岡本正、病上手の死下手、1部 なぜこんなに痛いのか | オカポンのブログ

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岡本 誠 OKAMOTO Makoto

なぜこんなに痛いのか

四月十六日(月曜日)順天堂大病院・再々入院
十時三十分、順天堂大病院消化器内科に入院する。たびかさなる入院だが、しきたりどおり、看護婦が入院までの症状について記録をとる。
宮坂先生来診。十七日から二十五日までの検査日程について説明があり、二十六日退院予定ということにする。
先生に右下腹部の痛みについて詳しい説明をしたせいか、夜、消燈直後に、鎮痛鎮静剤の注射をうってくれた。

四月十七日(火曜日)光恵めずらしく早々に帰る
五時半、目がさめる。気分爽快である。ただし、右下腹の痛みとしびれ感はのこっている。
昼食後眠ってしまう。やはり軽い勤務とはいいながら、二か月余仕事をした疲れが出たのだろう。
四時十分、光恵くる。いつもは見舞いにくると数時間はいるのに、きょうはめずらしく早々に帰る。
池延先生来診。痛みについて詳しく報告する。私の感じでは、池延先生はそれほど私の右下腹の痛みについて、関心をもたないように思えたので、すこしくどいくらいに訴える。
夜、きのううってくれた就眠時の注射をしてくれない。夜中の三時ごろまで目がさめていた。

四月十九日(木曜日)
二時、天野の姉の奈々子、丸橋の妹京子が見舞いにくる。らっきょう、そら豆、福神漬のびん詰め、マロンの菓子、くだものなどいろいろとお見舞いの品をもってくる。
四時、光恵くる。
五時二十分、弟の光司くる。このところきょうだいの見舞いが多い。
九時、痛み止めの注射をうってもらう。まもなく寝入ったが、深夜十二時には早くも目がさめ、明けがたまで眠れず痛みもつづいた。

四月二十日(金曜日)
六時、起床。いつものようにお茶を飲む。朝のお茶だけがおいしい。十時三十分、入浴。
けさはなんとかご飯が食べられたのに、昼は食欲がなく、なんとも食事がのどをとおらない。
教授回診。きょうは山田助教授である。しつこいようだが右下腹の痛みを訴える。再入院してから痛みが強くなる一方なのだ。
夕刻、痛みますます強く、光恵に売店の百円かいろを買ってきてもらいあててみるが、痛みがとれない。看護婦さんに頼んで鎮痛剤の坐薬を入れてもらう。右下腹の痛みはやわらいだが、おへその横の知覚異常がおさまらず、ひどく気になる。
九時、消燈時に鎮痛剤の注射をうってもらう。注射をうつと痛みはやわらぎ、まもなく眠りに入った。

四月二十三日(月曜日)
きょうは血管造影があるので、朝食を半分にひかえ、昼飯は抜きである。
九時、第一外科で谷先生の診察を受ける。「いずれ消化器内科の治療が終わったら手術をする必要があるでしょうね」といわれる。
血管造影の担当は有山先生。病室に帰ったのは二時。つよい吐きけがおこり、前後七回嘔吐する。嘔吐と同時に下痢がおそう。安静にしていなくてはいけないのだが、耐えることができないので、何度か安静を破ってトイレにゆく。
官坂先生来診。「第一外科の谷先生から、抗生物質を投与しておくようにという要望があったので、その注射をつづけます」という。
九時、きょうも鎮痛剤の注射のやっかいになり、眠りに入る。

四月二十六日(木曜日)
胆のうのレントゲソ撮影を行なうため、朝食を半分にし、十一時に浣腸をする。十一時五十分から約一時間、点滴。
一時三十分、胆のう検査。
同僚の江花君が見舞いにきてくれる。その後、すぐ飯島の妹優美子、弟彬の妻君の淑子がそろって見舞いにくる。
宮坂先生来診。胆のうと小腸の癒着があり、そのための痛みではないかという。

四月二十七日(金曜日) なぜしきりに退院をすすめるのか
よく眠れたのに目がさめたときには、やはり右の季肋部の痛みと下腹の知覚異常が強い。
今月十四日ごろから痛みは一段と激しくなり、もはや軽い鈍痛などというものではない。下腹のしびれも強くなった。この十四日以降の痛みについては、いくら先生に話しても、痛み止め、精神安定剤などを投与するだけて、なぜ痛むのかという点についての説明もあまりはっきりしない。私の不安はますます強くなってくる。
五時、彬見舞いにくる。夕食も思うように食べることができない。
宮坂先生来診。先生は、私の痛みについての訴えを毎日のように聞かされているので、先生としてもひどく困惑しておられるようであった。「寝る前には痛み止めの注射を遠慮なく看護婦さんに頼んでください」、という。そして、小腸の精密検査をしてみようと思うが、あしたから連体に入ることだし、いったん退院をし、あらためて入院してからということにしたい、ということである。私は痛みへの不安がつよいものだから「たとえ連体がつづいても、このまま入院させていただきたい」と返事をする。
なぜしきりに退院をすすめるのか、私にはわからない。患者のひがみかもしれないが、私の下腹の痛みに対する訴えを先生方が処理しかねているという感じがつよい。

五月一日(火曜日)
宮坂先生来診。点滴をしながら、痛みの原因について先生から説明がある。私が三度にわたって腹部の手術を行なっていること、また若いときに結核性の腹膜炎をやっているために、腹腟内の癒着が激しいことも原因になっているのではないか、という。
私は「ほかにこの痛みをとる方法がないのなら、プロックをするなどということは考えられませんか」ときく。先生は「いちおう検討してみますが、まず無理と考えたはうがよいでしょう」という。
きょうもネルボンで眠ることになるだろう。この睡眠剤は病院に調剤してもらったものではなく、私が以前から用いている、保健同人診療所の処方のもので入院時に持参してきた。残りが少なくなったので、診療所に電話しネルボンを届けてくれるよう頼む。
注射とネルポンでも眠れないので、十二時、さらにネルボン三錠を追加する。

