岡本正、病上手の死下手、1部 死者からの手紙 | オカポンのブログ

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岡本 誠 OKAMOTO Makoto

死者からの手紙

十一月五日(月曜日) 西荻中央病院・入院
●―主治医から
岡本さんが、私のところに正式に患者さんとしておみえになったのは、五十四年十月四日で、十月には六日間通っておられます。希望により丸山ワクチンを外来でうっておりましたが、それができないときは、奥さまが看護婦だったということで、自宅で注射をなさっていたようです。
十一月五日、午前九時十分、救急車で突然入院されました。やはり痛みがきびしかったのでしょう。そして私に「最期をみてはしい」といわれるのです。家が近いということと、二十年来の顔見知りであったのでそういわれたのだと思います。
そのとき、それではいまいちばんつらいのはなんですかとお聞きしましたら、「右のわき腹が痛いことだ」といわれるので、診ますとポツポツいばのような痕がたくさんあるのです。話を聞くとハリの痕らしい。このあと半月ほどの間に、そこのところに、大小さまざまな腫瘍がかなりたくさんできましたが、そのときすぐ、本人にわからないように包帯をしてしまいました。ご本人は、ハリ麻酔にとても感謝されていたようですが、そのときはよくても、あとが気の毒だなあと思ったものでした。
食欲がまったくないことにも困っておられました。
そのうちに、尿が出ない、便が出ない、というようになり、十一月十七日ごろに、下肢が、両側とも完全に麻痺してしまいました。血液の検査をしてみると貧血がかなり強く、またこのとき高熱もありました。同時に自血球が異常に増加している点から私は骨転移を疑いました。しかし岡本さんは、なぜこうなったかという質問はいちどもしませんでした。とにかく早く熱を下げないと、どんどん悪くなると思われてはいけませんので、約一週間、輸液とともに輸血をし、ステロイドの点滴をつづけました。そのあと、熱が下がり、食欲もでて、えらく食べられるようになり、私もほっといたしました。
便秘と尿が出ないということについては、最初はそれをいやがったのですが、カテーテルの留置をしましたら、尿が出るようになり、お腹も気持よくなったものですから、あとではこんないいものがあったのかといってよろこんでおられました。
痛みについては、ご本人が、とにかく痛みがなければ仕事ができるのだ、といいますので、なんとか痛ませないようにと努力しました。ご本人はあまり何回も注射をうつと、体が弱るというふうに思われていたようなので、あまり痛みがひどくなってからではなく、痛む直前にいってほしい、と何べんもいわなくてはなりませんでしたが― 。ただ、「痛み止め」に対しては信頼性をもったようです。痛いということはほんとうに苦しいことなのでしょう。そんな痛みを治してくれる薬というのは有難いと思われていたようです。
また、夜眠れないことには苦しまれたと思います。私たちには、めめしいところはひとつもお見せにならなかっただけに、心の中をひらいてみたら、ずいぶん悩まれて、夜中にひとり泣いてるんじゃないかと思ったこともあります。別れもつらいだろうし、心残りの仕事もいろいろあるでしょうし、せめてその苦痛からのがれたいと思って、夜のために薬をとっておく、そんなことも考えられたのではないでしょうか。
最後は、ただもう岡本さんを痛ませないようにと、それだけでした。輸血をしたときと、ステロイドを使って熱が下がり、食欲がでたときと、留置カテーテルをしてお腹がすっきりしたとき、ほんとにうれしそうに笑われたのが、いまでも忘れられません。
岡本さんは最後の最後まで意識は明瞭でした。亡くなられる前の日でしたか、朝の八時十五分のNHKのテレビ小説を、ちゃんとベッドを起こしてみておられました。
亡くなられたのは、 一月十一日、午後三時四十分でした。一時ごろ私が病室に行きましたころは、もう意識がすこし混濁しはじめていたのですが、それでもイチゴを十個食べたとうかがって、ほんとにびっくりいたしました。
あんなにやすらかに亡くなられる方は、めったにありません。ほんとに呼吸がしぜ―んとなくなるのです。いつとまったのかなと思うくらいです。自然消滅という言葉がいちばんあてはまる感じがいたします。
(西荻中央病院・荒木仲)

