三人の先生の前で手ばなしで泣いてしまいました。「五年前のことは、診療所長の村田先生と大渡社長だけが知っていたのですが、奥さんにはこれまで内緒にしてきました。申しわけありません」「いいえ、知っていてびくびくと暮らすより、知らないで五年間生活できたはうが幸せだったのかもしれません」。

四十九年の六月の手術の日のことが、ついきのうのことのように思い出されてまいりました。あのときも私は心の中で八〇パーセント悪性を疑い、ショックのあまり嗅覚喪失をきたしたものでした。手術のあと、執刀にあたった城所教授から、切りとった上行結腸を前にして「腫瘍の部分はこれで、悪性ですとこの部分の立ち上りがちがいます。これは単なる筋腫です。ポリープが三つとれました」とのご説明がありました。
直径三センチ位のその腫瘍のためにこんなに長く腸を切りとったことに、少し疑間も感じましたものの、ある血管の支配下にある腸はすべて切りとらねば、あとで壊死をおこすということを、術前にお聞きしていたため、これでよいのだと自分なりに納得しました。
外科は術後一日一日よくなっていきます。希望ある病棟見舞いだったことを思い出します。
そして五年後の今、痛みへの不安と、どうにもならないもどかしさにさいなまれて、病室にいまや遅しと私を待つ主人の前に、泣き顔をみせることは、大いに危険(病気が知れる)であることを気づかって、先生方は「きょうは会わないほうが……」といってくださいました。ちょうどその日、銀座の画廊で友人の個展オープニングに出席のため、親友と有楽町で四時半に待ち合わせる約束をしていたこともあり、私は洗面所に行き、冷たい水で泣きはらした目を冷やし、主人に会った之きは、胸が一杯になりましたが、約束の時間がせまっているからといって、何分と顔をあわせず早々に別れることができたのです。
何か月か先に死の淵に立たされる夫を思うとき、人間、精神的なことから夫婦別れするなど贅沢だと思いました。ともに自髪のはえそろうまで、健康で、頼りあって生きていけると思っていたものに「ガン」という、何と残酷なむなしいひびきをもった言葉でしょう。
現代の医学の進歩も、早期発見、早期治療という以外に、全治の決定版はないものか。私は翌日、主人の書斎にある、この事に関する本をかたっばしから読んでゆきました。しかしいま、主人の病気を根治させる記事はなく、ガンと闘う科学評論家、丹羽小弥太さんの手記に力づけられただけでした。「四回の入退院をくり返し、延べ七百日以上、病院のベッドで大小七回の手術を受け、自らを肉体的にひどいポンコツと化しながら、なお図々しくも生きつづけている」と。
若いころ、結核で一度は一週間の命といわれたことのある主人が、五十八歳の今日まで、人並み以上に仕事ができたことは、やはり現代医学の進歩に感謝せずにはいられません。そして結婚して二十三年間、ただの一度も苦労らしい苦労をあじわったこともなく、幸せだったことの主人への感謝の気持で胸がつまり、このさき私が何年生きようと、私は幸せの先どりをしたのだと自分にいいきかせたものでした。
思えば四月九日から二泊三日で伊豆長岡の三養荘へ、夫婦だけの旅をすすめてくださった大渡社長には、そのお心づかいほんとうに有難く感謝いたしております。私たちは二人ともこの病気を知らないままに大瀬岬や、浄蓮の滝まで足をのばし、たくさんの写真をとり、またスケッチをして歩きました。このときのスケッチは一生の思い出として油絵に仕上げてあります。「銀婚式にはまたこようよ」と約束したことは、いまはむなしい夢となりましたが。
五月十日、順天堂を退院することをすすめられ、少なからず不安と疑間をもっていた主人は、自宅で一週間、悶々としておりましたが、肝膿瘍の痛みに対する不安はつのるばかりでした。かねてより信頼していた菅邦夫先生に一度きっばりした解答を与えて欲しい、なにか重大な病気を順天堂の先生は見落としているのではないかという気持が頭から離れないようで、主人は病末から電話で往診を依頼してしまいました。