五月二日(水曜日)
四時すこし前、右わき腹の痛みで目がさめる。あまり痛みが強いので排便にゆくが、排便はない。熱いお茶をいれて飲んでみる。すこし痛みがらくになる。五時四十分、あらためて洗面し、お茶をいれる。さらにらくになった。朝食はよく食べることができた。
点滴しながら、宮坂先生が「就眠時の鎮痛剤をつづけていると、退院のとき困るのでやめようと思います。病院から睡眠薬を出しますが、それで足りないときにはネルボン一錠を加えてもけっこうですよ」という。点滴終了後、入院してからの新聞を整理し、切り抜きをつくる。
消燈時、病院処方の薬にネルボン一錠を加え眠る。

五月四日(金曜日)                              ・二時三十分、光恵、追いかけるようにして天野の姉、九橋の妹が見舞いにくる。かば焼き、新しいウド、夏みかんその他いろいろもってきてくれる。
九時、睡眠剤として新しい薬が処方されているらしく、錠剤二つと散薬が渡される。おかげでこの日は早く眠りに入れた。

五月五日(土曜日)
きょうも休日である。四時に目がさめ、五時三十分、すこし早いが洗面をすませ、お茶を飲む。
朝食はかゆで、かゆでかば焼きを食うなどというのはついぞ経験のないことだ。食後に、これも見舞い品の夏みかんを食べる。おいしい。朝食のあと、とろとろしていたが、九時三十分、点滴で起こされる。
昼食は祝日のせいか赤飯である。少量を食べる。食事のあと、湿布をしてもらい、約一時間半、眠ってしまった。目がさめたら右の下腹の痛みが強くなっている。お茶をいれて飲むと、その痛みがすこしらくになる。これで気がついたのだが、夜の下腹の痛みは、たった一人、暗闇に目を開いているという精神的なものも原因になっているのだろうが、同時に寝る姿勢が大きく影響しているのではないかということだ。
夕食は天ぶら。病院食としてはめずらしい献立だが、半分しか食べられなかった。

五月七日(月曜日)
小腸の検査。担当は小林先生。腸の動きが弱いので、検査はもう一時間後にしますといわれ、 一時四十分あらためて検査室に入る。
官坂先生来診。小腸の検査の結果はまだわからないので、後日、詳しく説明するという。私は夜の九時の薬について話す。考えてみると、四日に薬が変わってから、午前中はいつもうとうとしている状態なのである。宮坂先生は、池延先生と相談してみますという。
尿を筒尿びんにうつすとき失敗してしまった。現在のんでいる薬は、どうも強いように思う。毎日お昼まではいつもうとうとしているし、午後になってもこのような失敗をする危険がある。
就眠時の錠剤を一つ減らす。しかし、そのためか、十二時ごろまで痛みがつづいて眠れず、やはり睡眠剤を追加してしまった。        .

五月八日(火曜日)
昨夜遅くのんだ睡眠剤が効いたのか、朝七時過ぎまで眠ってしまった。
朝食後、自宅、会社、診療所に電話をする。
いちおう明日退院ということになっているが、十日になるかもしれない。いずれにしても痛みをとめるためには薬が必要だし、その薬の量が多いと、昼間までとろとろと眠ってしまう。それがまた夜の不眠をまねく。
きょうは一日、痛みがそれはど強くないかわりに、本を読む気力もない。ただばんやりと時間が過ぎていく。二時ごろからまた痛みがはじまる。夕食は半分食べるのがやっとであった。
消燈時、睡眠剤の量を減らし、錠剤一錠と散剤をのむ。すぐ眠れたが、十二時すこし前に目がさめてしまう。一時までがまんしていたが、ろくなことを考えないので看護婦さんを呼び、睡眠剤の錠剤を一錠追加してもらう。

五月九日(水曜日)                              ・
朝の目ざめの気分がよくない。右下腹の痛みも強い。毎朝、配達と同時に読んでいた新聞も手にとる気がおこらない。
看護婦さんが、宮坂先生から電話で、就眠時の薬を調節するため、退院を一日延ばすようにという指示があったといいにくる。家と会社、診療所にその旨、連絡する。
宮坂先生来診。午前中に電話で指示された話をあらためて確認する。
四時二十分、入浴。
九時、今夜は錠剤を二錠にし、散剤を三分の一に減らし、すぐ眠りに入れた。

五月十日(木曜日) 退院
九時、排便にゆくが努力しても出ない。考えてみると、八日の午後二時二十分の排便以来、便通がないわけである。
十時、宮坂先生来診。退院に際しての注意があり、食後の薬と就眠時の薬をもらう。
二時三十分、退院する。タクシーを呼びゆっくり帰る。帰宅後すぐ用意されたベッドに寝たが、右熟 下腹の痛みが強い。

久しぶりに自宅のテーブルで夕食をとる。食欲がないので好物のそばにする。夕食後、親戚に退院した旨の電話をし、すぐベッドに入ったが、痛みは依然つづく。しばらくぶりのテレビをみながら痛みに耐える。

五月十一日(金曜日)
夜中の三時三十分ごろ、日がさめる。いつもより激しい痛みが下腹を襲う。約四十分がまんしたが、痛みに耐えられず、宮坂先生が「やむを得ないときのために」といって、退院時に渡してくれた痛み止めの注射を妻にうってもらう。この四十分のがまんが私にはまるで二時間以上に思えた。注射のあとすぐ眠りに入り、そのまま十時まで熟睡した。七十時間以上、排便がないので、坐薬の下剤を入れる。               .
食欲がないのに、妻に無理にすすめられて昼食を軽くとる。食後まもなく久しぶりに排便がある。排便量は相当多いのだが、まだ便の残っている感じがつよい。排便後、温湿布をしてもらうが、痛みはとまらず、このころより耐えがたい痛みが襲ってくる。
七時、米のめしを食べる気分がどうしてもおこらず、といって食べないわけにはいかないのでラーメンにする。
食前も食事中も食後も、とにかく痛い。がまんする以外にないのであろうか。
睡眠剤をのむ時間をすこし遅らせ、十時に錠剤二錠と散剤をのむ。夜中、しばしば目がさめる。そのたびに右下腹の痛みが耐えがたい。