五十五年一月十一日(金曜日)
岡本正氏(おかもと・ただし=保健同人社取締役)十一日午後三時四十分、肝臓ガンのため、東京都杉並区の西荻中央病院で死去、五十八歳。告別式は十三日午後二時から東京都新宿区原町ニノ三四の瑞光寺で、岡本家と保健同人社の合同葬。葬儀委員長は大渡順二・同社主筆。喪主は長男誠氏。
昭和二十一年創立された保健同人社に入り、健康雑誌『保健同人』『暮しと健康』の編集長を歴任。結核の闘病体験をもとに、医療問題に筆をふるった。著書に『医者のかかり方・実用篇』などがある。
(一月十二日・朝日新聞)

一月十二日(土曜日)
午後六時より、瑞光寺において通夜。

一月十三日(日曜日)
午後一時より、瑞光寺にて葬儀。
午後二時より、告別式。

●――弔辞
岡本正君を失って、私たちは無二の兄弟を失ったような、心の空洞を覚えます。
岡本正君が大学卒業を間近にひかえて、私たちの保健同人の職場にアルバイト学生として参加してきたことに、私たちは深い因縁を感じます。岡本正君はそのとき既に、保健同人の仕事を自分の仕事として捕え、私たちの仲間になって私たちの旗振りの役を買ってでました。そして学業を終えるのをまたないで、保健同人と心中する腹をきめました。あと若干の単位をとるのを煩とし、そのまま社会人として私たちの仲間になろうと申し入れました。私たちは岡本正君の申入れに感激しました。
これは岡本君の一生涯を引きうけ、同汗共苦を誓いあうことでした。そのとき、岡本君は自分の生涯を結核との闘い、疾病・福祉との闘いに献げる決意を固めたわけで、その寄る辺を保健同人の旗の下に求めたわけでした。だから岡本君の仕事は真剣そのものでした。保健同人の仕事は岡本君によって肉体化され、岡本君の成長はそのまま保健同人の成長でありました。
保健同人の仕事は今日で創業三十五年になります。私たちはいま、この創業いらいの同志を失って、たとえば大洋の中に投げだされた小舟のような感じを味わっています。だが岡本君が設定してくれた羅針盤は、磐石の重みをもって私たちを守ってくれています。正を正とし、邪を邪とする彼の正義感と方向感覚はそのまま残って私たちを守ってくれています。医療制度が混迷を加え、その帰趨さえ定かでない今日、岡本君の直裁な方向感覚は貴重なものがありました。医療制度の諸悪の根源として出来高払い制を挙げ、これを叩きのめさなければ一切の解決の道はないという、彼の不退転の決意と努力はそれでありました。医療制度が漸く大転回をとげなければならないギリギリの土壇場に追いこめられた今日、岡本君を失ったことは大きな損失であります。
だが私たちは岡本君に教えられた方向感覚を方向感覚とし、岡本君の羅針盤に教えられて一路邁進あるのみであります。岡本君はあの世から、じっと私たちの進路を見守ってくれるでありましょう。
岡本君が倒れたのは、かつて患った結核症ではなく、思いもよらない肝臓ガンだとのことであります。結核患者としては勝利者であります。無念、残念の中にも、いささか慰めるものがあります。だが公衆衛生の仕事で、結核の仕事以外にも、これから彼の手を待ちたい仕事が待ちかまえています。保健同人は岡本君に導かれてこの難問に立ち向うはずでありましたが、既に彼なし。誠に、誠に残念であります。だが私たちは今も傍らに岡本正君がいることと思って、保健同人の旗を進めます。いついつまでも私たちを見守っていただきたい、そのようにお願いしたいと思います。
昭和五十五年一月十三日
保健同人主筆 大渡順二