五月十五日、西荻窪の駅で菅先生をお迎えするにあたり、私には十五年前「岡本正を励ます会」にご出席くださったときの写真だけが頼りでしたが、大きな往診カバンをさげた先生は一日でわかりました。私はその場で、先生に「じつは主人は知らされておりませんがガンなのです。しかし先生のご診察を待ちのぞみ、先生のご判断を先生の日から話していただけることを期待しておりますので、よろしくお願いいたします」と申しあげ、タクシーをひろう間もまた涙が流れてしかたがありませんでした。
菅先生はていねいに診察されたあと、「この痛みの原因は、からだのもつ一種の修復作用からくるひきつれのようなもの」という結論をだしてくださり、主人も納得いったようでした。そして自宅ではなかなかたいへんだろうから、やはり病院でじっくり治療にあたるようにとのご指示がありました。
村田先生、村上先生のお力添えで、さっそく都立豊島病院の個室をあけていただいたときは、ほんとうにはっとしました。
でも順天堂の先生から、病状からいって六月いっばいかと開かされていただけに、これで主人も、新築して五年目のこの家にもどれないままになるのではないかと思うと、入院の荷物をタクシーに積み込みながら、その細くなった背中に涙が出てしまうのです。入院をあせらずに、もう少しの間ゆっくり書斎に座って、このたくさんの本やら切抜きの山の処理を指示して欲しい、そう思ってはみるものの口に出せず、痛む背を見せる後ろ姿がなんともあわれで、胸がきゅ―んとしめつけられる思いでした。
豊島病院に着き、胸部レントゲンと心電図をとった主人は車椅子で北五階病棟の五一六号室に運ばれました。ガランと広いソファ、トイレ、洗面所つきのこの部屋は、九年前、この病院で亡くなった主人の母の隣室だったのです。
自宅から片道一時間はかかるこの病院への通院は、折からの厳しい真夏の陽ざしの中でのこと、なぜこんな遠くの病院に入らねばならなかったのだろう、治していただける病気でもないものをと、自分のからだの不調とあわせて、うらみがましく思う日も何度とありました。
ある日、主治医の町井先生から、病状を詳しく伺い、いまは痛み止めと消化剤しか与えられていないことを聞き、私はいまがチャンスと、わらをもつかむ思いで、丸山ワクチンの注射をお願いしました。
先生のご許可のもと、私は六月七日、日本医大に向かいました。新患用の白い札をもらい、長い廊下を案内されながら、こんなにも毎日、新患の家族が多いのかと驚きました。私の診療券を見ると一〇四九八〇番となっています。すでにこれだけの人が使用し、またこれ以上のガン患者が全国に闘病生活をしているということなのでしょう。私の前後の方々に話を聞くと、「青森の姉です」、「名古屋の母のため」といいます。皆こんな遠くから最後ののぞみを託してきているのだ、主人は否定的だったけれども、私はこの丸山ワクチンに何らかの効果を望めるのではないかと思いました。つい先月まで、遠いだれかの問題のように思っていた丸山ワクチンを、今ここにこうして夫のためにもらいにきている私が、どうか夢の中の自分であって欲しいとつねってみたりもしましたが、あとはやはり涙が出てきてしまうのです。
四十日分、AB二〇アンブルの注射液が手渡され、帰る道みち誰かれかまわず語りかけ、情報を一つでも多く知ろうとしました。とにかく食欲がおちないこと、痛みがやわらぐらしいということを聞き、病巣は根治せずとも、この二つだけでもどれはど救われることか、私は祈りをこめてこの箱を看護詰所におとどけしました。
七月も半ばを過ぎる頃、不眠こそあったものの、一般状態が好転し、腹部のしびれ感が、飛松先生の通電ハリ治療のためか軽くなった頃から、なんとなく元気づいてきたときは、どんなにかうれしかったでしょう。一歩も病室から出なかった主人が、ロピーまでお茶をわかしにゆき、朝七時半には必ず、電話をかけてよこすようになったのです。でもやはり病状の急変もあり、電話が遅いと、もしやと、不安になる日もありました。
私のほうも、毎日の見舞いに、朝起きられない日もあり、足がしっかり地につかず、家に戻り横になると足が燃えるような熱感がある、といった不快な日が続きました。しかし限られた命のなかで、一日休むとそれだけ主人と共にある時間がけずられてしまう。話好きの主人の言葉がきけなくなる。自分が寝ついてしまったらどんなに主人が不安がることか、しっかりせねばと思いながらも、胃が重い、腸が動かない、背中が痛いなど、私自身ガンノイローゼになってしまいました。
