岡本正、病上手の死下手、1部 もういちど人間らしい生活に戻りたい | オカポンのブログ

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岡本 誠 OKAMOTO Makoto

もういちど人間らしい生活に戻りたい

七月二日(月曜日)
昼間眠らないようにと、十時三十分ごろから、ベッドの上で自分で新聞の切り抜きをする。午前中は眠らずにすんだが、昼食後一時間ほど眠った。
町井先生来診。約一時間にわたって痛みと薬の問題、退院の時期、将来の療養の方針などについて懇談をする。私は、夜、睡眠剤の上に、さらに鎮痛剤を加えるのは、痛みそのものを抑えるためというより、睡眠剤の効果が鎮痛剤によってより強くなることを期待しているのではありませんか、と自分の気持を率直に話す。
私は明らかに薬に依存しすぎているが、このことが私の退院の時期を遅らしているのだとすれば、なんとか薬への依存を断ち切りたい。そして早く退院しなければならない。もし、私の病気が肝膿瘍ではなく肝臓ガンであるとすれば、ただ漫然と病院にいるより、家に帰って、家族と一緒にもうすこし人間らしい生活をしよう。時間をみて、自分のこれまでの生活記録をまとめるなどの努力をしなければならない、と思う。
夕食後、内科の若い簑輸先生が突然来室され、「保健同人社の方だそうですね」と尋ねられる。保健同人社発行の『日本人の栄養と循環器疾患』がなかなか手に入らないので、もしできたらご配慮願えないかという。さつそく会社に電話をし、土屋君に届けてもらうように頼む。
まだ社長が社にいられるというので、電話を切り換えてもらい、できるだけ早く退院して、家ですこしものを書いてみたいと思っている旨を話す。社長からは、会社の仕事に遠慮しないで、あなたの書きたいものを自由に書いていただけば、それだけでも会社のためにプラスになりますという、たいへんうれしい返事をちょうだいした。

七月二日(火曜日)
六時、目がさめる。右の横腹全体の筋肉が痛だるさできわめて不快である。しかし、それではいけないと思い起床、洗面、お茶を飲む。さらに牛乳を飲む。この朝の行事のあとはいつでも全身の痛だるさが軽くなる。
『週刊現代』の笠原隆君が見舞いにきてくれる。笠原君は若い記者のころよく私のところに取材にきた。いまは編集次長になっている。私の病気を知るはずがないと思い尋ねたところ、年に二回や三回は岡本さんに電話してるのですから、入院中であることぐらいすぐにわかりますよという。
九時十分に睡眠剤、九時三十分に注射をうち眠りに入る。夜中に目ざめ私物の睡眠剤を一錠追加。

七月六日(金曜日)
光恵がソファに腰かけたまま居眠りをしている。疲れているのだなとしみじ教思う。
部長回診。村上先生に退院についてあらためて私の希望をのべる。先生から「薬を変え、注射をしないでも夜眠れる生活を入院中に工夫してみることがまず第一に必要になる。また、日常生活へ復帰するためには、入院中にもうすこしからだを動かしておいたはうがいい。ただし、肝臓疾患治療の基本は安静であることにかわりはないから、徐々に慣らしていくということが大事だ」と指摘される。具体的にいえば外出、外泊などを試み、また退院後は栄養を十分とるようにする。以上のことができれば、あなたの希望どおり一日も早く退院できるように考えますという。
このへんでなんとしても注射ばなれの作戦を開始する必要があると痛感する。
九時三十分、睡眠剤をのんで寝る。薬が変わったらしく、まもなく眠りに入る。夜中いちど目をさましたが、そのまま朝まで熟睡することができた。きょう一日のこととはいえ、ついに痛み止めの注射なしで眠ることができた。

七月七日(土曜日)
誠くる。就職の件についていろいろ話し合う。誠は私が考えていたのとはまったくちがい、生産部門、それもとくに電子工業の分野で仕事をしたいという。いずれゆっくり話し合おうといっておく。
九時十五分、いままでのんでいた錠剤やカプセル剤をいっさいやめ、きのううまく眠りに入れた散剤の睡眠剤だけをのむ。が、なかなか眠りに入れない。クーラーを消すとむし暑く、胸に汗をかく。
九時四十分、パジャマを換え、私物の睡眠剤ネルボンをのむ。十一時三十分、やめようと決心した注射をうってもらう。

