岡本正、病上手の死下手、1部 これも光恵への愛情かと思う | オカポンのブログ

オカポンのブログ

サイクリングや旅行などの記録用に書いています。
リンクはご自由にどうぞ。
メール okamotom@nifty.com
岡本 誠 OKAMOTO Makoto

これも光恵への愛情かと思う

八月二十八日(火曜日) やはり丸山ワクチンだったのか
光恵が、一日おきにつづけていた注射を、西荻中央病院にうってもらいにいきましょうという。きょうは荒木先生はいらっしゃらないけれども、すでに看護婦さんに連絡がしてあるので、カルテをおこさないでも、注射してもらえるという。
私には豊島病院ではじめた一日おきの注射が、じつは抗生物質ではなくて、丸山ワクチンではないかというひそかな疑いがあった。きょう荒木先生が不在なのに、わざわざ西荻中央病院に注射をうちにゆくという話を聞き、それが確認できたような気がする。
丸山ワクチンについては、順天堂大学にしても、豊島病院にしても、その効果を評価していない。私自身にしても、社の若い記者たちが何度か取材をし、その延命効果を認めるとしても、丸山ワクチンが、いわゆる免疫療法の主流でないこと、そして丸山先生がいわれるはどに効果がないことを知っている。
それにしても、自分から積極的に、私の病気に対して、なんらかの対策を講ずるなどという才覚が、光恵にあるとは思ってもみなかった。これはおそらく光恵が、丸山ワクチンの効果を雑誌などで読み、自分で日本医大を訪ね、説明を聞き、豊島病院の町井先生に、ぜひにとお願いしたものにちがいない。
私は、九山ワクチンの効果はともかくとして、この注射をうちつづけることが、光恵への愛情だと思った。しかしよい機会なので「きょう西荻中央病院にうちにゆく注射は、丸山ワクチンなのかね」とさりげなくきいてみる。光恵はあわてて首を振るが、すでに目に大きな涙がある。こんな光恵を追いつめるのは、たいへん残酷なことであるが「ぼく自身はどんなことを聞いても、けっして動揺しないから、はんとうのことをいいなさい」と求める。光恵はただ黙って泣くばかりであった。私はその涙に、私の病気の、肝膿瘍ではなく、肝臓ガンであるとの確証を見た。
昨年暮れ、私が肝膿瘍の診断を受けた時点で、それが肝臓ガンであるという事実は、すくなくとも診療所の村田先生と大渡社長だけには告げられたものと思う。「きみが知ったのは、いつのことだい」ときく。光恵はいっそうかたく口をつぐんだが、涙とともに、順天堂へ三度目の入院をしたときですと答える。
私にはそれ以上きくこともない。光恵と一緒に西荻中央病院に行き、看護婦さんの注射をうけた。
帰宅後、入院中の日記を読みかえす。四月十七日、光恵は四時すこし過ぎに病院に来、すぐ帰っている。おそらくこの日あわただしく光恵が病室から出ていったのは、自宅に帰ったのでなく、先生方の詳しい話を聞くためではなかったかと想像する。
こうしてあらためて考えなおしてみると、 一月に入院したとき、 一か月間にわたってしてもらった点滴注射には、抗生物質ではなく、抗ガン剤が入っていたのであろうし、点滴注射が終わったころから、頭の毛がひどく抜けたことの原因も、これでよくわかる。
豊島病院で、六月十二日からはじめた一日おきの注射、それはいったん中止し、再びはじめられることになったとき,町井先生が、「この注射が、あなたの退院を拘束するわけではありません」といった言葉〔七月三十一日〕があらためて思い出される。一か月はどこの注射をやめて、九日間つづけてうった新しい注射は、おそらくは新しい抗ガシ剤であったのであろう。
日記のメモを調べてみると、丸山ワクチンは、六月十二日から七月八日までの一か月間に十五本、八月一日から退院時までに十三本、計二十八本うっていることになる。そしてその間、七月十二日から二十日まで、抗ガン剤をうつために、いったん中止、約十日の間をおいて丸山ワクチンの注射を再開したことになる。
また、豊島病院ではしばしば胸部X線写真を撮った。胸部にガンの転移があらたのであろうか。
私は入院中に読んだ『ガン回廊の朝』を、もういちど開き、亡くなられた国立がんセンターの総長であった方がたの記録をそのなかから拾ってみる。発病から死に至るまでの経過が詳細に書かれたものとしてはほかに文献はあまりない。