朝の散歩も許可されるようになって、病院の屋上から大山界隈を眺めたという話を聞いたとき、 一瞬「もし主人が病名を知ってしまっていたら、屋上から飛び降り自殺もやりかねない」と、ぞっとしたことでした。
毎夕回診くだきる町井先生に、不眠と痛みを常に訴える主人。いつもおだやかにアドバイスをしてくださる先生。「あなたはガンなのです、これはその痛みなのです」といってしまえばすむことでしょうに、患者の立場に立ってそれにやさしく答えてくださる先生に心から頭がさがりました。患者は訴えることをあれこれ胸にひめて明けくれ、医師からその答えをもらえるだけで、どれほどの一日の安らぎが与えられることかをあらためて知りました。
その頃、胸部へのガンの転移を知らされました。先生は呼吸困難を心配されたようでしたが、その後の進行は止まっていたのか、それから半年間なんらそのトラブルがなかったことは、ほんとうに看護する者にも救いでした。
そんなある日、主人から「昨夜いやな夢をみた、肝膿瘍がじつはガンだつたという……。それから眠れなかったよ」といわれたのです。気のせいかその日は食欲がないらしく夕食もあまり手をつけません。私はそのお膳をみて、つい涙をみせてしまいました。「ごめんごめん、ぼくがへんな夢の話をしたから」という主人に「こんなに食べられないから悲しくなってしまった」と私もごまかすことに必死でした。あとで主人のメモ帳をそっとのぞいたら、「光恵に昨夜の夢の話をして泣かせてしまう。失敗」と書いてありました。
夢でよかったと思っている主人に真実などどうして告げられましょう。毎日、午後六時過ぎ、五階の廊下の窓から手をふる主人を仰ぎ教ながら別れて大山駅に向かう道で、私は何度ガン細胞をのろい、大声をあげて泣いたことかわかりません。
八月半ば、主人が散歩をかねて大山の駅近くまで見送ってくれ、小さな喫茶店で、二人でアンミツを食べた日。あれほど甘いもののきらいな人が、共にアンミツをはおばっている図は、結婚二十三年にして後にも先にもこの日限りとなりました。
八月二十日、外出の許可をもらい、会社を訪間、昼食を同僚の方と共にし、社の診療所にもまわって村田先生と宗教論、文学論をかわしたとか。ほんとうに信じられない元気さをとりもどしたことに、私は先生方への感謝の気持でいつばいでした。
そのあと主人は、年末頃には社会復帰をと、意欲的に新聞の切り抜きを始めました。ベッド上での変則的な姿勢が、背中の痛みを強め、その日は湿布をお願いする始末でした。赤鉛筆でしるしをした部分に私がはさみを入れていると「きみにはときどき見落としがあるから」と二度みるはどの徹底ぶりに、私は再びこれを読みかえす日はこないかもしれないのにと、心の底で泣きながら手伝っていたのです。
そのなかの一つに、三十一歳のご主人が入院して十か月、ガンと闘う日々のことを、「病床の夫と過ごす最後の日々」と題して綴った記事がありました。この方はまだ二十七歳で、「小さな子ども二人を残されどうやって生きてゆくのか― 。何か月かののちに、こんなにもつらいさびしい思いをさせたまま、さっさと一人で逝ってしまうのかと思うと、むしろ腹立たしくさえなった。とはいえ、衰弱し痛みに耐えている姿はなんとも残酷で、 一日も長く生きてもらいたいと思いながらもまた早くこの痛みから解放してあげたいとも思うのである……。」と記してあり、まさにいまの私と同じ心境だと感動させられました。いま私に残された二人の子どもは、大学四年と高二の男の子であったことは彼女よりずっと幸せであると思うのでした。
私は日ごとつのるやり場のないさびしさを、どうしたらよいのか。五年前、主人が順天堂で手術をしたとき、病室がご一緒だった、学習院大学仏文科教授の山本先生がその後、肺ガンで四十六歳の若さで亡くなられている。あの明るかった奥様は、どう気持の整理をされていったのだろうか、そう思うと急にお会いしたくなり、お電話してしまいました。「あの時は、子どもさえいなければ、私も一緒に死にたかった」とのこと。でもいまは、ご長男もお嬢さんもそれぞれ志望の大学に進まれ、みなが必死で生きておられる由。奥様は「人間悲しがってばかりいてもしかたありません。病気のご主人には最善を尽くし、悔いを残されないように」とのことでした。