七月十一日(水曜日)
夕刻、入浴をすませて病室に戻るとまもなく、町井先生来診。「相変わらず眠れないようですね」と、やさしく声をかけてくださる。痛みの性質について、おそらくこれは臓器の痛みというより、筋肉の痛みではないかと思われるという説明があり、あしたから、朝と晩の二回、連続十日間新しい薬を使ってみるという。文献ではよく見かけているが、自分は実際に使ったことのない薬なので、効果について百パーセント自信があるというわけではないけれど、ともかくこの注射を試みてみます、という。
先生の率直なお話、私へのなみなみならぬご好意に心から感謝の気持がわいてくる。
夜、相変わらず薬のやっかいになり、よく眠ったと思うと目がさめ、また眠りに入るといった寝苦しい夜が過ぎる。私にとって夜はいつも残酷である。

七月十二日(木曜日)
朝の行事いつものごとし。
十時二十分、新しい注射をはじめて行なう。注射後、からだにポーッとした感じがくる。頭もすこしポーッとする。このポーッとというのは、痛いのでも、だるいのでも、熱感でもない。なにか表現しようのない違和感である。
光恵、夏用のタオルのふとん持参。
町井先生来診。きょうからはじめた注射について、副作用として吐きけをもよおすことがあるといわれているので、食前の注射を避けるように看護婦に話しておきますという。
夜七時、新しい注射の二回日。この注射はめずらしい茶いろい色をしている。
夜はいつもよリトラブルが少なかった。

七月十三日(金曜日)
九時十分、新しい注射の三度めを行なう。この注射をうつと、①おへその右横あたりに、さしこみふうの軽い痛みがおこる。②全体にからだがだるくなり、ポーッとした感じがする。③胸がすこしむかっく、といったような副反応があるが、これは二時間もたたないうちにおさまる。
きょうも午前中一時間、午後一時間と眠ってしまう。本を読む気力がなかなかおこってこない。
部長回診。村上先生は、外出、外泊など、退院へこぎつけるためのテストをはじめるように、かさねていわれる。

七月十四日(土曜日)
きょうから食後の薬が全部変わったようだ。夜の睡眠剤も新しいものになる。こんどは散薬とカプセル一錠である。これを九時十五分にのみ、九時四十五分に鎮痛剤の注射をうち、眠りに入れた。薬を変えるとその当座はよく眠れるが、すこしたつとまた眠れなくなる。この悪い習慣をどうするかが私にとっての重大問題といえる。

七月十五日(日曜日) どうしてこう無為に過ごせるのか
ほんとうにどうしてこうも無為に過ごせるものかと思う。本を読むでもなく、眠るでもなく、ぼんやりとした時間がすぎていく。
保生会の斎藤成四さんが見舞いにきてくださる。保生園の先生方や、保生会の幹事諸君が私のことを心配している由。なにかと忙しく遅くなりましたといいながら、保生会、保生園とそれぞれ別にお見舞金をいただく。

七月十六日(月曜日)
光恵に、遅れていた病院の部屋代差額の支払いをすませてもらう。
町井先生来診。自分でもなんとめめしく、くだくだしいことだと思いながら、つい夜の睡眠にこだわった話ばかり報告する。町井先生はさぞかし、心の中でうんざりされていることと思うが、それをすこしも面にあらわさない。私の話を聞きおわると、手みじかに「そんなに神経質にならないでください」とのみおっしゃる。
朝日新聞の青柳誠一君が見舞いにくる。青柳君から読売新聞科学部の宮野晴雄君が六月七日亡くなった話を聞く。宮野君は読売新聞きっての医学記者であり、私たちは一緒に勉強会をひらいた仲間であった。宮野と私は浦和高校の同期であり、親しいつき合いをした心の許せる友人であった。聞くところによれば、胃潰瘍の穿孔による出血多量で突然亡くなられたということだ。これをこそ、「紺屋の白ばかま」というのであろうか、痛恨の想いやみがたい。

七月十七日(火曜日)
光恵が、このごろ誠が鼻づまりをひどく気にしており、哲は哲で原因のわからない胸痛があり、これも心配だといってつい涙をみせる。私は、誠はいちど杏林大学の堤教授にでも診てもらったはうがいいだろうし、哲も結核予防会で健康診断を受けたはうがいいとすすめる。光恵が愚痴っぼく、なることに同情する気持がつよいが、同時に、なんとなく腹が立ってくる。
睡眠剤をのみ、九時三十分、痛み止めの注射をするが眠れない。しかし注射のせいか気分はよい。いろいろなことを考えているうちにだんだんいらだちがつのり、ますます眠れない。昨夜も眠れなかったというのに、きょうもこのまま眠れそうにない。

七月十九日(木曜日)
久しぶりに熟睡した感じがあり、朝の目ざめがよい。五時三十分、早いが起きて洗面をすませ、お茶を飲む。六時、早々に看護婦さんが検査のための採血にくる。採血後、またようかんでお茶を飲み、さらに牛乳を飲む。朝食も全部食べることができた。
九時四十分、胸部レントゲン検査。豊島病院では、順天堂大病院ではやらなかった胸部のレントゲン検査をこれまでにすでに三回行なっている。順天堂内科は消化器内科であるせいか胸部についての関心をはとんどもたなかったようだ。ここ豊島病院は総合的な内科だからなのか、胸部レントゲン写真をよく撮る。私はひそかに、肺にガンが転移しているからではないかと思ったりする。