田宮猛雄総長は、昭和三十七年の六月に軽い自覚症状をおぼえ、八月七日に胃ガンの診断が確定し、十五日に手術、そのあとマイトマイシンの点滴静注、内服をしている。十月中旬に退院した。その後約半年間元気に仕事をつづけておられたが、翌年四月に入り衰弱はなはだしく、その月の十日に再入院されている。五月中旬、肋骨下に腫瘍のあることがわかり、六月一日に黄疸の症状があり、六月三日からマイトマイシン、七月三日からそれをトヨマイシンに切り換え、七月十一日に亡くなられた。再発してから亡くなるまでの期間は、三か月である。
塚本憲甫総長は、四十八年の十月に自覚症状がありながら、スペインの国際学会に出席され、帰国後早期胃ガンの疑いで入院。十二月三日胃の手術をし、二十一日に退院されている。そして、翌四十九年一月七日再び総長の仕事につき、その間、自叙伝の執筆をはじめ、二月十七日に脱稿された。肝臓の腫大がみとめられたのは、三月の下旬であり、四月一日に再入院されている。そして五月上旬には急速に病状が悪くなり、六月に入ってからは意識が混濁し、六日朝より大量の吐血がはじまって、翌る七日に死亡されている。
この場合も、肝臓の腫大がわかってから、亡くなるまでには、わずか二か月すこししかない。肝臓ガンの早期発見は難しく、ふつう症状が出たり、診断がついたあとでは、三ないし六か月で死亡する。比較的経過が長びいたものでも、一年以内にほとんどが死亡する、ということは教科書にも書かれている。
私が自覚症状を、右の季肋部の痛みとして感じたのは昨年十一月中旬のことであり、今年一月の末には、すでに肝臓ガンの診断がついていたわけだ。となると発病以来すでに七か月の月日がたっているのであるから、私の場合は、発見も早く、順天堂大病院での抗ガン剤、また、豊島病院で行なった抗ガン剤の使用などが、大きな効果をあげたのであろう。そして、光恵の九山ワクチンが、私の病気の進行を遅らせたということも考えられる。
私はこれらの事実を確認したうえで、なおいささかも気持に動揺の起こらないことに気がついた。ガンであることの宣告の是非について、私が一般論としての意見をいう資格はないまでも、私にとっては、ガンであることを知り得てよかったことを、あらためて確認した。入院していたときにくらべれば、退院してからのほうが、おそらく私は、より人間らしい生活ができるだろうし、このさき限られた時間をもつとしても、入院中あれこれ構想をたてていた、私自身の療養体験の手記をなんとか完成させようという決心がついたからである。
冷静な気持で、光恵に、「どうやら五年前に手術をした結腸の平滑筋腫〔四十九年七月〕も、実際はガンだったのかもしれない」という。光恵は、それに対する直接の返事はせず、栗原先生が、あの大腸の手術後、半年たったころ、免疫剤の使用をはじめて教たいと考えたが、医局の全員が、それは患者にガンであると知らせることになるという理由で反対されたのだという話をする。
光恵に、私がガンであることを、どの程度の人に知らせたかをきく。はっきりした返事をしないが、ほとんどのきょうだいに、それとなく話していることがわかった。光恵がいつまでも悲しそうな顔をしているので、私は私がガンであるという疑いは、すでに豊島病院入院中にもっていたこと、退院を決心したのも、その確信があったからであって、なにもきみが私に教えたというわけではないのだからといって逆に慰めてやる。当分のあいだ私自身は、きょうだいたちに対しても、自分がガンだという事実を知っていることを素振りにも見せないつもりだから、きみもそのつもりでいるように、とあらためて注意する。
三時ごろ、飯島夫妻より「豊島病院へ行ったら、退院されたというので、いま新宿までもどったところです」という電話がある。無理に頼んで来宅してもらい、天野の夫妻、丸橋夫妻を呼び、退院を祝い、みんなでささやかな祝宴をはる。三時間近くにぎやかに食卓を囲み、夕食をとり、雑談に過ごしたのに、みんなが帰らたあと、熱をはかったが、七度をこえていない。
十時三十分、入浴。十一時三十分までテレビをぼんやりみる。睡眠剤をのみ眠る。