五月十四日(月曜日)
六時ごろ目がさめたが、なんとなくばけっとした気分である。朝食はお茶とトマトジュースだけですます。
退院してまだ四日しかたっていないのに、この状態はとても自宅療養ですませるものではないと考え、診療所の村田先生に電話で相談する。
私には、順天堂大病院がなぜ私に退院をすすめたかよく理解できないので、菅邦夫先生の診療を受けるか、豊島病院の村上先生に相談してもらいたいなどという意見をのべたが、村田先生は「やはり順天堂大病院に再入院するのがよいと思う」といい、「あらためていろいろの先生に相談し、後刻お返事をしましょう」という。
午後、村田先生より電話があり、いちおう菅先生に相談してみてはどうかとすすめてくれる。医師がほとんどそれぞれの専門をもち、ジェネラルドクターが少なくなっている現在、菅先生はジェネラルドクター、ホームドクターとして、とくに患者の困っているときにもっとも頼りがいのある先生であり、私がこの十年来、心からご信頼もうしあげている医師の一人である。
夕刻、大渡社長から電話があった。妻が出てなにかお話し申しあげたらしいが、私はその内容を知らない。
あすの菅先生往診に備え、入浴をする。
十時、病院処方どおりに睡眠剤をのんだが眠れず、十一時三十分、私物の睡眠剤ネルボンを追加する。

●― 主治医から
四月十七日、ガンの宣告は私がいたしました。
とにかく病態からいって、いまをおいては事態はますます悪くなっていく一方であろうから、奥様をだましつづけるのはもう限界だろうということで、大渡社長にもご相談にのっていただいて、申し上げたわけです。池延と宮坂が立ち会いました。
このときの入院は四月十六日で、、五月十日に退院していただきました。.
(順天堂大病院・栗原稔)


家族に負担をかけさせまい

五月十五日(火曜日) 入院治療を決意
西荻窪の駅まで迎えに出た光恵と一緒に菅先生が、わざわざ拙宅まできてくださる。先生にいままでの経過を詳しく話し、その痛みの原因について伺う。先生は、ていねいに診察をし、私のこまかい報告を聞き、先生のご意見をのべられた。正確な記録とはいえないが、菅先生の話の大意はつぎのようである。
「病気になるということと病気が治るということは、患者本人にとってはたいへん大きな違いであるが、組織そのものにとっては、病気になるということと、それが治療によって修復されるということは同じ意味をもつ場合がある。あなたの肝膿瘍が比較的、緩慢な経過で進行したので、痛みははじめ弱くゆっくりとすすんだが、その治療が比較的急速に進められたため、病気になるときと同じような痛みを伴うことはじゅうぶん考えられる。私は、やはり社会復帰がすこし早かったのではないかと思う。だから、もしあなたが痛みに耐えてでも、家庭の生活のなかで快適な食事をとり、精神的な安静がたもてるというのなら、自宅療養もよいでしょう。しかしもしその痛みに耐えることが、病院生活のマイナス面を補うほどに大きいと考えるなら、やはり再入院するほうがよいでしょう。この場合、こんどの入院では決して治療を急がないこと。その意味では大学病院より、部屋代差額などの少ない公的病院に入り、すこしゆったりした気持で、ある程度、長期間入院治療したはうがよいと思います。ですから、その点について村田先生とも相談し、どうしたらいいかをあなたの意見に従って決めたいと思います」。
私は、この痛みに耐えながら自宅療養をすることは、家族への大きな負担にもなると思い、入院したい旨、申しあげる。      .
病気の進行とその治療というものが、病気の組織そのものにとっては、プラスとマイナスの差こそあれ、いずれにしても変化であるという先生の説明が、私を納得させてくれたせいか、その後、痛みもすこしらくになった気持である。

五月十七日(木曜日) 都立豊島病院・入院
村田先生より電話があり、豊島病院の村上先生が私の入院を快く引き受けてくださった旨、知らせてくださる。
豊島病院は、現在すでに退職されている前院長の名尾良憲先生が内科部長をされているときから、原稿依頼に何度か訪れ、また、母が脳軟化症で倒れたときにも、その死を看取ってもらった病院である。そのころ、名尾先生の下で内科医長を勤めていた村上義次先生が、現在内科部長をされている。
二時、都立豊島病院に入院する。さっそく外来で診療を受け、その足で検査室に行き、肺のレントゲン写真、検査のための血液採取などを行ない、だいぶ時間がかかってから病室に入る。
病室は北五階病棟五一六号室。豊島病院はとくにトイレ付きの個室が設けてあり、村上先生は私のためにこの部屋をあらかじめ用意してくださっていたようだ。病室は暗く、それが一人部屋だけにかえってわびしい気分がつよい。
病室に入るとまもなく、婦長と看護婦さんがみえ、年配の看護婦さんが私の病歴を聴取する。付き添っていた妻がこの看護婦さんに見覚えがあり「いつごろから勤務でいらっしゃいますか」ときいたところ、「この十年この病棟にいます」という返事である。それでは母の亡くなったときのことをご存じかもしれないと思い、妻がその旨伺う。看護婦さんの名前は奥田さん。奥田さんは、母の名前を聞き「あっ、それならよく覚えております」という。
病室で落ち着いてしばらくたったころ、町井彰先生がみえる。最初に外来で診た先生である。町井先生が私の主治医になってくださる。