七月二十日(金曜日)
六時、採血で起こされる。それをしおにお茶をのむ。
光恵が絵の展覧会にいきたいといって、二時過ぎに帰るのと入れかわりに誠くる。就職の件についていろいろ話し合う。誠も、私が病気になってからすこしはおとなになったような感じをうける。
六時、入浴。七時十分、注射。十二日にはじめたこの新しい注射は、十日間朝晩各一回、計二十回行なうという話であったが、きょうで終わる。計十八回であった。

七月二十一日(土曜日)
昨夜眠りについたのが遅かったのか、目がさめたのは八時。すぐ朝食になる。
十時、胃内視鏡検査。

町井先生来診。胃内視鏡検査の結果は異常がないという。私からは、鎮痛剤をやめていただくようお願いする。夜眠れないのは、痛みのためであるより、私の精神的ないらだちがまねく不眠であることが自分でもよくわかるからである。睡眠のリズムを回復するためには、外出、外泊などで現在の生活様式を変えてみる以外にないと思う。先生も、その試みなしに退院してしまうことは考えものだというご意見である。
中村尭一郎さん見舞いにくる。大渡順二主筆から、銀座あけばのの干菓子、それに最上級の玉露をことづかってきたそうだ。主筆からの懇篤な手紙が添えてある。中村さんとは来し方行く末など、話は尽きないが、私の病状を心配してか、一時間もたたないうちに、「またくるよ」といって帰る。
夕食後の長い時間をじっと耐え、きょうはいつもより二時間以上遅らせ、十一時四十分に睡眠剤をのみ、 一時に注射してもらう。二時前には眠りに入れた。

七月二十三日(月曜日)
町井先生来診。話はやはり、なぜ痛むかということになる。先生は、正直いって、原因が私どもにもわからないのです、と前置きしていう。あなたのからだはこれまでに結核性腹膜炎、肋膜炎、胸郭成形術、その後の十二指腸潰瘍による胃の切除、あるいは結腸の平滑筋腫の手術といったように、いろいろな侵襲をうけている。これだけでも同じような障害がおこってなんのふしぎもない。今回の肝膿瘍の関連痛だけで現在の痛みを説明することはできないが、こういった過去の侵襲にこんどの肝膿瘍が影響し、それらの複合されたものが原因になっているのだろう。さらに長期にわたる入院生活が心因的なものとして加わっていると考えてもおかしくない。こういう点から考えれば痛みはしばらくつづき、過労、深酒、老化など、病気と直接関係ないものを含めた肉体的な原因や、不安、焦燥、その他日常生活におけるいろいろの問題が心理的原因になって、痛みが強くなったり弱くなったりするということが考えられる、という。結局、先生のこの説明で納得する以外にない。
かりに、肝膿瘍を肝臓ガンに置き換えたとしても、肝臓ガンそのもので現在のような痛みがおこるはずがないのだから、肝膿瘍であれ、また肝臓ガンであるとしても、先生の説明は正しいことになる。ただ、肝臓ガンである場合には、その痛みの将来を心配するより、残された人生の設計をもうすこしきちんと考えなおす必要があるだろう。
夜、むし暑いが、窓を大きくあけ、クーラーはつけないようにする。きょうも十一時睡眠剤、十一時四十分注射と、時間を遅らすことにした。

七月二十五日(水曜日)
六時、洗面。お茶を飲み、菓子を食べ、くだものを食べる。六時五十分から約二十分、本館屋上を散歩する。
町井先生来診。けさの散歩について報告し、外泊の許可をもらう。
四時、光恵の友人の季羽倭文子さんが見舞いにきてくれる。季羽さんは日本大学付属病院の訪問看護室長を務めている。彼女は英国に前後三年留学し、いまでは日本における訪間看護の権威といっていい人だ。光恵と季羽さんはさっそく、むかしばなしにうち興じている。私は二人の会話を楽しく聞いた。
前の病室の、再生不良性貧血で長く入院していたというお嬢さんが亡くなる。近くの病室で人が亡くなるということは、入院患者にとってきわめて苦痛である。

七月二十六日(木曜日)
六時目ざめる。気分そう快である。朝の行事をすませたあと、約三十分間、旧館の屋上を散歩する。これだけの時間散歩しているとすこし疲れをおぼえるが、しかし、右わき腹の痛みは散歩中に強まるどころか、かえって軽くなる感じである。
部長回診。村上先生は、「外泊するそうですね。もしおかしいと思ったらすぐ車で帰ってくればいいのだから、気らくな気持でお出かけなさい」といってくれる。
きょうは、すこしからだを動かしすぎたせいか、夕刻より右わき腹の痛みが強くなり、八時にゼラップという湿布をしてもらう。