●―主治医から
岡本さんは、九山ワクチンを一時中断して打った注射を抗ガン剤だと考えられたようですが、豊島病院ではさきにも申しましたが、丸山ワクチンを除いて抗ガン剤は用いませんでした。このときは、痛みがあまり強いので、骨転移の可能性を考えて、疼痛をすこしでもやわらげようとして甲状腺のホルモン剤(カルシタール) を使いました。
(豊島病院・村上義次)

八月二十九日(水曜日)
六時三十分、目がさめる。きのうあらためて自分の現在置かれた立場を知ったのであるが、夜は、ふしぎなくらいすなおに眠りに入れたし、けさも気分はわるくない。午前中、書斎を整理する。
たとえ自分で、自分の病気がガンなのではないかという疑いをもっていても、きのうまではまだそこには気持にゆるみがあった。きょうあらためて手記の執筆を急がなければと決心する。しだいに病状が悪化するとすれば、まず書斎を整理し、必要な書類だけを手許にそろえることが先決だ。
夕食後、テレビでサッカーの試合をみ、十時入浴。十一時、睡眠剤をのみ、まもなく眠る。これで二晩、注射のやっかいにはなっていない。

八月三十日(木曜日)
六時、目がさめる。朝の行事いつものごとし。体重を測定してみる。四十五キロ、これは今年の春以来変わっていない。
哲がきのう、サッカーの練習中に捻挫をしたというので、すぐ光恵と一緒に西荻中央病院に行ってレントゲン写真を撮ってもらうように命じる。格別の異常はなかったらしい。
午後二時、西荻中央病院に行き、荒木先生に久しぶりにお目にかかる。私はかつて菅邦夫先生に見せ、豊島病院にも提出した、私のそれまでの病歴書をもとに、新しく現在までの病状の変化を詳しくレポート用紙に書いたものを、先生にさしだす。
荒木先生は「なんだ、奥様の話では、たいそうな話だったけれども、えらく元気そうじゃない。あんまり気にしないで気らくに注射に通ってきなさい。元気になったら、もうひと仕事するように」という。
そのあと、今年の三月に亡くなった大沼君の話になる。大沼君もずいぶん荒木先生のお世話になったのだ。私が紹介しただけに、私からもあらためて先生に礼をのべる。
帰途、書店に寄り『週刊新潮』を買う。告知版欄に、大渡順二が保健同人社の社史編纂のためのパートタイムの人を募集している。これは私が大渡主筆に協力して行なわなければならないはずの仕事だったものである。ほんとうに申し訳ない気持である。しかし、現在の心境としては、より客観的な記録である社史の編集のお手伝いをするより、より主観的な自分自身の記録の手記のほうを完成させたいと思う。
私は入院中も、医療問題に関する記事は必ず切り抜きし、『日本医事新報』や『日本医師会雑誌』にも目を通してきたが、いまはさすがにその気持もうすくなった。限られた時間のなかで、自分の手記の執筆に、全力投球をしなければなるまい。
午後も三時間ほど書斎の整理をし、夕食後横になる。ぼんやりと週刊誌などを読んで時を過ごし、九時三十分、入浴。十一時、睡眠剤をのむ。

八月三十一日(金曜日)
朝食後、雑誌『保健同人』のバックナンバーを、書棚の上の方から手に取りやすいところに移す。『日本医事新報』や『日本医師会雑誌』のバックナンバーも、棚から取り出して、床の上に積みあげる。『保健同人』のバックナンバーを、拾い読みしていると、懐かしさがいっばいで、ついそれに読みふけってしまう。
五時三十分、天野の姉が孫の麻衣子を連れてくる。夕食のあと、テレビでしばらくぶりに野球の放送をみる。
私の病気が肝膿瘍でなく、肝臓ガンであったとしても、あの右下腹のしびれや、右横腹の強い痛みは、やはりきわめて特殊なものだったのであろう。順天堂大病院でその診断がつかず、脳神経内科の先生が、それを心因性のものと断定したのも、もっともだと思う。しかし、いずれにしても私のあの不快な知覚異常や痛みを治したものは、通電ハリ治療であったことは明らかだ。
十一時、入浴後すぐ睡眠剤をのんだが、きょうはなかなか眠りに入れず、明けがたまで眠れなかった。意気地のないはなしで、一晩じゅう眠りに入れないでいると、ついそれを声に出す。そのたびに隣に寝ている光恵を巻き添えにする。