●――弔辞
岡本さん、あなたは多くの名医をお知りになられて親しくされておりましたのに、私のような若輩を御信頼下さいました。にもかかわらず、御信頼に御応えできなかった御詫びを申し上げると共に敬弔の微意を捧げたく存じます。
あなたは、昭和四十九年五月三十一日、熱発とお腹の張る苦しさに襲われ、六月四日保健同人診療所を訪れ、村田純一郎先生の御診察を受けられました。お臍の上で、右寄りに腫れものを疑わせる硬さを触れたとき、村田先生の頭をよぎられた「ガンかも知れない」という予感はバリウムをのんだレントゲン検査で確実なものとなってしまいました。
動転された村田先生は、とっさに「大腸の筋腫です」と偽りの御診断をお話されたと悲痛な御声で私に御電話を下さいました。早速、私どものところに御入院いただき、同年六月二十日、本学城所教授に手術をしていただきました。進行ガンとはいえ、肉眼的には局所だけの異常ではぼ完全に取り去ることができました。
この前後にあなたは大腸筋腫がきわめて稀な病気であることを調べあげて、ガンの疑いを十分もたれたふしがございました。それ以来、丸五年、手術後の御健康管理をさせていただいたにもかかわらず、あなた御自身から「ガンだと知っています」と打明けられるまで、私は「ガン」であることを否定し続けました。
加えて奥様までだまし続けてまいりました。
医者ではないのによく勉強され、高度の医学的質問をたびたびお受けした私は、現時点におけるガン治療を最善の状態で受けていただきたいと思い、何度か真実を打明けたいと悩んだものでした。しかし、胃ガンに比べて大腸ガンの方が進行や再発に時間がかかるというのが常識ですし、御元気に東奔西走されて御仕事に熱中されているとうかがうにつけ、患者さんの側に立てば、いつくるかわからない再発の恐怖におびえながら生き続ける苦痛を、医者は結局どこまで理解しうるかという問いが頭をもたげて、これでいいんだと勝手に自分に言いきかせておりました。
毎年一度受けて下さった健診の際にも、何ら異常がないままに丸四年が大過なくすぎました。ところが、昭和五十三年十一月中旬、手術後四年五か月、肝機能検査で軽い異常がみつかった頃から、右わき腹の痛みが持続するようになられ、順天堂でお腹の血管撮影をしたところ、肝臓に広範な転移が認められてしまいました。ここで、再び私達は、あなたに苦しい「うそ」をつきました。「肝臓にいくつもの膿瘍があります」と……。早速、あなたは医学書で調べられて、御自分の症状と対比されて鋭い質問をされましたが、そのつど苦しい言いのがれをいたしました。ガンの薬も約三か月間の効果を示したにすぎず、四月中旬、右わき腹のしびれを伴う痛みが激しく続いたため、必死に私達に訴えられたときほどつらかったことはございません。
結局、この時点で奥様にはじめて真実を打ち明けさせていただきました。私達は、責任の一つを果たしたように感じましたが、御側におられた奥様の御苦しみは、いかばかりであられたかと御察し申しあげます。
その後、あなたは、やはり保健同人診療所には御関係が深い村上義次先生のおられる豊島病院に五月十七日から八月下旬まで御入院されて、丸山ワクチソを中心とする対症療法を受けられた、とうかがっております。しかし、やがて皮膚に転移のこぶが多発し、八月末に御自宅で奥様から真実を聞きだされました。その結果は本日御参列の多くの方々が驚かれたように、極めて冷静に御自分の御病態を受けとめられました。私にも「これで順天堂に入院中の痛みの原因もわかって納得がいった」と淡々と話をされました。
最後に看取っていただいた荒木仲先生のおられる西荻中央病院に御見舞いにうかがったときも「ガンの告知はきわめて難しい問題ですね」と一般論として受けとめられる余裕をおもちでした。ただ一言、私の胸につきささっているのは、「やはり、締め切り日は、早めに知っていた方がよかった」といわれたことです。
本日、御会葬の皆様にあてられた岡本さんの御挨拶にもある「私はもっと良い仕事を残せたと残念でたまりません」という一節に私は泣きました。どんなにくどくど弁解しても手おくれです。ガソの告知は、ーつのきまった解答は永遠に得られないでしょうが、公式論を越えて岡本さんの御闘病の日々が、私の中で静かに変革を迫っています。どうか未熟な医師に声なき声で過ちなき指針をお与え下さい。大学に職を奉ずる者として、若き医学徒に知識の教育だけでなく、医療とは何かを問い続ける礎にさせていただきます。
私は永遠の生命を信じる者です。この世にあっては多忙を理由に話し合う機会が少なすぎました。いつか再び、大いに語りあえる日を楽しみに、謹んで弔辞といたします。
昭和五十五年二月十三日
順天堂大学消化器内科 栗原稔