七月二十七日(金曜日)
朝の行事いつものごとし。けさは熱もない。右のわき腹に軽い痛みがあるが、一か月はど前までつづいた激しい痛みではない。午前中ずっと安静にしていたら痛教はやややわらぐ。寝てばかりいるのもよくないし、動きすぎるのもよくない。じゅうぶん安静をとり、時おりこまめにからだを動かすのがいいようだ。
町井先生来診。外泊について、あす、土曜日、朝食後に帰宅し、日曜日の夕刻、あるいは三十日の朝早い時間に病院に帰る旨報告する。
三時、彬くる。誠の就職について相談にのってもらう。

七月二十八日(土曜日) 外泊
光恵、きょうは朝早く、八時にくる。外泊の申告をすませ、九時十分、病院を発つ。家に帰るまでタクシーで約五十分、そのあいだ痛みはなかった。帰宅早々の検温で熱は七度三分。十一時三十分、検温、七度三分。それはど出ていない。
昼食は久しぶりに家族と食卓に向かう。結局、好物のそうめんにする。
いとこの奥山馨子さん、天野の姪由利子、妹の京子が見舞いにくる。
夕食は、見舞いの品でたいへんにぎやかであった。
夕食後から十一時近くまでは、病院では私にとって魔の時刻ともいうべき時間帯であるが、きょうは、ふと気がついたらすでに十一時になっていた。睡眠剤をのむが眠れないので、ためしにと思ってウイスキーをダブル一杯分ほど飲む。ウイスキーが睡眠薬のかわりをすると思ったのが、これはたいへんなまちがいで、激しい痛みが急におそってきた。あわてて救急箱をさがしまわり、先年、ヨーロッパに旅行するときに処方してもらったブスコパンをみつけ、これを二錠のみ、二時過ぎにようやく眠ることができた。

七月二十九日(日曜日)
家で久しぶりの朝を迎える。七時起床、冷たい水を飲む。するとすぐ便意があり排便、正常便であった。朝食は魚の塩焼き、昼はやっばり好物のそばにする。
昼食後、秋田、天野、丸橋の三家を訪問する。これも私にとっては一つの訓練だと思う。秋田では八十歳をこえた叔母が思いのはか元気なのにおどろかされた。
夜十一時、睡眠剤をのみ、きのうためしたブスコバンを二錠加えてみる。十二時ごろからよく眠る。

七月三十日(月曜日)
七時起床、洗面をすませ、さっそく朝食をとり、家を出る。九時半、病院着。
町井先生来診。外泊中の経過を報告する。先生いわく、「ブスコバンぐらいで効くのなら、これはたいへんけっこうな話で、まあ″いわしの頭も信心から″というところでしょうか」と笑う。では今夜はひとつブスコパンの注射にしますか」と冗談をいうので、「いや、いつものにしてください」と、あわてて答える。
まったく、家にいるときは夜の時間がまたたくまにたってしまうのが、ふしぎなくらいであった。またきょうから、夕食後の魔の時間をどう耐えるかが問題になる。
一緒についてきた光恵が、新聞を読んでいると思ったら、いつのまにか眠っている。さぞや疲れていることだろうと思う。もし光恵が、私の病気が肝臓ガンであるとして、それを知らされているとしたら、その心労は並大抵のものではあるまい。
夕食後、光恵が帰るとき、「これからはあまり心配せず、病院にこないでもいいよ」といっておく。

七月三十一日(火曜日)
朝の行事いつものごとし。検温、六度六分。熱がないので安心する。九時過ぎ、会社、財団、自宅へ、外泊しても異常がなかった旨の報告をする。
町井先生来診。数日前から右のわき腹、それも上のほうにいくつかのグリグリがあることに気がついていたので、先生に診てもらう。硬いのもやわらかいのもある。先生は、「このあたりにハリをさしたのではないですか」ときく。そういわれてみれば、グリグリのできたところはハリをさしたところのような気もする。
先生は「しばらく途絶えていた一日おきの注射をあしたから再開します」という。「しかし、この注射は、いつまでつづけなければならないというものではないので、この注射をはじめたからといってあなたの退院の日時を拘束はしません」という話である。先生からはじめて退院という言葉が出たように思う。
先生はかさねて、「できるだけ動いてください。そのほうがあなたもらくだと思いますよ」という。私自身、そうしようと心に決める。
夕刻より右下腹の痛み強くなり、湿布をしてもらう。十時、睡眠剤をのみ、十時三十分、注射をうってもらったが、こんどの外泊まで数日つづいたうまい入眠のパターンにはいりそこなってしまう。
十二時三十分、睡眠剤の注射を追加してもらう。