五月十九日(土曜日)
豊島病院では食事ごとに熱いお茶が配られる。しかし、このお茶はそれほどうまくないので、私は持参のお茶を楽しむことにする。
思いがけなく菅野正美君が見舞いにくる。菅野君は、私が保生園に結核で療養していたときの仲間であり、いまは武蔵境で開業している医師である。二年に一ぺん、あるいは三年に一ぺんぐらいしか会わないのに、むかしの療養仲間というのはよいもので、すぐうちとけた話ができる。
私の医療制度批判に対する意見について、菅野君はよくむきになって反論してきたものだ。そんな菅野君にむかって、私が「現代の医療技術が私の病気を治してくれるときには、きみの世話にはならず、大きな病院で治療を受けるよ。けれども、もし現代の医学が治すことのできない病気になったり、病状が進んでどうにもならなくなったときには、ぼくはきみにみとられて死にたいと思うよ。そのときには、なにぶん頼むね」といい、菅野君は「どっちが先に死ぬかわかるものか」といって笑い、議論はおしまいになる。そんな言い合いがついきのうのことのように思いかえされる。
菅野君に右季肋部の痛みと右・腹のしびれについて話す。肝膿瘍の関連痛にしては、あまりにも痛みの性質がちがうような気がするともいう。菅野君は、この豊島病院産婦人科に飛松源治先生という方がおり、すでにハリ麻酔による帝王切開の症例を百例以上もっているので、痛みにたいする対症療法として、ハリ麻酔を応用するといったことも考えてよいのではないかという。「病院というところでそんなことが簡単にお願いできるとは思えない。各科の連絡はそう自由でないことぐらい、きみも医者ならよぐ知っているはずではないか」というと、「それもそうだな」といって菅野君は帰った。

五月二十一日(月曜日)
町井先生来診。先生から「パリ麻酔についての依頼を、あなたのお友だちであるという先生から手紙で伺いました」という。菅野君は、私にいちおう話したのち、私が無理だといったので、病室を出てから自分の考えをしたためると、「主治医殿」と書いた封筒に入れて、保健室に預けていったらしい。菅野君の好意に驚くとともに、私よりあらためてその話をし、入院前の菅先生のお話についても説明する。
村上先生来診。「町井先生ども相談したのですが、飛松先生のハリ麻酔をやる希望があなた自身にありますか」とあらためてきかれる。「できたら試してみたいと思います」と返事をする。
会社の江林、江花、岸一の三君が、私が手がけた『小児肥満をなおす』がようやく上梓の運びとなったということでもってきてくれる。

五月二十四日(木曜日)
村上部長と診療所の村田先生がおそろいで病室にみえた。ハリの話、これからの対策など、いろいろお話を伺ったが、村田先生の口ぶりには、やはり私の痛みには心因性の傾向がつよいと考えているらしいことが感じとれる。いずれにしてもお二人の先生におまかせする以外にないと思う。

五月二十五日(金曜日)
会社の中村、中根両君が見舞いにきてくれる。長期欠勤を詫び一万事よろしくと頼む。
消燈時、病院処方の睡眠剤と私物のネルボン一錠をのみ、注射をしてもらう。すぐ眠りに入ったが、十一時、いったん目ざめ、また眠り、さらに二時に目がさめる。こんどはまったく眠りに入れそうもないので、注射を追加してもらう。昼間は比較的がまんできる痛みが、夜になると強い。村田先生が心因性の傾向があるとお考えになるのも無理のないことだ。

五月二十八日(月曜日)
目がさめたとき、右のわき腹の痛みがあり、それに背中のふしぶしが痛い。長い時間仰臥の姿勢だけをとっているせいだろうか。肝臓の病気に出来する遠隔痛とは明らかにちがうようだ。
北海道の永浜の父が光恵と連れだって見舞いにきてくださる。

五月二十九日(火曜日)
入院以来きょうまでの就眠時の薬や注射の使用量と、その間における私の睡眠の状態を一覧表にして調べてみる。
結論は、九時の消燈時に眠ろうとするからいけないのだと思う。就眠時間を自発的にずらせてみようと考える。
夜、睡眠剤の服用と注射をうってもらう時間を十時半まで遅らせる。まもなく眠りに入ったが、四時、目がさめ、睡眠剤を一錠追加する。

六月一日(金曜日)
きょうは会社の創立記念日である。これまでの会社におけるいろいろの思い出が走馬燈のようにかけめぐる。
町井先生来診。私の訴えることはいつも同じ、夜の不眠のことである。これでは肝膿瘍の患者だか不眠症の患者だかわからない。
きょう町井先生に眠れぬ話をしたせいか、九時に注射をうってもらった後、ひじょうに痛みが弱くなり、心静かな平和な気持である。しかし、気持がよいのに、眠りに入ったのは十一時をすぎてからだと思う。
深夜、どこかの病室で患者の病状の変化でもあったのか、騒音が激しくなり、それが気になって目がさめる。気持もしだいにいらついてくる。そうすると痛みも気になりだす。

六月三日(日曜日)
光恵が菅野君のところへ呼ばれた由。菅野君が藤平健先生〔眼科医、漢方医。保健同人選書『実用漢方療法』著者〕に相談してみずから処方し、近くの薬局で調剤させたという漢方薬、芍甘草加附子をことづかったといってもってきてくれる。