九月一日(土曜日)
朝の食卓についたが、食欲がなく、少量を食べたあと、すぐ横になる。昨夜来の痛みがとれず、ずっと痛みに耐える。
午後、西荻中央病院に、注射をうけにゆく。朝がたまでずいぶん痛かったのに、片道五、六分とはいえ歩いてみると、痛みはそれほど強く感じない。
弟の彬くる。誠に、就職についていろいろ話をきかせている。私は途中で失礼して、寝室にもどる。
十時半ごろ睡眠剤をのみ、十一時すこし過ぎには眠ることができた。きょう一日痛みがひどかったのは、昨夜の寝不足のせいもあったのだろう。それに私自身、なぜ痛むかということがわからなかったときよりも、現在のほうがその痛みに耐えることも、気持のうえでらくになっている。

九月二日(日曜日)
竹内君が見舞いにきてくれる。私の六十年近い人生のなかで、ほんとうに心を許した友の一人である。竹内君の心づかいに、涙がこばれるような気持である。かつて竹内君は、電話で光恵に「まさか岡本さんの病気は、悪性のものではないんでしょうね」ときいてきたことがあるそうだ。私はそれを知っているだけに、ことさら元気をよそおう。歓談三時間に及ぶ。楽しかったが、やはりすこし疲れた。

九月三日(月曜日)
ぁと数か月と定められた生命である。もっとペンを持つ時間をふやさなければいけないと思うが、それによる体力の消耗もこわい。なんとはなしに寝床で『不思議の国日本』を読む。一日で読了する。こんな本を読んでいる間に、することはいくらでもあるのにと思いながら、ついそのまま読み進めてしまう。私はやはり怠惰で、臆病な人間なのであろうか。
夜、大渡主筆より電話がある。主筆が、個人誌として随時発行している『保健同人ミニコミ』に、なんでもいいから、きみの思うことを書きなさいよとすすめてくれる。くれぐれも無理をしないで、気がむいたときに書きたいことがあったら書けばいいんだよという。これは主筆が私に生きがいを持たせるための配慮だと思う。

九月四日(火曜日) 葬式の手配
八時過ぎに目がさめる。誠も哲もすでに出かけている。
十時三十分、光恵が所用のため外出する。留守中に、菩提寺である牛込原町の瑞光寺の住職、星野励温さんに電話をする。水曜日、豊島病院の外来に行った帰りに、お目にかかりたい旨告げる。
つづいて保生園に電話をし、保生会の事務局を担当しておられる斎藤さんに、かつて私が入院中、患者会である保友会の機関誌として編集した『魔の山』のバックナンバーのうち、私が体験記をしたためた号があるかないか調べてもらうようお願いする。
一時、西荻中央病院に行く。光恵はこの足で都民美術展へまわりたいという。私は一人で帰り、妻のいない留守に、星野励温師あての手紙を書く。あす星野さんにお目にかかれたとしても、光恵のいる前では細かい話はできない。お目にかかり、墓参をすませたうえで、手紙をそっと手渡ししようと思う。二時間近くかかって手紙を書き終えると、やはり右の横腹に痛みを感ずる。
手紙の内容は、私がすでに死に至る病にかかっていること、そして死んだあと、瑞光寺で、通夜と葬儀をしてもらえないかという依頼である。最近の住宅事情のせいもあって、私自身が親しい友人のお通夜などにいったとき、部屋に入れず、しばしば庭あるいは道路などでつらい思いをしたことがあるので、そういうことを避けたいと思ったからである。死んだ日は、納棺しないまま親族のみで通夜をし、翌日納棺のうえ、瑞光寺本堂で通夜をしてもらえば、友人に迷惑をかけることもない。そのことのお願いである。

九月五日(水曜日)
七時、目がさめる。あわててとび起き、朝食をすませる。豊島病院へ着いたのは九時過ぎであった。先生に退院後の経過を報告する。
診療をすませ、車を拾い瑞光寺に向かう。墓参のあと、星野励温師にお目にかかり、手紙をお渡しする。
帰宅後、診療所の村田先生に電話をし、本日の受診経過を報告し、睡眠剤だけで眠れないとき、豊島病院でうってもらっていた鎮痛剤の注射(ソセゴンの一五ミリであることをけさ診察時に先生から伺った)を自宅で妻に注射してもらっていいかどうか、もしよければその手配をとお願いする。村田先生から折り返しの電話で、さっそく福神薬局に連絡し、注射薬と注射器などを用意しておくよう頼んでおいた旨の返事がある。先生の了解をいただいたわけだ。
電話のあと、病院の帰りに買ってきた『わが世代』シリーズの大正十年生まれのところをパラパラと読んでみる。この年は私の生まれた年であり、私の生活史の断面が、よくこの本にも出ている。
夕食後お腹が痛いのですぐ横になり、テレビをみる。痛みは強いが、熱はない。