八月二日(木曜日)
原和夫君が見舞いにくる。原君は、私がむかし入院していた保生園の療養仲間であり、その後ことあるごとに私に相談をしかけてくる親しい友である。自宅に電話したところ、入院中と聞き、見舞いにきてくれたという。原君は冗談のように「ぼくはいま、将来の生活を決める重大な岐路に立っているんですよ。相談相手の岡本さんに死なれたんでは困ります」などといって帰る。おみやげは原君のお母さん丹精の、八年漬けの梅干しであった。ありがたくちょうだいする。

八月二日(金曜日)
きょうは光恵の、私の所属する出版健康保険組合の家族健診の結果がわかる日であると聞いていたので、昼過ぎ自宅へ電話をする。格別な異常はないが、血圧がきわめて低く、上が八〇、下が五〇だという。光恵は「これがだるさの原因かしら。くわしくきかなかったけど、貧血もあるかもしれないわね」という。私の病気についての心労、見舞いに毎日通ってきたことによる過労と、それがもとになって栄養をとりそこない、あるいは夏負けなどが加わって……等々、いずれにしても疲れていることは明白である。しばらく見舞いにこないでもよいから、十分な栄養をとるように厳しくいっておく。
町井先生来診。気になっていた下腹のしびれもほとんどなくなったし、痛みもずいぶん軽くなったので、このへんで思いきって眠れなければ眠れないで一晩じゅう寝ないでもよいから薬を全部やめてしまう、そんな荒療治をしてみるわけにはいきませんか、ときいてみる。
先生は、「そんな無理をする必要はないし、結果もよくないと思う。それよりからだをならすための外出、外泊を試みてみることが大事です」という。
このところ飛松先生のハリ治療がしばらくとぎれているが、私はハリ治療をさらにつづけたいとはいわないでいる。ハリ治療が痛みに対する対症的な治療法であるとすれば、すでにそれは十分な効果をあげているのであり、私の病気そのものに対する決定的な治療法でないことがわかっているからである。

八月五日(日曜日)
しばらくなかった背中の痛みが、きのうの夕刻から強くなる。これは病気による痛みというより、あおむけに寝て長い時間を過ごし、本を手に持って読むための筋肉の痛みだと思う。読書をひかえていたら午後になってやわらいできた。
夕食後、一時間ほど散歩しようと思い、外出願いを出す。看護婦さんは、主治医の町井先生から正式な許可がないので、いちおう当直の先生に伺ってきますという。当直の先生から、「やはり町井先生の許可を得る必要があるから、明日以降はともかくとして、きょうのところはやめるように」といわれたという。これが私のいけない点なのだが、つい看護婦さんに「都立病院ともなれば、思いのほか官僚的なのですね」などというにくまれ口をたたいてしまう。要するにカルテに、町井先生の「随時外出許可」という記録がない限り、そのつど主治医の許可を得る必要があるというきまりになっているのだそうだ。

八月六日(月曜日)
光恵が、昼と夜の総菜をもってくる。光恵がきょう疾病特約つきの簡易保険に加入したという。きいてみると毎月の支払いが四万五千円である。私が元気でいる限りこの程度の額ならなんとかなろうが、もし私に万一のことがあれば、それだけの保険料の支払いはできるはずもない。その場で断を下し、ただちに電話を入れ解約を伝えること、明日にでも先方に来訪してもらい手続きをとるようきつく命じる。

八月七日(火曜日)
きのう光恵に命じた、疾病特約つき簡易保険の解約の件が気になったので、自宅に電話する。光恵は結局、郵便局の担当者に説得されたとみえ、その金額を半分にし、すでに支払った半年分の保険料を一年分の保険料に振り替えることで結論をつけたらしい。腹が立ったので電話口でどなってしまった。
しかし、考えれば、光恵が将来のことをこんなに心配しはじめていることに、私はやはり、私の病気の将来について暗い展望をもたざるを得ないのだ。
夕食後、許可になった散歩に出る。近くの東京都立の養育院病院を目指して歩きだす。ここは、かつて塚本哲先生が入院されたとき、いちどお見舞いにいったことはあるのだが、現在では養育院に付属する養育院病院、老人総合研究所と、新しく建てられた立派な建物が立ち並び、それを囲んで緑の木が茂っており、まわりを一周するだけで相当の時間がかかる。約四十分で病院に帰った。

八月九日(木曜日)
部長回診。率直に「退院を考えていいですか」と伺う。村上先生からは逆に「いままでに何回外出、外泊をしましたか」と反問されてしまう。考えてみれば、まだ外出らしい外出は一回、外泊も一回しかしていない。