六月五日(火曜日)
六時、日がさめる。栗かのこを食べ、お茶を飲む。痛みがらくである。
会社のかつての同僚であった大久保、川島両君が見舞いにきてくれる。浅田、坂ノ上両君も一緒にくる予定だったが、都合がつかず、二人だけになったという。
夕方、光恵くる。ついぐちをこぼすことが多く、しゃべった後、後悔する気持がつよい。
六月六日(水曜日)
入院して二十日、全般的にみれば痛みはたしかにやわらいでいるように思う。
光恵、夏用のガウン、カーディガンなどをもってくる。
一時、CTスキャンの検査。
夕食は光恵持参のうなぎ、全部食べた。
この三日間、排便がなく、何度もトインにいって力んだせいか、夕刻より腹痛強くなる。坐薬の下剤を頼む。十時、排便。

●―主治医から
順天堂大病院を五月十日に退院してからも、この痛みはどうしてなんだろうか、という原因を岡本さんはさらに追求するわけです。「肝膿瘍でなぜ痛みがおこるのか」。
そこで、いったん退院した時点で私に相談をかけてき、その結果、菅邦夫先生の診察を受けることになりました。菅先生からは「それは急速に肝臓の膿瘍を治療した結果である。そのために被膜が縮んでしまった。その被膜がつられて痛むのだ」「だから、急速に治療をすすめるのではなく、長期的に、入院して化学療法をやったはうがよい」というようなお話がありました。
この説明に納得して、都立豊島病院へ入院することを決めたわけです。
(保健同人診療所・村田純一郎)

●―主治医から
豊島病院へは五十四年の五月十七日に入院されました。村田先生からお話があり、一応、入院時の診断としては、肝膿瘍ということにしました。なお昭和四十九年の手術は上行結腸のミオーム(筋腫)としました。
入院されたときの体重は四五キロ、その後いちじ四七キロと増えたのですが、退院されるときは四六キロでした。とくに食事は、ご自分で頑張って食べられたようです。
入院時、型のごとく諸検査をしましたが、このとき腹部のCT スキャン(コンピューター断層撮影)で肝臓に広範囲の転移を認めました。また胸部のレントゲソ撮影で、左右の肺に円形の転移性の陰影が数か所みつかりました。
さて、これからどう治療をすすめたらよいか、ということになりました。肝臓への転移が一個だけということであれば手術ということも考えられますが、ましてや肺への転移もあるということで、手術の対象には全くならないわけです。それでは抗ガン剤はどうするかという問題になったのですが、これだけ転移が多くては、相当強い抗ガン剤を多量に使わなければいけないでしょうし、細胞に直接に働くような抗ガン剤の使用は、かえって全身状態を悪くするということで、抗ガン剤による治療はあきらめました。そういうことで、苦痛を和らげる対症療法だけしかはじめられなかったのです。
(豊島病院・村上義次)


先生方はなにか隠しているのではないか

六月七日(木曜日)
六時に目ざめ、痛みが強いので看護婦さんに湿布をしてもらう。
七時、痛みをこらえながら起床。洗面のうえお茶を飲み、くだものを食べる。朝も昼も食事は半分はどしか食べられなかった。
村上部長来診。昨日のCTスキャンの結果について話がある。
「肝膿瘍は完全に治っていないので、さらに治療を加えるつもりです。ことしの三月、四月のときのような働きながらの治療は無理でしょう。痛みについては、私どもにもよくその原因がわからないので、もうすこし検討させてはしい。夜の鎮痛剤、睡眠剤などについては、あまり神経をつかわず、欲しいときには遠慮なく看護婦さんに要求するように」というような話であった。
これは、順天堂で聞いたもの、あるいは菅先生から聞いた話とだいぶちがう。私の頭は混乱するばかりである。このとき、肝膿瘍というのは偽りで、先生方が肝臓ガンを隠しているのではないかという疑いが頭をかすめた。
例によって九時、痛み止めの注射と睡眠剤。眠れない。十二時、注射をうつ。きょうは昼から雨。どうやら梅雨に入ったような気配である。

六月八日(金曜日) ハリ治療
町井先生来診。右下腹のしびれ感が強く、それと関係あるのかどうかはわからないが、とかく便秘しがちであり、それに尿意があるのに排尿がうまくいかない旨を話す。
先生は「いちど泌尿器科で、前立腺肥大の有無を調べてみましょう」という。CTスキャンの結果については、限局されている大きな膿瘍が一つあり、これが完全に治っているかどうかは、さらに検討の必要があるという。便秘については、下剤をのんでそのために下痢があったとしても、しばらく軽い緩下剤をのみつづけたはうがよいと思うという趣旨の返事がある。
京子、好物のウニ、イクラなどをもって見舞いにくる。
四時ごろ、前ぶれなしに、突然、産婦人科の飛松先生が病室にみえ、「ようやく時間ができたので、ハリをしましょう」といってくれる。ハリ麻酔というのは、私もまったく知らないハリの方法である。私の痛みを感ずる部分、圧痛点をよく調べ、その部分にハリをさし、通電する。治療時間は約一時間。ハリをしたあとの気持はよい。

六月九日(土曜日)
以前、私が、転地療養していた房州船形の漁師であった松崎兼吉君が見舞いにきてくれる。四十年のむかし、知り合った友だが、その後漁がさびれたのを機会に、十年前に上京し、慣れないサラリーマン生活をしている。
私に相談があり、家に電話したところ、入院していると聞いたのでといって、さっそく駆けつけてくれたのである。

六月十日(日曜日)
きょうは病院も静かであり、私の痛みも比較的らくであった。
光恵、哲を連れてくる。
九時消燈時、例によって睡眠剤をのむが、暑く寝苦しく、まったく眠る気になれない。それでも完全に起きているというわけではなく、うとうとしてはいたようだ。十二時三十分、注射をしてもらい、睡眠剤をのむ。