九月六日(木曜日) 私は病気上手で死に下手
七時、目がさめる。昨夜私は久しぶりに長い夢をみた。その私はやはり入院をしていた。その夢は、記す気になれないほど、暗いいやな内容であった。
七時三十分、起床。洗面をすませ、朝食を家族と一緒にとる。きょうも右横腹から、背中の上の方にかけて痛む。しかし、一私が自分の病気を知ったからには、当分のあいだ痛いという言葉は、禁句である。そのひとことが光恵を苦しめるだけだと思えば、むやみに痛いなどとはいえない。
西荻中央病院に行き、荒木先生にお目にかかり、豊島病院の外来の経過を報告する。とともに、きょう妻にソセゴンを取りにやらせることをのべ、私が自分の病気を肝臓のガンであると考えており、できるだけ自宅療養を長くつづけるために、この痛み止めの注射を妻にうたせることにしたのだということ、いずれおとずれる再入院の必要がある際には、豊島病院でなく、西荻中央病院に入院させていただき、万事先生のお世話になりたいことなどを申しあげる。
先生は、「あなたの思いすごしよ。豊島病院から私にあった連絡にも、そんなことは書いてないのに」とおっしゃる。しかし、自宅でソセゴンの注射をうつことは、いっこうにかまわないでしょうといってくださる。そして「なにかあったら、そのときはわたしが必ず引き受けますよ」といって、胸をポンとたたいてくれた。
光恵は、病院からその足で財団へまわり、福神薬局で薬をもらってくるというので、私は一人で家に帰る。やはり、仕事をする気にならず、テレビで国会中継などをきく。五時三十分、光恵帰る。光恵が村田先生に、どのような報告をしたのかは知らないが、村田先生が私の生命力の強さに感心していたらしい雰囲気の会話が交わされたようである。
かりに丸山ワクチンに延命の効果があるにしても、ともかく現在の私は、まだまだ元気である。つくづく私は、病気上手の死に下手だと思う。
十時三十五分、入浴。私は退院してから、一日の休みもなく入浴するか、入浴できない場合でも、必ずシャワーを浴びる。きょうから、ソセゴンの注射のやっかいになるとしても、できるだけ夜の睡眠時間を十分にとり、三度の食事をきちんと食べ、生活にけじめをつけ、入浴も一日も欠かさないという生活を持続しようと思う。そして、許される範囲内で原稿を書きたい。それが私のこれからの短い人生に、大きな生きがいとなるであろうことを確信する。