八月十日(金曜日) 外出
三時、入浴。入浴後の脈拍を調べてみる。風呂から出た直後に一二〇だったものが、十五分後に一〇五になり、さらに十分後には九二になっている。
夕食後、外出。きょうは思いきって東武東上線で池袋まで足をのばし、診療所の西谷君に会う。所長の村田先生や、私どもの診療所の人間ドックに時おり応援にきてくださる順天堂大学の栗原先生、池延先生、豊島病院の村上先生、町井先生などの日から、私の病気についてなにか話があったかどうか、それとなく質問してみる。先生方から格別のことを聞いている様子もない。すべての先生が私の病状はしだいによくなっており、もうすぐ退院できるはずだといっているという。
七時五十分、病院に帰る。留守中に診療所の村田先生が見舞いにみえたらしく、その旨記した名刺が床頭台にのせてある。すぐ村田先生の自宅に電話をし、失礼をお詫びする。村田先生から「近く退院することに決まったようですね」ときかれたので、この電話で退院後の私の主治医をどなたにするかについて相談をする。村田先生は実質的にはここ二十年近く私の主治医の役をしてくださっている。

村田先生は、やはり月に一回か二回、豊島病院の外来にゆくことにし、主治医としてはもっと自宅に近い先生をお願いするのがいいだろうという。かつて東京女子医大の助教授をされていた荒木仲先生が、私の家から歩いて五分しかない、西荻中央病院に副院長として勤務されていることを話したところ、「それは願ってもない話ではないですか」といってくださる。

八月十一日(土曜日) 退院にそなえて

村田先生から電話があり、西荻中央病院の荒木先生に主治医になっていただくのがいいといったが、それを訂正したいという。きのう私との電話のあと、豊島病院の村上部長先生と相談したところ、村上先生は、退院後もやはり豊島病院が責任をもつとおっしゃってくださったそうだ。村田先生は、ちょっとむだなようだが、豊島病院のベッドを確保したまま一週間はど外泊してみたらどうだろうかという。先生のいわれる意味がわからないでもないが、私は、それくらいなら完全に退院してしまったほうがいいと思い、返事の言葉をにごしておく。
町井先生来診。村田先生と話したことについて報告する。町井先生もやはり「退院後も私が責任をもちますよ」とおっしゃる。私はかさねて早期退院をお願いする。そして、きょう昼食がすんだあと外泊してみたいとお願いし、その場で許可をいただく。
ちょうど見舞いにきてくれた天野の姉奈々子、丸橋の妹京子と、午後三時、三人うちそろって自宅に帰る。ベッドに横になり、すぐ検温したが熱は上がっていない。
夕食は久しぶりに親子四人で食卓を囲み、光恵の用意したごちそうを食べる。食後もベッドに帰らず、しばらく居間でみんなで話し合う。あっというまに十一時になる。入浴をすませ睡眠剤をのんで寝る。まったく注射のやっかいにならないのに、まもなく眠りに入った。

八月十二日(日曜日)
朝食後、再び親子四人で、将来のことについていろいろ話し合う。私は誠と哲に、自分の病気がまだしばらくつづくだろうこと、経済的にも、いつまでも甘ったれた気持でいてもらってはこまる旨をよく話してきかせる。久しぶりに子どもたちが私の話に真剣に耳を傾け、それぞれ、もうぼくたちも子供ではないなどとなまいきなことをいう。

夕刻、菅野君から電話がある。あれ以来これといって話をしていなかったので、その後の経過を報告する。菅野君から、けっして退院をあせらず、万事医師の診断、指示に従うことが大事だ、不眠、痛み止めなどについても自分勝手の解釈はかえってトラブルのもとになる、とつよく指摘される。最後に、これはまあ釈迦に説法という気がしなくもないがと前置きしながら、どんな人間でも、かりにそれが医師であっても、いったん病人になってしまえば、どうしても自分勝手な解釈が先に立ち、素直な患者になれないのだ、などといってくれる。
村田先生のご助言、それにきょうの菅野の忠告、それぞれ身にしみてうれしいが、しかし「最後」のことは自分で決めなければいけないのだと、あらためて心に決める。

八月十三日(月曜日)
九時に家を出、病院に帰る。
夕食後、廊下で村上先生にお目にかかる。そのときに、外泊の経過を報告したところ、「どうやら退院してもよさそうですね」といってくださる。
きのう、おとといと家での二日間、起きている時間が比較的多かったのに背中の痛みがかえってらくになっている。きょう三回の検温でも、最高は七度三分であった。熱も上がっていない。
十時、睡眠剤をのみ、十一時、注射をうつ。どうしたことか目がさえ、深夜一時また痛み止めの注射をしてもらう。家では睡眠剤だけで眠れたのに、病院に帰ったらさっそくフルコースに逆もどりだ。