六月十一日(月曜日)
目がさめたときは痛みが強く、洗面後、ようかんでお茶を飲んだが、それでも痛みがおさまらない。それが、七時の排便で多少らくになった。
町井先生来診。微熱があり、赤血球も少ないので、 一日おきに抗生物質を使う旨話がある。「夜の睡眠剤や鎮痛剤の使用については、どうやったらいちばんよく眠れるのかを自分で工夫し、あなたの判断で看護婦さんに遠慮なく申し出てください。肝膿瘍は比較的大きいものですが、嚢腫のようなかたちをとっているので、そう心配ありません。ただ治るのにさらに時間を要すると思います。肝機能検査その他については特別の異常はありません。排尿が困難であるという点については、あした、泌尿器科の受診をするよう依頼をしておきました」などなど、きょうはたいへん長い時間をかけて、詳しいお話を伺うことができた。
会社の土屋君が『漢方・鍼灸・家庭療法』をもってきてくれた。私は、この自分で編集した本を、ぜひ飛松先生にもお目通ししていただきたいと思う。

六月十二日(火曜日)
最初の痛みのあった季肋部とおへそを結ぶ線の下がピリピリとひどくしびれる。これを知覚異常というのであろうか。それにしてもなんとも説明のしようのない不快な感じである。
十時四十分、きのう町井先生から話のあった注射をうってもらう。今後、一日おきに実施するとのことである。
泌尿器科で受診する。前立腺にはまったく異常がないということであった。すると、この排尿困難は、睡眠剤や鎮痛剤をうったための機能異常なのか、あるいはここ数日激しくなった右下腹の知覚異常と関係があるのか、そのへんのことがひどく気になる。
誠くる。来春、大学を卒業するので、就職の件についていろいろ悩んでいるようであった。すこしでも役にたてればよいと思いながら、病院生活をしていてはどうにもならない。誠は、自分としては生産会社に入りたいという。家にいても、つい行き違いが多く、そう二人で話し合うこともなかったが、きょうはめずらしく長い親子の会話がつづいた。

六月十四日(木曜日)
六時起床。昨夜は激しい痛みであった。考えてみると、あの痛みは病気の痛みであるより、長く仰臥の姿勢をつづけていたためにおこる筋肉痛のような感じもする。そうだとすればハリが効くだろうという期待がもてる。
十時、昼間にはめずらしく激しい痛みがくる。右下腹のしびれ感とはちがった、右横腹のやや上のほうが痛む。
飯島達、優美子夫妻が見舞いにくる。持参の生のエビを昼食のおかずに焼いてもらう。たいへんおいしい。
昼食後、ともすれば眠りそうになるのを必死にがまんする。
夕食後、痛みがやわらぎ、久しぶりに本を読む。
九時、ネルボンをのみ、十時さらに病院処方の睡眠剤をのみ、注射をする。そのまま朝まで眠りに入れた。ようやく眠りに入るパターンをつかみ得たような感じがする。

六月十五日(金曜日)
四時に目がさめたが、六時までは痛みを感じながらもうとうとしてすごす。
六時、起床。例によって、洗面後、お茶を飲む。さらにバナナを食べる。朝目ざめたときの痛みは、からだをすこしこまめに動かすことでらくになる。朝食もおいしく食べることができた。
町井先生来診。「ハリはいかがですか」ときかれる。「きょうはらくになっています」と答えると、町井先生は「やはリハリが効くのかな」という。
光恵、庭の紫陽花が満開だといって大きな花をたくさんもってくる。
九時、飛松先生来診。消燈後であるにもかかわらずわざわざおいでくださったのだ。ハリ治療を十時十分を過ぎるまでつづけられた。
私は日ごろ就眠直前に排尿することがひとつの就眠儀式のようになっているのに、きょうもなかなか排尿ができない。

六月十七日(日曜日)
夕刻四時、入院以来はじめてシャワーを浴びる。
十時、睡眠剤をのみ注射をうつ。痛みがすこしもらくにならず眠れない。看護婦さんに注射が変わったのだろうかときいてみる。いつもと同じものですという返事がある。
十時五十分、看護婦さんの見回りのとき、痛みを訴える。「しばらく様子をみることにしましょう」という。しばらく様子をみましょうという以上、すこしたったらもういちど顔をみせてくれると思って待っていたが、こない。
十二時すこし過ぎたとき、インタホーンで看護婦さんを呼ぶ。若い看護婦さんがくる。準夜勤務の看護婦さんは?と尋ねると、すでに帰ったという。申し送りもなく、なにも聞いていないらしいので不愉快になった。まだ若い看護婦さんを相手にして、口にこそ出しはしなかったものの、怒りが顔につよく表われたのであろう。看護婦さんは「すいません」といって帰っていった。

六月十八日(月曜日)
きのうはほとんど眠っていないが、思いきってペッドをおり、梅干し、おせんべいでお茶を飲む。
午後三時三十分、婦長来室。昨夜の準夜勤務の看護婦さんが、失礼があったのでお詫びをしたいといって婦長さんに申し出てきたそうだ。私はあわてて、こちらこそ非礼をお詫びしなければならない旨告げる。準夜勤務の看護婦さんは、私の就眠時の経過を知っているので、しばらく様子をみましょうといったからには、三十分か一時間のうちには注射をうってもらえるものと思っていた。それが申し送りをせずに帰ってしまったうえに、深夜勤務で来室した看護婦さんがあまりに若い人であった。そんなこんなでつい注射を頼もうとする気持になれなかったのだ。われながらなんともやりきれなく、こんなことでもし若い看護婦さんたちに、私が怒っていると思われたとしたら、それはまったく私の不徳のいたすところなのである。私は婦長さんに当方の至らなさを詫び、準夜勤務の看護婦さんにも、婦長さんからその旨伝えてもらうように頼む。
夕食は光恵がもってきてくれた甘エビのさしみで、おいしく食べることができた。

六月十九日(火曜日)
きょうは、昼間眠らないように努力しようと心に誓う。午後、はじめてクーラーをつける。これも眠らないための一つの手段と考えたからだ。
きょうも九時に私物のネルボンを一錠、十時二十分に病院処方の睡眠剤をのみ、注射をうつことでうまく眠りに入れた。痛みがやわらいでいることもあるが、これで夜眠れない不快感からすこしでも解放されたとすればこんなうれしいことはない。