●――弔辞
謹んで故岡本正君の霊に捧げます。
岡本君、君と私との出会いは、思い起こせば今を去る三十二年前の昭和二十三年一月でした。手術のため、清瀬から東村山の保生園に転医入院した私は、たまたま君の同室者として枕を並べることとなり、そのうえ手術も同じ日に同じ手術室の隣り同志の手術台で受けた仲であり、いわば一つ釜の飯を食べながら生死を共にした仲でした。以来三十余年にわたり肝胆相照らす仲としておつき合いさせて頂きました。
今でもはっきり覚えていますが、手術がすんで歩行が許されるようになった或る日、あの高尾寮の渡り廊下の窓から、南の空に美しく輝く土星を眺めながら、当時手術後の虚脱感に加えて、年来の小児麻痺の後遺症であるひどい腰痛に悩まされていた私は、すっかり弱気となり、あの土星があの同じ位置に戻ってくるのは三十年後であるかと思うと、恐らくは二度と生きてこの星を見ることはあるまいと思わず涙ぐんだものでした。その時君は「何をいうか、俺は療養の劣等生だが、お前は優等生ではないか。俺は好き勝手なことをして早死にしても何ら悔いはないが、君は社会に出れば必ずや健康をとり戻して、俺などより逢かに立派な仕事の出来る奴だ。気弱なことをいわずに頑張れ」と叱咤激励してくれました。しかしその三十年を過ぎた今、皮肉にも君のこの言葉前半は当り後半は外れました。
君は悪戦苦闘の末、ようやく社会復帰して保健同人社に戻るや、たちまちにしてよくその才能手腕を発揮し、記者として、編集者として、また医事評論家として、健康者を凌ぐ働きと業績をあげ、更にいよいよこれからという時に忽然として病に倒れ、遂に不帰の客となりました。そして君に叱咤激励された私は、市井の一開業医としてはそぼそと生き残るはめとなったのです。まこと天のいたずら、運命の皮肉と嘆かずにはいられません。療養中の君は或は模範生として、或は悪を装った悪童としてしばしば一見天衣無縫の言動を示しながら、その真底に、文学を愛し、人生を探究する真摯な姿勢を常に崩さず、皆から愛され、慕われ、頼られる存在でした。
 醒めて冬夜をナイトキャップの重さかな
あの保生園の一室で、君の作ったこの句を私は未だによく覚えています。俳句としての第三者的評価が如何であるか知らないけれど、生死の間に坐して揺れ動く病者の微妙な心をよく現わしている旬として、私は今でも診療の合間にこの句を思い出すのです。そして三十余年を経て再び病床に臥した君が、もはや絶体絶命の淵に立たされ、しかも日夜襲い来る耐え難い痛みと戦いつつ、夜の間の中に何を思い何を考えていたのか、そして更に如何なる心境の中に悟りをひらいたのか、その胸中を思う時私にはもはやいうべき言葉がありません。
岡本君、君とは随分議論もした。殊に医療問題について。会えばいつも最後はこの話となり、口角泡を飛ばし、眉をつりあげて、何時間も。そしてあげくの果ては遂に疲れ果てて「もうお前とはこの問題については話をするのはよそう」ということになった。お互いに日本の医療を良くしよう、良くしなければ、という原点では一致しながら、いざ歩き出してみると、二人の間は開くばかり、遂に永遠に平行線のまま幕を閉じることとなってしまいました。どちらの意見が、見識が正しかったかについては歴史が証明してくれることでしょう。今はただこの問題にかけた君の信念と情熱に男として心からの拍手を送りたいと思うのです。
六十年に近い私の人生の中で、何の飾りも衒いもなく、真底から心を許してつき合える真の親友というものは、そう何人もいるものではありません。今その最良最愛の友を失った悲しみが、数かずの思い出のすべてをかき消してしまいます。憎むべきガンの苦痛に耐え、恐るべきガンの苦悩を立派に克服して従容として死についた君の強さ、強靱さに心から敬服し、今はただただ御冥福を心から祈るのみです。
岡本君、どうか安らかに眠って下さい。
昭和五十五年一月十三日
友人代表 菅野正美