八月十五日(水曜日)
きょうも単調に日が過ぎる。
午後、二時間近く眠る。昼間うとうとと眠るのはたいへん気持がよいのだが、これが夜の不眠に結びつくのかと思うと気になる。
光恵の友人、季羽倭文子さんがくる。ご自分で翻訳された、リチャード・ラマートンの『ケア・オブ・ザ・ダイビング』(日本語訳『死の看護』)のほか、メヂカルフレンド社の『看護技術』に連載した「イギリス、アメリカ、カナダに見る訪間看護の実態」、『看護学雑誌』に載せた「看取りの心」、雑誌『病院』の座談会「末期患者の医療を考える」などの別刷りをそろえてもってきてくれる。訪問看護や死の看護は、私もかねて勉強したいと思っていたテーマであるが、このところ日本の医療制度の改革にのみ心をとられ、大事な問題であると知りながら、これらについてはほとんど勉強していない。しかしいまとなっては、私自身がどのように看取られるかという立場でこれらの本を読まねばならなくなっているのだと思う。
光恵と季羽さんは六時ごろまで二時間近くも、二人の会話を交わしていた。私はそのあいだに夕食をとり、夕食後、入浴もすませた。二人の親しい友が、一人は家庭の主婦におさまって、いま私のみの看病に専念し、一人は結婚後もその職業を捨てずに、いま看護の世界で大事な役割を果たしているのだが、その二人の話を聞いていると、なんともたわいもない中年女同士の楽しい雑談である。しかし考えてみれば、わたしども男の友人同士がもっともらしく交わしている毎日の会話も、似たりよったりなのであろうという気がする。
八月十六日(木曜日)
きょうは光恵がこないで、誠と哲が二人別個にき、六時近くまで話しこんでいく。子どもたちも最近ではすこしずつ、私の病状が並大抵のものでないことに気がついているらしく、つとめて快活をよそおいながら、いろいろ自分たちの現在の生活や将来の希望などについて話をする。私の気持を明るい方にもっていこうとしてくれているのが感じとれる。誠には就職について、けっしてあせってはいけないと注意しておく。いま誠が就職のことで頭がいっばいなのはわかるが、大企業への就職がかならずしも自分をよく生かす道というわけではなく、要は自分自身が人生をどう生きたいかが重要なのであることを話す。
部長回診。子どもたちには病室を離れてもらう。右の横腹がすこし腫れており、右の胸のあたりに腫瘤があるのをよく診察していただく。先生から特別な説明はなく、思いきってもっとからだを動かしてみなさいという注意がかさねてあった。

八月十九日(日曜日)
きのう、誠の入社試験にそなえて背広と靴を買ったそうだ。生まれてはじめてつくる背広だから、けっしてケチな買物をするなと注意しておいたのだが、既製服で五万円ほどの紺の背広を買ったという。
昨夜、お向いとお隣の病室がさわがしかったが、向いの部屋の患者さんは夜間亡くなったらしい。朝すでに部屋が空っぽになっていた。隣の部屋にはきょうも依然として見舞いの客が多い。