六月二十日(水曜日)
洗面後、お茶とケーキ、そして牛乳とリンゴを食べる。八時、朝食。見舞いのつくだ煮類が食欲を増してくれる。
天野の姉、丸橋の妹、おそろいでくる。ヒレステーキを持参。さっそくアルミ箔で包み待合室のガスであたためてもらう。昼食がおいしい。このところきょうだいの見舞いが多く、つくづく家族というものの有難さが身にしみる。
一時、肝シンチグラムの検査を行なう。検査中は横臥の姿勢を三十分つづけなければならない。はじめのうちこそなんとかがまんしていたが、検査が終わるころには痛みが猛烈に強くなり、検査をやめてはしいと思うほどであった。
四時、光恵くる。夕食はあまりすすまず、卵豆腐を食べただけであった。

六月二十一日(木曜日)
飛松先生の奥様がみえる。飛松先生は産婦人科医としてハリ麻酔による帝王切開をされているが、奥様も田無の駅前で鍼灸治療をなさっているそうである。きょうは奥様がハリ治療をしてくださる。飛松夫人の話によれば、主人のものは最近の中国式のハリであり、自分のハリは従来から日本に伝わる経穴(つば)による治療なので、すこしやりかたがちがうかもしれませんという。右側に通電によるハリ治療を行ないながら、反対側に指圧をしてくださる。たいへんに気持がよい。

六月二十三日(土曜日)
町井先生来診。私はあらためて、右季肋部の痛みだけ強くのこり、右下腹のしびれ感はすこしずつよくなっているような気がする旨の報告をする。「この右季肋部の痛みは、肝膿瘍が回復するに伴っておこる関連痛なのですか」と、かつて菅先生から聞いた話を確認しようとする。
先生は「肝機能はすべて異常がなく、私たちの検査の範囲内では、その痛みがなぜおこるかの原因はわかりません」と、率直におっしゃる。そして「おそらくこの痛みは、完全にとれるまでには時間がかかりそうに思う。痛みのコントロールをしながら、社会復帰への努力をはじめてもよいのではないか」という。退院してもいいという話が出たのはきょうがはじめてである。
きょうも、土曜日だから見舞客が多いと予想する。三時三十分、大渡順二主筆が診療所の菊池君と一緒に見舞いにきてくれる。つづいて甥の住吉晃、弟の光司が見舞いにくる。
きょうは三時三十分から七時までずうっとお見舞いのお客さまの相手をした。すこししゃべりすぎたかなと思ったが、格別痛みが強くなったわけではない。
夕食は光司持参のうなぎを食う。
いつものパターンで睡眠剤を注射してもらい、十一時ごろから眠りに入れた。三時、痛みで目がさめる。いつもならここで痛み止めの注射をお願いするのだが、きょうは眠れなくてもこのままがまんしてしまおうと覚悟をきめる。そのうち眠ることができた。

六月二十四日(日曜日) 納得しかねる点が多すぎる
十時、診療所の村田先生に電話する。私の現在の病状、あるいはいままでの病気の経過などについて納得のいかない点が多すぎる。その点について、栗原先生と村上先生にそれぞれお話を聞いていただき、それらの総合的な結論を村田先生から直接伺いたいと思ったのだ。
きょうは一日腰が痛く、それに今年最悪の気温、湿度だそうで、なんとも暑く苦しい思いがつよい。
四時三十分、哲見舞いにくる。光恵はここしばらく病院通いがつづいたために、疲れたといってやすんでいるそうだ。タオルケットをもってきてくれる。
夕食後、ふと、これまでベッドの頭のほうをすこし高くしていたのを思い出し、下げてみる。そこで愕然としたのだが、この二、三日、痛みが季肋部より右下腹、さらに腰のほうに移っていたのは、この頭を高くしていたことが原因ではないかと思ったことだ。頭を低くしたらなんとなくらくになったような気がする。
夜中二時、暑さで目がさめる。

六月二十五日(月曜日) 「結論はあと一、二か月待ってほしい」
部長回診とは別に村上先生が来診してくださる。きのう、保健同人診療所の人間ドックで順天堂大学の栗原先生にお目にかかったそうである。診療所の村田先生に、栗原先生、村上先生とそれぞれ相談してくださいと電話でお願いしたのは、ついきのうのことなのに、たまたまその相談をお願いした先生方が直接お会いになったわけである。
村上先生からは、肝膿瘍はよくなってきてはいるが、まだ完全ではないこと、痛みについては菅先生がいわれたこととだいたい同じような説明があった。つまり、痛みがとれるのには時間がかかるということだ。私は、それは二、三か月なのか、半年、一年かかるのか、それとも半永久的に痛みがのこるのか、ときく。
先生は「その質問へのお答えをいますぐできないのが残念です。もう一、二か月たてばある程度の見通しはたつと思うので、それまで待ってください」という。
先生からハリについてきかれたので、私は、 ハリが効いたのかどうかはわかりませんが、ともかく豊島病院に入院させていただいてから、明らかに痛みが軽くなっていることは確かなので、ハリもつづけていただきたいと返事をする。私からは、気になってしかたがない痛教止めの注射や睡眠剤についてあらためて質問したが、先生は、無理にがまんしないで、痛いときには、あるいは眠れないときには遠慮なく看護婦さんに申し出てください、という。
村上先生が帰られたあと、しばらくぶりに菅邦夫先生に電話をし、豊島病院に入院してからの症状の推移について報告をする。
昼すぎ光恵、誠くる。光恵や誠がいるのに、なにもせずあおむけに寝ていると、なんとなく眠けがきて、一時間以上眠ってしまう。