東京に雪が舞った十三日、「死者からの手紙」が東京都新宿区原町の瑞光寺で配られた。十一日に肝臓ガンで死去した医事評論家・岡本正氏が、自身の葬儀に集まる人に、書き残したものだった。〔記事中の手紙内容、略〕。夫人を悲しませないようにと、夫人がいないすきに実弟の光司氏に印刷を頼み、昨年のうちに刷り上がっていた。
東大文学部在学中に結核で倒れ、回復後その体験を生かして、医学ジャーナリストの草分けの一人として「健康」を説きつづけてきた岡本さんだけに、手紙は、会葬者をいたわる言葉で結ばれていた。
雪の中をかけつけた参列者は五百人余。「いかにも岡本さんらしい」と手紙に見入っていた。
(「会葬者いたわる死者の手紙」・五十五年一月十四日・朝日新聞より)

御礼
御会葬の皆さま、本日は小生のためにわざわざ御来駕の上、御焼香を賜りましたこと、心から厚く御礼申しあげます。
もう十日はもちそうもないからだの弱りに、生前の感謝をこめて、何か一言御礼を申しあげたいと思いながら、これが案外まだ序の日で、このまま一か月以上生きているとしたら、それも、みっともない話です。
しかし考えてみれば、こんどの病気の診断がついてからすでに一年近く、結腸の手術から考えればすでに五年以上生きているのですから、それがすでに奇蹟なので、このところの一か月の計算ちがいは、順天堂大の栗原、池延、宮坂、豊島病院の村上、町井の諸先生、また、とくに今回お世話になった荒木仲先生の適切な処置がもたらした偉大な成果と思えば、僕のこんなお先走りは許していただけると思うのです。
そのお先走りをさせたものは、「私はいま死に直面して、すこしの不安もなく、みなさまへの生前の御厚配への感謝だけに心がみたされている」ということを、私の日から直接申しあげたかったからです。考えてみれば「死」というものはいつも私の隣りにいました。それを意識しないときでも、それは私の傍らにいました。
終戦をはさんだ青春の時期―私は療友の死をいつもみ、みつめさせられるだけでなく、自分自身を何度も死地におきました。
結腸を切ったときももちろん「半分はガン」を覚悟していました。しかしそれが四年もたつと「疑っていて損をした」という気持にさえなってきました。こんどの肝膿瘍ははじめから「いっさい疑わないで」すなおに生きてこれました。というのも私は、ガンか?膿瘍か?より、痛みと心身症の問題にこだわりすぎてしまったからでした。(腹部の知覚異常が明らかに通電鍼麻酔で軽快したとき)私はもう一度ガンをみつめなおし、それを自明の理として認め、それ以来、残された仕事に全力をあげました。(あの強い知覚異常さえなかったら……)私はもっと良い仕事を残せたと残念でたまりません。
しかしこれはぜいたくな望みというものでしょう。私はそのときどきを精一杯に生き、よく病気をし、そのつどすぐれた国手に救われ、今日まで生きて来ました。
ただ感謝申しあげるばかりです。御会葬の皆さま、妙な遠慮などくれぐれもなさらないよう。老人が吹きっさらしの道などでふるえていてはいけません。どうぞご遠慮なく。
あとは万事よろしくお願い申しあげます。
合掌
昭和五十四年十一月十三日
岡本正