八月二十日(月曜日)
きょうは夕刻まで外出、会社訪間する旨の許可をもらってある。六時起床、洗面しお茶を飲む。面会室の冷蔵庫に入れてある牛乳やブドウを取りにいったとき、めずらしく当直されたらしい町井先生が看護婦室におられる姿をみかけた。あとで聞いた話だが、昨夜、隣の部屋の患者さんも亡くなったという。外出の姿に換えたうえで、看護婦室の町井先生に外出のあいさつをする。
九時五十分、会社に着く。月曜日定例の会議があるはずだが、会議の前に応接室で社長と会って話をする。「本来なら引退伺いでも出さなければならないところですが、いまそのようなことをしたら、私はともかく家内がその精神的な傷手でがっくりしてしまうようにも思いますので」などと勝手なことをいいながら、長期欠勤をお詫びする。
社長は「三十年も勤務した人間が、一年間の長期休暇をとると考えればべつに気にされることはないでしょう。よけいな心配はいっさいしないでください」という。私は、九月早々退院しますが、しばらくのあいだ会社の仕事をすることを免除していただき、自宅で自分自身のための手記を執筆したい旨お願いする。これもOKをもらう。
そのあと会社幹部の定例の連絡会議に出席し、ここでも長期欠勤の詫びをのべ、来年春にはもういちどみなさんのお仲間入りをさせていただけると思うというあいさつをし、途中で席をはずす。
経理の日原君が、ヨーロッパ旅行のおみやげだといって、ニナリッチの香水をくださる。「岡本さんにではなく、奥様へのおみやげにしました」という。
昼、社長、中村、中根、江花、江林、実正の諸君と一緒に四川飯店で食事をとる。
昼食後みなと別れ、車で診療所に行き、村田先生にこれまでの病状と今後の方針について報告する。
村田先生の日ぶりには、私の病気そのものとは別に、心身症的な症状が多すぎるという点を懸念されている様子がうかがえる。病気の話がすんだあと村田先生が、あなたのように、仕事仕事で人生を送り、趣味らしい趣味ももたない人には、やはりなにか心に強いものが必要ではないかという。そして先生ご自身の信仰についての話をされる。私にも信仰をもてということらしい。私は、先生の心にある信仰と同じように、私にとっては言葉、あるいは文学というものが私の信仰である旨を話す。先生がけげんな顔をされたので、私はついつまらぬ話をしてしまう。
むかし原始人は槍で獣を仕留めるとき、槍がうまく命中することを心に念じ、かつ口には、「飛びゆけ、わが槍よ」とか「空をよぎる流星のごとく深く貫け」とか、なにかそういった言葉(呪文)を唱えたろうと思う。もちろんこれは呪術であるが、いってみれば原初の宗教ないしは信仰といえないこともない。この呪術が片一方で宗教を呼び、片一方では文学に発展したのではないか。とすれば、宗教といい文学といっても、いずれも呪術という同根から分れた二つの形態にすぎないのである。と、こんなふうに、戦後まもなく発刊された福田恒存先生の『芸術とは何か』という小さな書物で読んだことが頭にチラッと浮んで口をついて出た。私のいいわけがましい意地っばりであるとは思ったが、先生は「なるほどね」としきりに感心されていた。福田恒存先生がその書物で述べてある内容と、いま私がいったこととはまるでちがったもののように思えたが、いずれにせよそのなかの文章を、頭のすみの記憶から、私なりの勝手な解釈でしゃべったのである。
村田先生と別れ、財団事務局に行き、そこの電話から、大渡主筆に、きょうの外出を含めた近況を報告する。
病院に帰ったのは六時近かった。自宅へ電話したところ、哲が「ママは病院に行ったよ」という。
六時三十分、光恵くる。きょうの外出が気になって、どんな様子か見にこずにはいられなかったという。

八月二十一日(火曜日)
昨夜は熟睡したらしく、七時まで目がさめず、目ざめたあとの気分もよい。いつものようにお茶を楽しむ。
昼食後まもなく村上先生来診。そういえば村上先生は最近、内科部長から副院長に就任されたということを新聞で知っていたので、お祝いの言葉を申しあげる。昨夜、私が村田先生にお目にかかったあと、村田先生から村上先生に電話をしてくださったらしく、私の希望もあることなので、「早急に退院の日時を決めることにしましょう」という。
夜、きょうはめずらしく涼しかったので、クーラーをつけず、毛布をかける。いつものように薬と注射のやっかいになったが、十一時ごろ眠りに入れた。

八月二十二日(水曜日)
誠が昨日受けた面接の報告にくる。四十分間で面接のときの内容をうまく私に話してみろといってやる。話をゆっくり聞いたあと、こまかい点の注意を与える。そのうえで、いらいらすることの愚かさや、今後の誠のスケジュールなどについてアドバィスする。
町井先生来診。退院をいちおう二十五日の土曜日にすることに決める。先生からあらためて今後の生活の注意がある。

八月二十四日(金曜日)
朝の行事、いつものごとし。
町井先生来診。退院後の二週間分の薬をもらう。
「いままでつづけていた一日おきの注射は、ひきつづきうつほうがよいと思うので、その旨、西荻中央病院あての紹介状を書いておきます」という。
退院後の経過の観察は、外来時にCTスキャンで行なう予定だということである。

八月二十五日(土曜日) 退院
六時目がさめ、起床、洗面、お茶いつものごとし。朝食後、会社と診療所とに電話をする。
十二時、退院。家に帰りすぐ昼食にする。
親戚や友人たちに、退院した旨、電話で連絡をとる。
家に帰ると、あっというまに夜の時間が過ぎ、十一時に入浴。十一時三十分、睡眠剤をのむ。痛みが激しくなかなか眠りに入れない。夜じゅう寝室と居間のあいだを、行ったり来たりする。眠りに入ったのは、三時に近かった。

●― 主治医から                             、
私どもがみてまして、病気が病気であるし、これだけの病変があるわけです。やらねばならぬ仕事、ライフワークといったものもあるでしょう。退院の時期を考えなくてはいけないと思いました。ご本人も退院のことをしきりに口に出されるようになりました。いつにしたらよいか、あまり遅すぎては申し訳がたたない。そこで八月二十五日、体重も入院のときより一キロ増えていますし、痛みも固定してきた、まだまだ仕事への意欲も十分わかせられる、そういう時点でお帰ししたつもりです。
(豊島病院・村上義次)