六月二十七日(水曜日)
六時、採血。九時三十分、胸部レントゲン撮影。
光恵、サクランボをもってくる。さっそく食べる。
町井先生来診。例によってハリの話や痛みの話のくりかえしで、先生はさぞかしあきれかえっていられるのではないかと思う。
夕食は半分しか食べられず、そのかわりサクランボをたくさん食べた。夕食後、入浴、久しぶりに髪を洗う。
ただでさえ眠れないのに、このごろは就眠前の排尿が思うようにいかず、排尿したくて排尿できないことがさらに私の入眠の障害になってくる。

六月二十八日(木曜日) 妄想にとらわれる
一時二十分から、飛松夫人のハリ治療。奥様のハリはたいへん気持がよく、ハリをしている最中に十分ほど眠ってしまった。
光恵が夏用のパジャマ、クッギーなどをもってくる。バンツやパジャマのひもが下腹のしびれにつよい違和感をあたえるので、パジャマのひもを全部ゆるいゴムに換えてもらう。
九時二十分、私物の睡眠剤ネルボンをのむ,十時、眠れず睡眠剤をもらい、注射をうってもらう。それでも眠れず、二時五十分、かさねて注射をうってもらう。十時過ぎからこのときまで、私はほとんど眠っていないつもりであったが、看護婦さんは、「巡回のときにはいびきをかいておやすみになっていました」という。やはり眠ったり起きたりをくりかえしていたのであろう。じつはこの間、私は、私の病気がほんとうは肝膿瘍ではなく、肝臓ガンではないのかという妄想にとらわれていた。いろいろの事実をくりかえし思い返し、先生の話や自分の症状を、肝膿瘍を肝臓ガンと置き換えて考えなおしてみると、このような疑いがどうしても生まれてくる。

六月二十九日(金曜日)    ・                        朝の行事いつものごとし。朝食のあと大量の排便がある。気持がよい。また一時間ほど眠ってしま
った。
十二時、光恵くる。昼食後、光恵に新聞の切り抜きをしてもらいながら、自分は読書しているつも
りで寝てばかりいたようだ。
昨夜の、自分がガンではないのかという妄想の話をする。私の話を聞いている光恵の目から涙がこ
ばれた。
私はこの涙で、妄想がじつは事実そのものではないかという気持をすこしつよくした。 
六月三十日(土曜日)
五時、日ざめと同時に洗面をし、お茶を飲む。六時、さらに牛乳を飲み、ブドウを食べ、ケーキまで口にする。朝食も完全に食べた。
昼食後、廊下で村上部長とばったり出会う。「相変わらず痛むようですね」といういたわりの言葉がある。私は「きょうはたいへんらくなのです」と答える。先生は「やはり波があるものですよ」という。

七月一日(日曜日)
五時三十分に目がさめる。昨夜は五時間と眠っていない。一日おきに熱睡できる夜と眠れない夜がくる。昨夜は近来にない不快な気持ですごした夜であった。六時三十分、起床、洗面、お茶を飲み、牛乳を飲む。日曜日恒例のパンの朝食を全部食べ、ついている牛乳もたいらげた。
天野の奈々子、飯島の優美子、丸橋の京子と三人の女の姉妹がそろって見舞いにきてくれる。それぞれがいろいろのおみやげをもってきたので、その後始末に困るのではないかというぜいたくな心配をする。私を見舞ったあと、二人は新宿でお中元の買物をするのだそうだ。
昼食はお見舞いの寿司、冷やっこなどでおいしく食べた。ラジオで日米野球をききながらいつのまにか眠ってしまう。
夕食は病院の食事をきれいに食べ、グレープフルーツ一個もたいらげる。ちょっと食べすぎた感じもする。
九時二十分、病院支給の睡眠剤と私物の睡眠剤をのむが眠れない。結局、十一時三十分、看護婦さんに痛み止めの注射をうってもらう。なんとか鎮痛剤をやめようという作戦が裏目に出て、夜中に目がさめ、眠りそこなってしまう。しかし、昼間二時間近い昼寝をしているのであるから、これもやむを得ないのかもしれない。

●―主治医から
六月頃から、はっきりと右の側腹部から背面にかけて、手掌大以上の大きさでガンの浸潤による抵抗がみられました。背中にさわると明らかに固いわけです。岡本さんはそうとう気にされましたが、私どもは「肝膿瘍が外へ出て癒着したのでこういうふうになった」という説明で納得してもらうよりほかありませんでした。
岡本さんは痛みに非常につよい方で、一日じゅう痛いのですが、昼間はなるべくがまんするのだといっておられました。
毎日のむ薬としてはガスを調節する薬(ガスコン)、腸のけいれん止め(トランコロン)、鎮痛剤(ポンタール)などを処方、あとは夜眠れないということなので睡眠剤(ベンザリン、ユーロジン)を、あまり痛いときにはインダシン坐薬を使用、そしてとても痛くてかなわないというので、夜はソセゴンを毎日、というぐあいでした。
六月八日から、これは岡本さんの友人で武蔵境で開業しておられる菅野先生のすすめと、ご本人の希望もあって、ハリ麻酔をはじめることになりました。ハリをはじめてからは、まあまあらくになったという話でした。
そうこうするうちに、奥様がおみえになって、どうしても丸山ワクチンをしてはしいといわれる。そこで、岡本さんにはこれを"抗生物質"だということにして、六月十二日から行ないました。
各種の鎮痛剤と睡眠剤を用い、それではとても止まらないということで、いちばん強い鎮痛剤であるソセゴンをうち、そのうえにハリ麻酔をし、さらに丸山ワクチンを使ったわけですが、これらのことで痛みはある程度よくはなりました。ですが、まだ相当痛むようでした。
ハリ麻酔は六月八日から二十八日まで、六回やったあと、状態に変わりがないということでやめました。
(豊島病院・村上義次)