札幌の私の八十三歳になる父には、いたずらに落胆させまいと思い、しばらく内緒にしていましたが、あるときやはり知らせておいたほうがよいと思い、電話したところ、一週間もしないうちに一人で予告もなく上京してまいりました。手荷物の中には喪服までしのばせていたほどで、私の悲嘆ぶりが、こうまで父をあわてさせたことを申しわけなく思ったものでした。主人には突然の上京をさとられまいと、同窓会の出席のためだといつわり、二、三度病院を見舞ってもらいました。私の病院通いのため、庭の草取りまでしてもらい、何のもてなしもできないまま一週間後に帰札していきました。
「人間齢の順に天国に召されるとはきまらない。不公平が世の中なんだよ」。六年前、母が突然倒れ、他界した後の父の寂しさが、ひしひしとわが事のように感じられてまいりました。
八月の二十五日、いまが一番よい時期だからという先生のおすすめもあり、退院の運びとなった日、私はやはりうれしかった。たとえ少しの間であろうと、また主人に書斎の椅子に座ってもらえる、 一日中でも隣のベッドで語りあえる何日かがもてる。
帰宅してからの主人は喜々として友人へ退院報告をし、「二、三か月もしたら出社できるでしょう」などといっていました。その元気を装ちた声を、私ははらはらして聞いておりました。
これまではんとうの病名を隠してきたことは、私にとってはたいへんな心の緊張をしいられるものでありました。うそがなにより嫌いな主人に、真実を語れないまま、裏でこそこそと先生方や社長さんと打合せしていくのがどれはど苦しかったことか。何の隠しだてもなくきょうまで相談してきた主人に、うそでおし通す病名からくる不都合のせいで、私は異常な神経になってしまいました。友人の顔を見ても、恩師の電話の声にも、ひとりで道を歩いていても、主人のことを考えただけで鳴咽になってしまう毎日でした。
退院して三日目、八月二十八日のことでした。いまは丸山ワクチンにわずかに望みを託すしかなかった私は、一日おきの注射をなんとかこのまま続けてもらおうと、豊島病院の町井先生にお願いし、その旨書いた西荻中央病院宛の紹介状をいただいてきておりました。主人には抗生物質の注射だと偽り、じつは丸山ワクチンをうちに通うことにしていたのです。それがこの日、いざ注射をしにいこうというときになって、裏工作のあまりの不自然さから、誘導尋間にあい、私はとうとうその注射が丸山ワクチンであることを自状せざるを得なくなってしまったのです。
私はこれまでのことを全部話し、泣いてあやまりました。「よくいってくれてありがとう。ひとりの胸におさめていてさぞつらかったろう」、そういう主人の心の中は、どんなに動揺したことか。私は一瞬、ガン細胞の魔の手をのろい、くやしさにこぶしをにぎりしめた主人を見たように思います。
しかし主人はその日も冷静にふるまい、二人で西荻中央病院に行き、町井先生からの紹介状を手渡し、看護婦さんにこれからずっと注射をうってもらう約束をして帰宅しました。
そしてそれから十月半ばまでの一か月半、主人は、かねてより念願の執筆に、限られた命の限りを燃やしはじめたのでした。
生命と体力の締切りが何日ともわからず、背部の痛みがしだいに強まるなかで、午前中一時間半、午後は二時間と筆を動かす姿はなんともいたいたしく「むりをして命縮めないで」と心で祈り、でも目的は果たさせてあげたいという矛盾した心境でした。
ついに十月半ばからは、とても机に向かう元気はなくなり、それ以後は口述筆記になりました。自分で思うように筆を動かせないもどかしさは、もう一か月早く知らされていれば、と悔やまれたことの一つとなったようでした。
その間、九月二十三、二十四日と、主人の弟の光司さん夫婦と私たちとの二夫婦で、そろって房州旅行へと出かけました。病気を、まだ二人とも知らずに楽しんだ四月の伊豆旅行と、夜の痛み止めの注射器持参のこのときの旅とでは気持のうえで大きくちがうものがありました。それでも旧友と再会した房州一泊の旅はたいへん楽しく、この最後の旅行を計画してくれた光司さんに心から感謝しております。
十一月五日、腰部の異様な痛みに耐えられず、 一睡もできないままに夜があけると、主人はもはや自宅療養はこれまでとあきらめ、かねてから荒木先生にお願いしていた西荻中央病院に入院いたしました。もっともっと家にいて欲しかったのに。