九月八日(土曜日)
朝の行事、いつものごとし。
きょう十時から十二時まで、はじめて原稿執筆の筆を持つ。午後一時、西荻中央病院に行く。帰宅後、整理をすませた『保健同人』のバックナンバーの一部その他をコピーに取るよう手配する。
光司くる。妻が席をはずしたときに、光司といろいろ話をする。瑞光寺の星野励温師から、光司へ手紙があったそうである。私は星野師への手紙に、私のお願いについて、もし妻その他から反対があった場合には、私の親族代表を、次弟の光司と定めておくので、光司に私の意のあるところを伝えていただくようにとしたためておいた。
私は私自身がガンであることを自覚していることを、できるだけ他人には知らせまいと思いながら、九月四日、星野師に手紙で告げ、九月六日に荒木仲先生に話し、星野師からの連絡で光司も知ってしまったことになる。これですでに三人、これ以上ひろげてはいけないと思う。光司は「おい、ほんとうに平静でいられるのか」としきりに心配する。
それは私にとっても、ふしぎと思うくらい平静なのである。おそらくほかの人は、私の虚勢と受けとめるかもしれない。しかし、どう考えても、私には私自身ガンであることを知ってからのほうが、生活にけじめがつき、積極的に、残された短い時間を充実させる意欲がわいてきている。
光司と私の間で、むかしばなしに花が咲く。光司をはじめほとんどのきょうだいは、父のわがまま、やかましさ、それについてのおふくろへの思いやりだけが若いときの思い出だという。みんなは、もっばら母親だけに同情していたということだ。しかし私には、おやじのわがままさ、こやかましさがなんとなく理解できる。このおやじの気弱さが大きく包みこんでいた″私たち家族への愛情″の心根は、私だけが知っているものであったのであろうか。
父の持つ欠点は私の持つ欠点そのままであったし、父の気弱さに隠された家族への愛情が、私には手にとるようにわかっていた、私はそんな話をする。光司は「そうだったかねえ」と、いまさらのように驚いている。みんなは、母を気の毒な立場にいたと考えていたらしいが、私にいわせれば母は人間としてすこしできすぎていたのだ。私には母がどのような状態に陥っても、自身揺るがぬ自信を持っていたということがわかっていた。そして私はそんな母に存分にあまえ、安心してこれに寄りかかっていた。
そういえば、父の死後、私は母に「ぼくが金持になれる人間なら、できるだけ長生きしてもらいたいが、あまり長生きしても、そう結構な身分にはなれないよ」と放言し、姉にきつく叱られたことなどを思い出す。それにしても、あの終戦前後、私は自身の結核の療養にかまけ、弟や妹たちへの思いやりやいたわりにずいぶんとかけていたものだなと思う。いま次弟の光司から、私の代理として、まだ幼かった彬と京子の二人を連れてどこそこへ旅行にいった、どこでテントを張ってキャンプ生活をしたなどという話を聞かされると、当時療養所で、自分のことばかり考えていた私自身が、いまさらのように情けなく、光司にあらためて礼をいう始末であった。
思い出したように光司が、来週でもいいから、二人で房州へ行かないかという。確かにいまならまだ房州へ一泊旅行をする力はあるだろう。房州船形の町は、私たち兄弟にとって、過ぎし青春の日の思い出がたくさんのこっている土地である。
話がはずみ、酒を出したためもあって、光司はしだいによい気持になり、十一時近くまでおしやべりをした。私は椅子に腰かけたり、ソファに横になったりしながら、その相手をした。楽しいひとときであった。
十一時にシャワーを浴び、十一時三十分、睡眠剤をのみ、十二時三十分、ソセゴンの注射をうつ。これでまもなく眠りに入れる。私はどうやら、この方法でなお当分のあいだ、自宅で療養をしながら仕事をつづけることができるだろう。

九月九日(日曜日)
きょうは九時まで眠ってしまった。哲は文化祭の準備、誠は卓球部の試合の応援で、二人とも早く外出している。十時近くなって、光恵と二人だけで朝食をとる。
五時、房州の松崎兼吉君くる。二十一歳になる次男が結婚したそうで、その結婚式の写真を見てもらいたかったのだそうだ。おみやげに、生きているサザエをたくさんもらう。 一緒に夕食をすませ、松崎君はまだ在宅していたが、失礼して七時、ベッドに帰る。

九月十日(月曜日)
十一時から一時まで二時間、原稿を書く。昼食をすませ。再び書斎の資料を整理し、さらに三時三十分まで執筆をつづける。
ベッドでテレビの相撲中継をみる。むかし鯨ノ里といった美男力士が、六十五歳で定年になり、元若松親方として向こう正面で解説をしている。少年時代大好きだったお相撲さんだけに、懐かしさがこみあげると同時に、ああ彼もこれだけの年になったのだから、自分もそのぶん年をとったのだなと思う。
きょうの痛みは、入院中の横腹や背中の筋肉の痛みとちがって、おへその右上に集中した重苦しい痛みである。これはなにも、私が私の病気を肝臓ガンであるときめたためにそう感じる、ということではないと思う。
夜十時三十分、睡眠剤をのみ、十二時ソセゴンの注射。 一時三十分、睡眠剤を追加し、二時三十分さらにソセゴンの注射をうつ。ようやく三時に眠る。退院以来、比較的すなおに眠りに入れていたのに、今夜はふしぎに寝つきがわるかった。たまにはこんな日があってもしかたがないのであろう。

九月十一日(火曜日)
八時三十分、遅い時間に目がさめる。光恵がかねてからすすめていた酵素をのむ。このような民間薬は、私はあまり信用しないほうだが、光恵がせっかくすすめてくれるので、これも光恵への愛情だと思って、ひきつづきのむことを決めた。
朝食をとる気にならず、すぐベッドヘもどる。数日前から、右のわき腹の上の方にあったしこりの数がふえている。これはリンパ節への転移によるものではないかと思う。