入院して一週間、下半身が麻痺してき、いよいよ寝たきりの状態となったとき、どんなにつらかったことでしょう。
貧血が強くなり、輸血を五日間、合計一〇〇〇ccしたとき見違えるように元気になり、読書もままならなかったのが、テレビをみたいといいだしたりしました。回診にみえる荒木先生の「また元気をだして原稿どんどん書いてくださいよ」という励ましのお言葉に、どんなに勇気づけられたことでしょう。
主人の仕事の関係で十年以上も前からご懇意にしていただいていた荒木先生は、わがままもきき入れてくださり、そんなとき主人は心から安らぎを得られるようでした。やさしく親切な看護婦さんにも見守られ、自宅の近くにこんな良い病院があったことを心から感謝しました。
十一月も終わる頃、会社から電話があり、主人の編集した『国民医学大事典』の執筆者の先生が、この本に書いて以来たいへんな評判で、全国から患者が集まり、感謝していらしたといい、あの時の編集者の方はお元気ですかとおっしゃってくださつたそうです。さつそくそのことを主人に伝えたところ、再びこのような仕事のできる日のないさびしさと、自分のやってきたこれまでの仕事への満足感からでしょうか、いままでみせたことのない涙をはじめて私はみました。はんとうにあと五年、もっとよい仕事をし、どしどし原稿を書きたかったことでしょう。
十二月四日に個室に移ってからは、わがままがいえる安心感からか体調の変化がでてきました。痛み止めの注射も一日三回から二回ですむ日もあり、好みのにぎり寿司を七個も食べる日もありました。急にラーメンが食べたくなったり、つるし柿はあるか、甘栗が欲しいなどといったりします。そんなときは、私も張合いがあるのですが、お茶だけがおいしいといって、まるで食欲をみせない日には、急に衰弱がめだち、私もオロオロしてしまうのでした。
このころは少しおちついた感じで、落語のテープを、毎日一巻ずつ楽しみにきいていました。いままで一日一本くらいだったタバコが五本となり、「ぼくがいま悪いことをしているとしたらタバコを吸っていることで、いまいちばんの楽しみは食後のタバコだよ」といって、看護婦さんにみつからないよう窓をあけはなって吸うときの顔つきは、満足この上ないといった顔なのです。この楽しみをいまさらとりあげるのも残酷なこと、そのぶん私は二人の息子に生涯の禁煙を誓ってもらいました。
主人の元気なうちにあれもこれも聞いておきたいと、はやる気持があるのですが、朝の七時から夜の九時までそばにいながら、病に打ちひしがれている主人を前に会話もままなりません。
「お父さん、いったいこのさき私はだれを頼りに生きてゆくの」「人間生きていくのは自分一人さ、だれかに頼ろうとするから悲劇が生まれる。まあ、絵でも描きつづけていきなさい。すなおな二人の男の子にも恵まれたことだ。けっしてきみを不幸にはしないだろうよ」。
昭和五十五年のお正月を迎えることができたとき、主人は二人の息子をそばに寄せ、「死のまぎわでは話もままならないだろうから、いまのうちにいっておくが、こんどの病気でママにはたいへん苦労をかけた。きみたちは、けっして、ママには心配かけないようにしてくれよな」。これが唯一つの遺言だったのです。
男の子は大きく未来に向かってはばたいていくことでしょう。
「孤独に耐えることができる人間」こんな言葉は私にとって遠い彼方のはずのことでした。そのとき私は、その日を一日でも遠くにおしやろうと主人を看病していたのです。遠くの弟妹たちもたびたび見舞ってくれ、近くの姉妹も毎日のように心づくしの食べ物をとどけてくれました。岡本家の長男として主人も、どんなに心強かったことでしょう。
外に出ては、多くのよき友人にめぐまれ、生涯一つの会社で、思うぞんぶん仕事ができた主人。お世話になった多くの方々に心からお礼をのべたいと思います。はんとうに有難うございました。
一月に入り、たどたどしい字で埋められた主人のメモ帳には、つぎのような言葉が記されてありました。
痛みに耐えるということは、事実に答えることである。
この期におよんで、なお排尿は性感である。
痛みは風景である。遠景もあれば近景もある。クローズアップされるのはレンズを構えるからだ。
すこしずつ死んでいくからだ。頭だけが生きている。このうえなく強靭に。